第1話 伊藤下宿の住人たち⑧ 完


「ごめんね真由。起こしちゃった?」


「ううん。トイレに行ったら声が聞こえたから……気になって」


 現れたのは小早川だった。ルームウェア姿で眼鏡を外しているため、一瞬誰か分らなかった。

 こうして見ると第一印象とはかなり違って見える。

 長い前髪から垣間見える大きく黒い瞳は夜景のように綺麗で、小さな鼻や唇は精緻に象(かたど)られた人形のように整っている。ふんわりしたブークレー素材のルームウェアがよく似合っていて、緊張で肩肘張っていた昼間とは違ってリラックスした雰囲気を見ると無垢でおっとりした印象がよりいっそう強調されていた。

 

「そっか。体調は大丈夫? 疲れてない?」


「うん……ちょっと、疲れたかも」


「真由、今日は頑張ったもんね」


「本当だよ。俺らがもっと上手くやってれば感謝状もらえたのにな」


「ち、違うの、その……」


 俺たちの言葉に対して小早川の表情はやけに暗い。

 どうしたものかと続きを待つと、小早川は深々と頭を下げ、消え入りそうな声で言った。


「ごめんなさい……」


 思いがけない謝罪。鈴が弱々しく揺れているような声色だった。


「私のせいで、迷惑かけたから……みんなを巻き込んで、危ない目に遭わせちゃったから。一歩間違えたら、大変なことになってたかもしれないのに……」


 小早川は、拳を震わせながら振り絞るように言葉を紡いだ。ただでさえ小柄な体格が余計に小さく見える。

 俺とみずほ姉ちゃんは一瞬だけ目を合わせた。


「真由、こっちおいで」


「え……」


「そんなこともう気にすんなって。みんな無事だったんだから」


「はいこれ、まゆの分。多かったら残して良いからね」


「え、あの……うん」


 小早川はみずほ姉ちゃんに促されるがまま、遠慮がちに食卓の席に着いた。

 

