第1話 伊藤下宿の住人たち⑦


その後、警察署で事情聴取を終えた俺たちが帰宅したのは、日が暮れた頃だった。

結果として、犯人の二人組は無事にお縄となり、追跡中の俺と潤花の問題行為に関しては警察の温情で不問に終わった。


『私たち、可愛く生まれてきて良かったね』


 警察署を出て開口一番、少し前まで警官に涙目で謝罪を繰り返していたはずの潤花がけろっとした表情でそう言い放ったので、俺は思わず階段でコケそうになった。

 しかし、潤花が引ったくり現場の近くにいたライダーからバイクを(半ば強奪だったらしいが)借りることができたのも、俺たちの処罰が免れたのも、潤花だけではなく下宿生女子それぞれの切実な訴えがあったからこその奇跡だ。それを踏まえると、潤花の言う通り≪可愛い≫は最強の免罪符かもしれない。


「……っていう話だったんだけど、これ全部今日起きたことだって信じられる? 初日からいきなり詰め込み過ぎじゃない?」


 他の下宿生たちは寝静まった頃だろうか。

 夜更けになってこっそり一階の和室にやってきた俺は、伊藤下宿の前大家·伊藤秋子の仏壇の前で手を合わせながら今日の出来事を報告していた。

 七畳ほどの和室には仏壇のほか、年季の入ったタンスやリクライニングベッドが置かれ、床の間では『天下無敵』という刺繍の入った特攻服が異色の存在感を放っている。

 いつ見ても目立つな。

 俺は口角を上げながら鴨居に飾られた写真たちを眺めた。

そこには歴代の下宿生たちの写真が並べられている。どの写真に映る人たちもみんなにこやかな笑顔で、その中心には必ず秋子おばさんとみずほ姉ちゃんが映っていた。 

 第四十九期生にあたる俺たちの代もいずれはその写真に並ぶことになるはずだが、そこに秋子おばさんは映らない。

 きっと今頃、空の上から最後の下宿生である俺たちを見守っていることだろう。


「色々あり過ぎてどこから突っ込んでいいかわからないけど……俺、女難の相でもあるのかな」


 奇虫マニア。

 大型バイクを乗り回す武闘派帰国子女。

 国民的人気アイドルの双子の姉。

 女子高生管理人。

 ついでに凡夫。

『イカれた仲間達を紹介するぜ!』とライブのMCで紹介できそうなメンバーだった。


「お母さんに線香上げてくれてたんだね。ありがとう」


しばらく独りごちていると、仏間にみずほ姉ちゃんが入ってきた。

風呂上がりのせいか、まだ乾ききっていなさそうな濡れ髪が色っぽくて少しドキッとした。


「バタバタしておばさんに挨拶できなかったからさ。一応、今日の報告もかねて」


「ケガは、痛くなってない?」


「大丈夫だよ。抱きつかれたとこ以外はね」


「ごめんってば! だって本当に心配したんだから!」


「冗談だよ。わかってるって」


「優希から『警察署にいる』って電話来た時、本当にビックリしたんだからね。何事かと思った」


「いや、俺もビックリしたよ。みずほ姉ちゃんあんなに泣いてたから、過呼吸になるんじゃないかと思った。警察の人も焦ってたし」


「当たり前でしょ。衣彦、バイクから飛び降りたっていうし……」


「正直、かすり傷で済んだのは運が良かったね。ちなみに今日のことはウル……みんなの親には秘密で頼める? 一応、うちの両親にも」


「……今回だけ、特別だからね? 私も監督責任があるから、みんなには厳しくしないといけない立場もあるし。それに、衣彦も潤花も一歩間違えたら本当に危なかったんだから。これからは無茶しちゃダメだよ?」


「わかった、次は車で追いかける」


「もう! そういうとこ!」


「ははっ、ごめん。冗談言えるほど元気ってことだから」


「心配するこっちの身にもなってよね。衣彦まで何かあったら私……嫌だよ」


「……ごめん」


 伏し目がちに視線を落とすみずほ姉ちゃん。

 おばさんが亡くなってまだ日も浅いみずほ姉ちゃんのその言葉は、子供の頃から兄姉のように仲良くしている俺にとって余りにも重かった。


「あのさ……」


「ね、衣彦……ちょっと向こうで話さない? なんか目が覚めちゃってさ」


「ん。いいよ」


 陰りを晴らすように明るい口調でそう提案してきたので、俺はそれに従うまま食堂のテーブルの席に着く。

 みずほ姉ちゃんは冷蔵庫からガラスピッチャーを取り出し、俺専用のコップに中身のレモネードを注いでくれた。


「はい。ちょっと入れ過ぎたかも」


「ありがと」


 受け取りつつ、一口飲む。

 程良く甘酸っぱいレモネードはとてもよく冷えていて、喉の奥にひんやりと染み渡っていった。


「どうだった? 今日。色々あったけど、下宿のみんなとは仲良くできそう?」


「……仲良くできる気がしない。マジで」


「えー? あんなに楽しそうに話してたのに?」


「いやいや、あれは動物園の珍しい動物を見てはしゃいでただけの類だよ絶対。あの人らにとって俺なんて新種の虫とか陽キャグループでイジるためのオモチャとかナイト気取りの付きまといとか、そのレベル」


