第1話 伊藤下宿の住人たち⑥ 


「────っと、すいません!」


 走り去る女を追おうと外へ出るが、銀行に入ろうとしていた老婦人にぶつかりそうになり、慌てて避ける。

 つくづくタイミングが悪いことに苛立ちを感じながら人混みの中で女を探すと、


「か────返して‼」


 優希先輩の叫びが聞こえた。


「先輩⁉」


 人だかりを避けて先輩の方を見ると    

 ──逃げた女が、先輩のバッグを片手に、銀行の前にいた不審な男の原付きの後ろに乗り込もうとしていたところだった。


「出して! 早く‼」


「おい! 待てこらぁぁあ‼」


 ふざけんな! クソったれ!

 あらん限りの怒りを込めて叫び、走り出す原付バイクを追いかける。

 あの詐欺女、原付の男とグルにだったのか。

 他人の大切な財産────家族すら奪おうとする最低の悪事。許せない、絶対に。


「泥棒ぉぉぉぉおっ‼」


 俺はなりふり構わず車道を走り、原付バイクを追いかけた。

 全速力で足を回転させて叫び続けるが、無情にも原付きの二人組との距離は広がるばかりだ。


「────っく!」


 身体のあちこちが痛い。

 足がもつれて躓き、派手に転がったせいだった。

 すぐに立ち上がり追いかけようとするが、原付きとの距離はさらに広がっていく。   

 畜生。

 いつもこうだ。

 立ち上がると同時に湧いてきた絶望的な感情。それが俺の足に重くまとわりついたせいで走り出しが遅れた────その時、


 ドッドッドッパッドッドッドッパパッ‼


「っ⁉」


 背後から現れた大型のバイクが俺を追い越し、けたたましいブレーキ音を鳴らしながら停まった。

 呆気にとられる間もなく、バイクの運転手が俺の方を振り向く。

 無骨な装飾を施したバイクは、その細身に不釣り合いで。

 颯爽と風になびく黒髪が、見惚れるほど綺麗だった。


「衣彦! 乗って‼」

 

 潤花が、俺に向かって叫んだ。


「早く‼」


「お、おう‼」


 慌ててバイクの後部シートに乗ると、潤花は素早くクラッチを握り、ギヤを踏んだ。


「あの二人組だ! 前の‼」


「オッケー! 掴まってて‼」


 言うが早いが、バイクは一瞬で加速を始め、危うく振り落とされそうになった。

 冗談のようなスピードでぐんぐんと原付との距離が縮まっていく。

 路駐のタクシーを軽々と避け、けたたましくホーンの音を鳴らし続ける。その手慣れた運転技術は一介の女子高生とは到底思えないもので、見ているこちらが狐につままれている感覚だった。


「免許持ってんのか⁉」


「ない! けど、牧場で何度も乗ってる‼」


 こいつ、留学先で一体何を学んできたんだ。いやその前に、このイカついバイクはどこから持ってきたんだ。

 突っ込みどころを上げればキリがないが、今はそれどころじゃない。

 あっという間にバイクに追い付いた俺たちは、横をピッタリ並走して犯人に叫ぶ。


「こらーーーーっ‼ 止まれーーー‼」


「バッグ返せ! てめぇ‼」


 いくら呼びかけても、原付きのスピードは緩まる気配がない。

 すると、潤花は肩にかけていたバッグを外し、肩紐を掴んで円を描くように振り回した。


「止まれって────言ってんでしょ‼」


 潤花は振り回したバッグをカウボーイの投げ縄さながらの要領で投げ付け、原付を運転する男の首に引っ掛けた。


「っ‼」


 突然の奇襲に気が動転したのか、原付が初めて減速した。

 男の首に引っかかったバッグの肩紐はピンと伸びて張り詰め、こちらのバイクが急ブレーキでも踏もうものなら転倒は免れない状態となった。しかし、万が一そうなった時には、後部シートに座るノーヘルの女が無事では済まないだろう。潤花のやつは、それをわかってやっているのか。