「小早川、ちょっとそのままでいてくれるか?」


「……?」


 俺は身を乗り出して小早川の前髪を指ですくい、その素顔を見つめた。

 陶器のように白く滑らかな肌。あどけないながら一つ一つのパーツがバランスよく整った目鼻立ち。その中で、黒々とした大きな瞳が不安そうに潤んで輝いている。


「やっぱり似てるな」


「……うん、改めて見たら本当こばゆそっくりだね」


「でもこうして見たら小早川の方がこばゆより表情柔らかいっていうか、親しみやすい雰囲気ない?」


「え、いや、そんなことは……!」


「……口説いてるの?」


「待って。そうじゃなくて俺が言いたいのは、小早川にはこばゆにない魅力があるよねって話」


「まぁ、それはそうだね。真由には、お姉ちゃんにはない可愛さがあるもんね」


「そんなこと……ないと思うけど」


「今日のこと思い出してみろよ。小早川、明らかに自分より気の強い相手なのに犯人の女に立ち向かってただろ? あんなこと、男にだってできるやつは少ないぞ」


「そうかな……あのときは、必死だったから……」


「衣彦の言う通りだよ。真由がいなかったら、他の人にも被害が出てたかもしれないし。それを未然に防いだって意味でも、真由はすごいことをしたと思うな」


「そうそう。小早川は自分に自信がないかもしれないけどけど、少なくとも俺は今日『小早川真由』のファンになったよ」


「みずほちゃん、衣彦くん……」


 小早川は小さな声でありがとう、と言った。

 俺とみずほ姉ちゃんはそれを聞いて口元を緩める。

 小早川は自分の気持ちをちゃんと言葉にできるやつだ。その勇気さえあれば、きっとこれからいくらでも変わっていけるだろう。


「あー、やっぱり三人ともいるよお姉ちゃん」


「ちょうど良かった。みんな、プリン食べない? さっき買ってきたの」


 俺たちの話し声が聞こえていたのか、二階から美珠姉妹が降りてきた。

 潤花は片手にレジ袋を下げており、優希先輩は両手に虫かごと霧吹きを持っている。


「もうみんなとっくに歯磨いてるぞ」


「もう一回磨こ!」


「……って言ってるけど、どうします? 管理人代理」


「んー……この時間だし、ちょっと罪悪感が……」


「みーちゃん、今日のカロリーのことなんてもう忘れよ?」


「そうだよ、今日という記念すべき出会いの日はもう二度と帰って来ないんだよ?」


「ん〜〜……じゃあ……許可!」


「さっすがみーちゃん! 日本一!」


「よっ! 女子の鑑!」


「褒め方雑過ぎない?」


「え、えへへ〜、二人とも褒め過ぎ〜」


「チョロ過ぎない⁉」


 もちろんみんな俺のツッコミなんか聞いてない。あ、でも小早川はちょっと笑ってる。


「みんな好きなの選んでね。早いもの勝ちだよ」


「そういえばウル……手、大丈夫か?」


「余裕。蚊に刺されたようなもんだよ」


 絆創膏が貼られた手でレジ袋からプリンを取り出している潤花が、事もなげに肩をすくめる。

 話によると、潤花は留学していたニュージーランドで格闘技漬けの毎日を送っていたらしい。

 本人曰く『唯一負けたのは賭け試合の最中に鎮圧しにきた現地警察』だそうで、それを聞くと一撃で犯人を悶絶させる芸当をやってのけたことにも少しだけ納得……いややっぱり少しも納得できなかった。


「潤花ちゃん、ケガしたの……?」


「ううん、こんなのケガのうちに入んないよ。ほら、痛いの痛いの〜、衣彦にとんでけ〜」


「くっ、右手が……! まさか、能力(チカラ)の暴走………!?」


「ってか、真由の方こそ大丈夫? 怖かったでしょ?」


「あの時は、何とかしなきゃって必死だったから……」


「そっか〜、良かった〜」


「おい! 乗っかれや! 『それは痛い子』とか言って突っ込めや!」


「ふっ、ふふっ……!」


 重い空気にさせまいとピエロを演じた俺の渾身のボケを笑ってくれたのはまたしても大天使·小早川だけだった。隣でしれっとした顔をしているボケ殺し女も小早川のリアクションを百万回見習って欲しい。


「でも真由も大変だよね。間違えられることもあるでしょ?」


「うん。昔はよく妹と間違えられてサインお願いされたり……大変だった」


「真由ちゃんの妹さん、大人気だもんねー。月曜日のおはよう動画でブレイクしたんだっけ? あれ再生数すごいんだよね」


「私それ好き! 毎回シチュエーション違うし、彼女感あって可愛いよね!」


「みーちゃんもああやって毎朝起こしてくれたら遅刻しなくて済むんだけどなぁ」


「無理無理! っていうか潤花、入学前から遅刻前提の話やめてよ!」


「その動画俺も見たけど、みんなちょっとウェカピポのセンターっていうブランドのフィルターかかってない? いや、確かに可愛いけど、そこまで騒ぐほどでもないっていうかさ……」


「じゃあ衣彦、こばゆじゃなくて、真由に同じように起こされても何とも思わないの?」


 想像してみる。

 晴れた日の朝、躊躇(ためら)いがちに顔を覗き込んできた小早川と目が合い、俺以外の誰にもお目にかかることのできない小早川のはにかんだ微笑みを向けられた時の目覚めを。 


「…………別に、何も思わないことはないけど」


「やだー! この顔絶対変な想像してるー! 衣彦のむっつりー‼」


「やっぱり不純異性交遊なんだ⁉」


「古賀くん、早くも求愛行動〜?」


「なっ! バッ……ちげーし! 求愛行動言うな!」


「あ、そうだ求愛行動で思い出した。みーちゃん、台所借りていい? 洗いものしたいんだ」


「うん、いいよ好きに使って」


「ありがとう。虫かご洗いたかったんだよね」


「あ、あー、えっと、うん、気を付けて……?」


 求愛行動との関連性がまるでわからないせいか、みずほ姉ちゃんは見るからに混乱していた。

 

