第1話 伊藤下宿の住人たち⑤


「ねぇ〜、まだ〜?」


「っかしぃな……持ってきたはずなんだが。カードが……およ? えぇ……んなバカな。これほんとリアル『ええ……』案件。こんなんドジっ子属性じゃん! 生放送で振り忘れたデギーのこと笑えねぇなぁ⁉ フヒッ、デギーの降臨きたよこれ‼」


「はぁ? 通帳は?」


「いや、通帳も家なんだよな。鴻巣在住の辛いところだね、これ。オイラ今相当カオスな顔してるぜ。ったな〜……限定イベ……っく〜!」


「バッカじゃないの⁉ 今日締め切りって言ったじゃん‼ ほんと使えない‼ どうすんのさライブ‼」


 呪いが効いたのか、先に銀行に入ったカップルの女の方がATMの前で険悪な雰囲気を醸し出した。

 小早川を待ちながら会話を聞いている限りでは、どうやらカップルは『Wake up people』のファン会員限定イベントのチケット購入の段取りでモメているようだ。

 最初は妬ましさから二人に不条理な不幸が降り注ぐことを願っていたが、自業自得とはいえクソミソに罵倒される男を見ているとだんだん可哀想になってきた。特に、女の方の口の悪さには目に余るものがある。


「や、ワンチャンめろろ氏の力で通してもらえるかなと思うなどして。めろろ氏、こばゆの幼馴染みなんだもね? フフッ、奇跡の組み合わせだよね。こばゆの幼馴染みとか、人生勝ち確過ぎ」


「…………」


小早川もその二人が気になっていたようで、ATMで手続きを終えても何やら神妙な面持ちでその光景を見守っていた。


「行こうぜ」


「あ……ごめん、衣彦くん。少しだけ……待って」


「? 別に良いけど……」


 小早川はおもむろに自分のスマホに親指を走らせてから、それを耳に当てた。

誰かに電話をかけ始めたようだ。

 その間にカップルは未だに罵詈雑言と言い訳の不毛なやり取りを繰り返していた。


「あ……ごめん、今大丈夫? ……うん、移動中? そう……それで、ちょっと聞きたいんだけど……」


「バカじゃないの!? タダで取れるわけねーだろ! せっかく私が特別に取ってやるって言ってんのに何してくれんの⁉ 最悪! いいからとっとと金払えよキモオタ‼」


「や……ちょ、ちょっと待って。昨夜ね、『ガチ恋口上選手権』見終わった後に家の机置いといたはずなんだけどね……これもうわっかんねぇな〜ちっくしょ〜! やられたぜデギー! フッ」


「うん……うん、やっぱりそうだよね? そっか……いや、私じゃないの……ただ、確認だけだから……」


「笑ってんじゃねぇよボケッ! 金払うまで許さねーからな!」


 甲高い金切り声と芝居がかったわざとらしい口調が入り交じり、二人は人気の少ない行内で明らかな悪目立ちをしていた。

 こいつらはお互いの何が良くてイチャついていたんだ。金がもらえないとわかった途端に豹変して口汚く罵る女。一方で頑なに謝罪の言葉を口にしようとせず、あわよくば女のコネに甘えようとする魂胆が見え見えの男。

 かつての俺たちも傍から見てあんな風に見えていたのだろうか。

 自分の都合の良いように相手を利用したり、そうとも知らずみっともなく格好付けて空回りしたり。

 そんな薄っぺらな関係だとも知らずに、それを何より尊いものと信じて疑わなかった時期が俺にもあった。

誰かのために胸を張って頑張ったって思えたのも、あれが初めてだ。

バカみたいだった。

 

「あの────!」


 唐突に聞こえた小早川の声でハッと我に返る。

 気が付くと、いつの間にか小早川が女に向かって声をかけていた。


「そのライブ、もう全部席埋まってて……特別な枠なんて、ないです」


「は?」


「だからその……う、嘘をつくのはやめてください……!」


 女のこめかみに青筋が浮かんだのを見て、俺は二人の間に割って入る。

 すると案の定、女は小早川に詰め寄ろうとドスを聞かせた声で叫んだ。


「っせーなブス! てめぇに関係ねぇだろ!」


「はー、これだから一般ピーポーは。あのね、めろろ氏はあのこばゆとコネがあるわけですよ。君みたいな部外者とはワケが違うんですよ、ワケが。フッ」


 こいつら、小早川が大人しいと思って好き勝手言いやがって……!

 頭に来た俺はここぞとばかりに言い返してやろうと息を吸うと、


「部外者なんかじゃありません……!」


 小早川が突然眼鏡を外し、鼻先近くまで伸びていた前髪を手でかき分け、初めてその瞳をあらわにした。


「私────当事者です……!」


「っ……⁉」


「な……!」


 ガシャンッ、と男が手にしていたスマホが地面に落ちた。


「こひょっ────こ、こば! こばゆっ⁉⁉」


 一見すればただ前髪の長い芋ジャージの女。

 その素顔を見て、その場にいた全員が言葉を失った。

 今やテレビや雑誌で見ない日はない。

 街中の至るところで聞こえる自身のヒットソングは九年連続シングル総売上日本一の記録を樹立。

 そこにいたのは、現代の日本人なら誰もが知っている『Wake up people』のセンター、≪月曜日の天使≫こと、小早川実由そのものだった。


「私は……この人のことを知りませんし……ライブのことだって……さっき、空席はないって、確認しました……! お金、払っちゃダメです……!」


「あっ、あっ……う……っ! こば……っ! んっ!」


 口をパクパクさせながら削岩機のごとく首を上下に振る男。目の前に推しのアイドルがいる現実に理性が追いついていないのか、瞳孔は開きっぱなしでダラダラと汗を流していた。

 無理もない。俺だって、さっきまで普通に話していた小早川が国民的人気アイドルと瓜二つの顔をしている事実がにわかに信じ難いのだ。


「なぁ、当の本人がこう言ってるけど……あんた、この人に何を払わせようとしてたんだ?」


 俺は平静を装いながら、苦虫を潰したような顔で小早川を睨みつける女に言う。この女のしようとしていることは立派な詐欺だ。


「くっ……!」


「め、めろろ氏……? ちょ、こ、これ……どゆこと? ね、めろろ氏?」


「………ぇな」


「ひょ?」


「っせぇなキモオタ‼」


「おっふ!」


「っぶね!」


 激昂すると同時に、女が男を突き飛ばすと、走って逃げ出した。

 俺は女の後を追おうとするが、動線上に勢い良く吹っ飛ばされた男がこちらに倒れ込んできたため、慌ててその体を受け止めた。


「くっ……おい! 大丈夫か!?」


「っひゅ、うっ……こばひゅ……!」


 大丈夫ということにしておこう。

 俺は苦悶の表情を浮かべる男の返事を待たずに脇にどけ、入口に消えた女を捕まえるべく走り出す。


「すまん小早川! ちょっと行ってくる!」


「衣彦くん……!」


 去り際に小早川と目が合う。

 前髪から覗くつぶらな瞳が不安気に揺れていた。

 きっと、本当は怖かったんだろう。 


「心配すんな!」


 俺は小早川にピースサインを向け、逃げた女の背中を追う。

 気休めにもならないかもしれないが、それでも小早川を不安にさせたくはなかった。




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