「おい! それは危ねぇって!」


 そう叫んだ時、俺の横で女が先輩のバッグを片手で掴み、後ろを振り向いたのが見えた。

 まさか。

 ゾッとして背筋が凍る。


「やめ────」


 静止の言葉を言い終える前に女は先輩のバッグを────後ろに放り投げた。

 目の前の光景がスローモーションのようにゆっくり動いているように見える。

 苦虫を噛み潰したように顔を歪めている女。

 放物線を描くバッグ。

 そして脳裏を横切ったのは、鼻つまみ者の命に慈愛の眼差しを向けた、優希先輩の横顔。


「やめろーーーー‼」


 俺はバイクから飛び降りていた。

 とっさに片脚を後部シートに掛けたのが幸いして、勢い良く飛んで伸ばした手はなんとかバッグを掴むことに成功する。

 肺が浮き上がるような浮遊感が一瞬、その直後、ドツッという鈍く重い衝撃が全身を襲った。


「ってぇ!」


 アスファルトに身体を打ち付けてバウンドした俺の身体は、慣性に振り回されるまま転げ回る。天地が目まぐるしく逆転し、何度目かの回転で勢いは止まった。


「衣彦っ‼」


 ギィーーーー! ギャギャギャ‼

 前方からブレーキ音が聞こえる。

 どうやら潤花が足止めに成功したらしい。

 朧気だった意識が徐々に鮮明になってきたところで自身の五体満足を確認すると、節々は痛むがいずれも堪えられないほどの負傷はなかった。


「っぶねー………」


 鞄の中身を確認すると、ヒヨケムシも無事だったようだ。ケースの中身は土まみれになって見えにくかったが、元気に動いている。

 とりあえず無事で良かった。脱力して安堵の溜息を吐いた。


「衣彦‼ 大丈夫⁉」


 絶叫にも近い声をかけてきた潤花に、俺は手を上げて健在を示す。


「大丈夫だ!」


「良かった……!」


 まだ全身に痺れるような感覚が残っているが、ぼーっとしているヒマはない。

 俺はゆっくりと起き上がり、潤花と犯人たちの状況を確認する。


「──っ⁉」


 目の前の光景を見て絶句した。

 引ったくりの二人は、潤花によって制圧されていた。

 車道には横転した原付きの隣で男がヘルメットを押さえながら倒れていて、よく見るとバイザーの部分から素顔が露出している。

 拳大の穴が開いていた。


「動いちゃダメ! まだ痛みが麻痺してるだけかもしれないから、そこでじっと──」


「離して‼ 痛い‼」


 耳をつんざくような悲鳴が潤花の声を遮った。

 

「おい……お前……」


 潤花の足元には、背中で腕の関節を極められ、痛みで顔を歪めている女の姿があった。

 苦悶の表情で叫び声を上げている女と、まるでその存在が見えていないかのように、心配そうに俺を見つめる潤花。

 その対照的な様子が事態の異様さをより際立たせていた。


「ああああっ! はなっ──離してッ‼」


 肘から上の自由を奪われ腰をくの字に曲げたまま歩かされていた女は、その場で膝を付いて倒れ込んだ。そこへ潤花は間髪入れず、倒れた女の首を膝で踏み付けると同時に、掴んだ腕を真っ直ぐ伸ばして捻り上げた。


「────うるさい」


 一瞬、我が目を疑った。

今までずっと、子供みたいに無邪気にはしゃいでいた潤花が、まるで別人の顔つきになっていた。

 憎悪をたぎらせた声色。般若を思わせる眉間。鋭く吊り上がった眼は稲妻のように赤く血走り、今まさにその憤怒を目の前の女に叩き落とさんとばかりに殺意に満ちていた。


「うっ……い、いっ……ひっ……ぐ……!」


 苦痛に堪えられなくなったのか、女がぼろぼろと涙をこぼし始めた。

 極められた女の腕が軋むようにゆっくり傾き始める。潤花が、女の泣き顔を見て、さらに力を入れたせいだ。


「……やめろ」


「何で?」


「いいから、もうやめろ」


「嫌だよ。こいつ、ぶっ殺さないと。衣彦、死ぬところだったんだよ?」


 完全に目がすわっている。呼吸は深く、怒りで声が震えていた。このまま放っておけば本当にそれを実行しかねない。潤花の理性はどう見ても危うい状態だった。


「下宿にいられなくなるぞ‼」


 祈るような気持ちで言った。


「楽しみにしてたんだろ⁉」


 正直、この連中がどうなろうと俺の知ったこっちゃない。

 だが、潤花は、初めて会った俺に何の打算もなく、子供のように無垢な笑顔で笑いかけてくれた。

『こいつと友達になったら楽しいかもしれない』。

そう思わせてくれるやつだった。

そんなやつの居場所が奪われるかもしれかいこの事態を、黙って見過ごすわけにはいかなかった。


「っ……でも……!」


潤花の瞳が揺れ、手の力が緩む。

俺は慎重に言葉を選びながら、諭すように言う。


「俺は大丈夫だ。先輩の……ヒヨケムシも、無事だ。だからもう、いい。これ以上、先輩やみんなに心配かけるな」


「………」


大きく肩で息を吸い、じっと俺を見つめる潤花。俺もその大きな瞳から決して目を逸らさなかった。


「……お父さんとお母さんに、バレたらどうしよう」


 やがて、しおらしい声で呟いた潤花は、そっと女の腕から手を離した。

 さっきまでの鬼の形相とは一転して、叱られた子犬のように不安気な表情。憑き物が取れたとはまさにこんな状態のことを言うのだろう。それを見てようやく、張り詰めた緊張感が解けた気がした。


「不可抗力で納得してくれればいいけどな……」


 後先考えずに立ち回っている間は意識していなかったが、冷静に思い返すと俺たちの追跡は弁解の余地がないほど危険な手段だった。当然ながら、俺の方もそんなことが両親や姉にバレたら何をされるかわからない。ただ、一つだけ確信を持って言える。


「けど、お前がいてくれたおかげで救われたやつだっているんだ。もし誰かに責められたら、俺が何度だって言ってやるよ。お前は悪くないってさ」


「…………」


遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。

いつの間にか周囲に人だかりができていて、俺たちは車道の真ん中で多くの野次馬に見守られながら対峙していた。


「……ウル」


やがて、潤花はポツリと呟いた。


「『お前』じゃなくて『ウル』って呼んで」


少し拗ねたように目を逸らす潤花。

それを見て、常人離れした美貌を持つ彼女が初めて年相応の少女に見えた。



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