「そういえば先輩、プリンいくらでした?」


「いいよいいよ! 我が子の恩人からお金もらうなんて! みんなにも心配かけちゃったから、私の奢りにさせて!」


「もう、優希がそんな気遣わなくて良いのに〜」


「それじゃあお言葉に甘えます。ごちそうさまです」


「優希ちゃん、ありがとう……」


「うんうん、真由ちゃんもたくさん食べてゴライアスバードイーターみたいに大きくなるんだよ」


「ゴライアス……?」


「しっ。真由、聞き返しちゃダメ」


 小声で小早川をたしなめるみずほ姉ちゃんを背に台所へ向かった俺は、人数分のスプーンを戸棚から出したついでに洗いものをしている先輩の様子をうかがった。


「手伝いますか? 早くしないと全部食べられちゃいますよ」


「ううん、すぐ終わるから大丈夫。ありがとう」


「ちなみにそれ、何なんですか?」


「虫用の給水器。これの手入れを怠ると寿命に影響するからね。古賀くんも、水皿とかはマメに掃除した方が良いよ」


「へぇ……そうなんですね。そういう話、ちょっとずつ教えてもらえたら助かります」


「他にわからないことがあったら、わかるまで何回でも何百回でも聞いていいよ。同じ質問でもいいから。細かく確認して覚えていこ」


理想の上司か……? 俺が元ブラック企業の契約社員だったら涙を堪えていたかもしれない。


「古賀くん、私からも聞いていい?」


 洗い物を終えた先輩は、手を拭きながら呟いた。


「何ですか?」


「古賀くんは、どうして他人のためにそこまで頑張れるの?」


「頑張る……?」


「だって古賀くん、いくらキタローを助けるためだからって、もしかしたら取り返しのつかないことになってたかもしれないんだよ? 普通、自分の命と他人のペットを天秤にかけたら、誰だってそんな危ないことしないよ」


「いや、誰だってしますよ。家族のためなら」


「え?」


「言ってたじゃないですか、先輩。『子供みたい』って」


「……!」


「誰だって、大事な家族がいなくなったら悲しいに決まってる。だから助けなきゃって思っただけです。頑張るとか危ないとか、あのときはそんなこと頭にありませんでした」


「古賀くん……」


「それに、あの場にいたのが俺じゃなくて俺の幼馴染みたちだったら、きっとみんな同じことしてますよ。俺がしてることなんていつも、あの人たちの真似事ですから」


「……そんなこと、ないと思うんだけどな」


「いやいや、それがマジなんですよ。みずほ姉ちゃんは言わずもがな、俺が龍兄(りゅうにい)って呼んでる世界一のイケメンはバイト先で耳が不自由なお客さんたった一人のためにわざわざ手話習いに行くような聖人ですし、キャプテンっていう世界一面白いボクサーは旅行中に迷子になってたお爺ちゃんを『心配だから』って理由だけでわざわざ東京から奈良まで送りに行ってあげたんですよ? すごくないですか? それと親友の直(すなお)はめちゃくちゃツンデレでですね、口ではいっつも憎まれ口ばっかり叩いて生意気なんですけど、仲間内で何かあったら必ず心配して連絡よこしてきて──」


「こ、古賀くん……? すごい早口で説明してくれてるところ悪いんだけど、そろそろ……」


「うちの姉ちゃんは家に居場所のない悪ガキたちのためにつきっきりで勉強や空手教えたりするボランティアみたいなこともしてる時期もありましたし、あとはなんと言っても俺たちの良心・みずほ姉ちゃんはですね──」


「古賀くん! ちょっと、ストップ! ストップ! ぷっ……はは、あははははっ! 」


「何笑ってるんですか! まだ六分の一も話し終わってしてないのに!」


「わかった! もうわかったから! 古賀くんのお友達はみんな素敵だし、そんな人たちと仲良しな古賀くん自身もすっごく素敵! ──でもね、私わかっちゃった!」


 先輩はビシッと俺に向けて指をさした。


「古賀くん、めんどくさいね‼」


「俺がっ⁉」


初対面の相手に奇虫を見せて喜ぶような人に、めんどくさいって言われた!