「ぷっ……あはっ、あはは! おっかし……」


「そんな笑うとこ?」


「だって衣彦、ウソつくの下手なんだもん。衣彦が本気でそう思ってないことくらい、すぐわかるよ」


「…………」


「衣彦は、あの子達たち好きにならないようにそう思い込もうとしてるだけで、本当は仲良くしたいんでしょ?」


 男が隠したがっている弱さを、いともたやすく暴く。


「誰かのためにあんなに一生懸命なあの子たちのことを、衣彦が嫌いになれるわけないって……私、知ってるんだから」


 だから嫌いなんだ。女なんて。


「……みずほ姉ちゃん、性格悪くなった? 意地悪くない?」


「私はもともと性格悪いもーん」


 介護が必要な母親と残された下宿生たちのために、あらゆる犠牲を払って伊藤下宿(ここ)を守り続けた人が、性格悪いわけないだろう。

 そんな反論も、嬉しそうに俺をからかうみずほ姉ちゃんを見ていたら、言う気が削がれてしまった。


「ねぇ衣彦。一つ聞いていい?」


「いいけど、何?」


 みずほ姉ちゃんはテーブルに頬杖をついて前のめりの姿勢になった。


「どうして、優希の虫を引き取ることにしたの?」


「あぁ、それ……」


 実は、優希先輩が連絡を取っていた相手は俺たちが買い物に出かけていた時から連絡が途絶えてしまっていたらしい。

 消息を断った理由はわからないが、優希先輩はそれを『稀にあることだから』と言って困った顔をするのみで、そいつを責めたりはしなかった。


「譲る相手がいなくなったからって、そのまま優希が飼い続ければ良いだけの話だったのに、何でわざわざそんなことしたのかなーって思って」


『この子を、飼いたい……?』


 ヒヨケムシを引き取りたいと進言した時の先輩の驚いた顔を思い出す。確かに、突拍子もないお願いだったかもしれない。


「別に……ただ、ムカついただけだよ」


「ムカついた?」


「何か理由があったのかもしれないけど、だとしても人の信頼を裏切って逃げるなんて最低だろ。先輩も裏切られてやりきれない気持ちだろうし、虫のことも……なんか、放っておけないっていうか、他人事とは思えないっていうか。なんだろう、クソみたいなやつに振り回された分、なんとかしてやらなきゃっていう……使命感? みたいな。上手く言えないけど」


「それで……見たことも聞いたこともない生き物を引き取って育てようと思ったの? あれだけ虫を嫌がってたのに?」


 先輩も似たようなことを言っていた。

 虫の中で飼育がもっとも難しいと言われるヒヨケムシを飼うと言い出した俺を、先輩は怪訝に思ったのだろう。


『古賀くんの気持ちは嬉しい……でも、古賀くんが考えてるより簡単なことじゃないよ。生き物を育てるって、餌をあげて可愛がることじゃないの。命の責任を負うことなんだよ』


 出会ってから初めて見た先輩の真剣な眼差し。

 その時の先輩は、まるで軽はずみな言動をたしなめているかのような、静かな怒気さえ孕んでいるようにも感じた。


『それでも、この子を飼いたいと思う?』


「……うん」


 俺は、先輩への返答と同じ答えを、みずほ姉ちゃんにも返した。


「そう……優希に信頼されたんだね」


「どうかな。信頼というより、俺を試してるのかもしれないし」


「でも、今日は改めて衣彦はすごいなって思ったよ」


「そんな要素あった?」


「だって、あの子たちとたった一日でここまで仲良くなれたんだもん。すごいよ」


「何度も言うけど、仲良くなったつもりはないから」


「真由が言ってたよ。『初対面の私にあんなに優しくしてくれたのは、衣彦くんが初めて』って」


「ふぅン……?」


 ……めちゃくちゃニヤけそうだった。

 俺は鼻の下が伸びたキモい顔を晒さないよう、何でもないフリをして口元を手で覆った。


「まぁ、実際こばゆと双子だって知ってビックリしたけどね。みずほ姉ちゃんも何も教えてくれなかったしさ」


「それは優希のときと違って個人情報だもん」


「ウルには俺の個人情報垂れ流してたのに?」


「知らない間にウルとか呼んでるし……」


「あ、違っ──それは、あいつがそう呼べって言っただけだって」


「別に良いんですけどねー」


 とか言いながらすげーむくれてるじゃありませんか……。

 理不尽な態度に困惑しながらレモネードとともにその言葉を飲み込む。するとその時、居間の方から誰かが入ってくる気配がした。

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