 

「ごめん! でも、良い意味でだから安心して!」


「『良い意味で』って付けたら何でも許されると思わないでくださいよ! 俺のどこがめんどくさいんですか⁉ 自慢話のときだけ早口になるところですか⁉ 自分を棚上げして上から目線で理屈っぽいところですか⁉」


「大丈夫古賀くん! そういうところも全部含めて、古賀くんの魅力だから! 古賀くんのことを見てくれてる人、きっといるよ!」


「せめて『めんどくさい』を否定して欲しかったなぁ!」


「いいからいいから! さ! 行こ!」


 先輩は勢いのままおもむろに俺の両肩を掴み、ぐるりと無理やり後ろを向かせた。

 踵を返した俺は先輩に押し出されるままみんなが待つ方向へと促される。

 そしてその最中、背中にこつんと頭を押し付けられる感触と、ぽつり囁くような声が背後から聞こえた。


「──ありがとね。ここにいてくれて」


「へ?」


 何が、と聞き返そうとしたが、俺たちの様子に気付いたみんなの視線が一斉にこちらを向いたため、その疑問を聞くタイミングを完全に失ってしまった。


「二人とも楽しそうに何話してたのー?」


「わかったよみーちゃん! きっとお姉ちゃん、衣彦を逆ナンしてたんだ!」


「えー⁉ そんなのダメだからねー⁉」


「違うよ! 古賀くん、麦チョコと間違えてダンゴムシ食べたって言うからどんな味か聞いてただけ!」


「そんなウソよく一瞬で思いつきますね⁉ 日常的に人を陥れる手段を考えてるとしか思えない!」


「てへへ、褒められちゃった」


 ダメだ、膨張した自己愛が大気圏を突破しそうだ。

そんな俺と先輩のやりとりを見て潤花のやつは爆笑。みずほ姉ちゃんは苦笑を浮かべながら見守り、小早川はその後ろに隠れるようにこちらを覗き込んでいる。


「小早川も、今のは全部この人のホラ話だからガチで引くなよ?」


「ご、ごめん、一瞬想像しちゃって……!」


「良かったね衣彦。真由に『本当にダンゴムシ食べてそうな人』って思われてるみたいだよ」


「おい! 傲慢な偏見やめろ!」


「ち、違うよ潤花ちゃん! 衣彦くんも、違うからね……⁉」


「ほらほらみんな、おしゃべりもいいけど、早い者勝ちのプリンがなくなっちゃうよ? 私、購入者特権でなんかピンクのしゃらくさい色のプリンにする~」


「元はといえば先輩のせいですからね⁉ 俺、抹茶プリン!」


「怒りながらプリンって叫んでる衣彦、かわいい……」


「そ、そうかな……?」


「っ! ち、違うの真由! 今のはただ子供の頃の衣彦に思いを馳せてただけで、久しぶりに会ってちょっと男の子らしくなったかと思いきや子供っぽい中身はそのままの衣彦に母性をくすぐられたわけじゃ……!」


「ねぇねぇお姉ちゃん、さっきから気になってたんだけどみーちゃん持ってる黒いプリンって何味?」


「えー? 私そんなの買ってないよー?」


「えぇ? みーちゃん、それどこから持ってきたの?」


「へ? え? これ……え⁉ ウソでしょ⁉」


「み、みずほちゃん、それ……!」


 きょとんとした顔のみずほ姉ちゃんの手に持っているもの。それをよく見ると、


「あー! みーちゃんそれ、エサ! エサだよ! タランチュラの‼」


 透明なプリンカップに入ったゴキブリだった。


「嫌ぁっ‼」


「バカ! 投げ──」


 言うが早いが、みずほ姉ちゃんに放り投げられたプリンカップは勢い良く天井に当たり──中に入っていた黒い悪魔たちが、頭上から雨のように降り注いだ。


『キャーーーーーーー‼‼』


「あーーーーーーーー‼‼」



「離せぇぇぇぇぇぇえええ‼‼」


 耳をつんざくような絶叫が伊藤下宿に響く。

 活きのいいゴキブリたちが床で這い回る地獄絵図。

 俺の両腕を掴み、ゴキブリの生贄に捧げようとする悪魔の女共は、逃げようとしている俺をとんでもない握力で固定し、どんなに抵抗しても離さない。

 少しでも気を許していた俺がバカだった。

 この伊藤下宿の住人達と関わっている限り、俺に心の平穏など永遠に訪れないだろう。

 改めて確信する。


 やっぱり──女なんて、クソだ。

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