第2話 始動、ハニカム計画①
一度でいいから、かけっこで一番になりたかった。
だれよりも速くゴールしたら、どんな気持ちなのか。
みんなは、どんな顔をしてくれるのか。
それがどんな景色なのか、見てみたかった。
……姉ちゃんがいつも見ている景色だ。
姉ちゃんだけじゃない。
みずほ姉ちゃんも。
龍兄も。
キャプテンも。
直も。
みんな一番になったことがある。
なったことがないのは、おれだけだ。
「なぁに衣彦、泣いてんの?」
「っ……! ぐすっ……だって……!」
下宿の食堂には、おれと秋子おばさんしかいなかった。
台所に立つおばさんの後ろが明るい。
窓から夕日が差し込んでいた。
丸くぼんやりとしたそのオレンジ色は、シャボン玉みたいな円がいくつも重なって、ゆっくり揺れていた。
「おれ……! しょ、初心者なのに! ふっ……!」
もうすぐ帰らなきゃいけない時間なのに。
涙が止まらなかった。
「みんな……最初っから……えっぐ……バカにするつもりで……っ!」
信じた自分がバカだった。
『サッカーの特訓』って言うから。
習い始めたばっかりだから、少しでもみんなに追いつきたくて。
早く、龍兄みたいになりたくて。
だけどあいつらは違った。
『下手くそ』って、おれを笑うためだけにサッカーに誘ってきたんだ。
「衣彦」
甘い匂いがした。
おばさんがココアの入ったマグカップを持ってきてくれた。
おばさんはテーブルにカップを置くと、そのままおれの前にしゃがみこんで、椅子に座っているおれをやさしく見つめてきた。
「おばさん、そいつら全員ぶっ殺──ぶっ転がしてあげよっか?」
「いっ……! いい……!」
おれは袖で涙をぬぐいながら首をふる。
今、絶対『ぶっ殺す』って言おうとした。
止めなかったら、おばさんなら本当にやりそうだった。
「だって、お、おれが……っ」
思い出して、また涙がこぼれてきた。
「おれがへたくそなのは……っ! 本当だもん……!」
頭がいたい。鼻があつい。息がくるしい。
なんでこんな思いをしなきゃならないんだ。
なりたいものになろうとしただけだ。
それだけなのに、こんなにみじめな思いをするなら──いっそのこと、みんなから離れてしまえばよかった。
そんなこと、できるわけがないのに。
「それが衣彦をバカにしていい理由にはならないよ」
「ぐず……でも……」
「えいっ」
「わっ……ぷ」
ふいに顔が熱くなった。
おばさんの両手が、俺のほっぺたを包んでいた。
たぶん、ココアで手をあたためていたんだろう。
やわらかくてやさしい、そんなあたたかさだった。
「よく我慢したね。えらいぞ」
「っ……!」
おばさんはいつも、おれの味方だった。
「うぐっ……あっ………あぁ……わぁああああん! えふっ! あぅっ! うあぁぁあん‼」
情けなくて、みっともないくらい声が出た。
下宿の人たちに聞こえてしまう。
みずほ姉ちゃんも帰って来るかもしれない。
泣き止みたいのに、また涙があふれてきた。
喉から漏れる声が、止まらなかった。
「ほらー、泣くな泣くな。泣いたらいい男が台無しだぞー?」
「だ、だって……いっ……えぅっ……!」
「衣彦たちは将来、どんな大人になるんだったの?」
「て……てんかむてき……」
「でしょ? いい衣彦? 『天下無敵』は、誰でも簡単になれるもんじゃない。でもね、あんた達の中で一番『天下無敵』に近いのは、衣彦だよ」
「なんで……そんなの、ウソだよ」
「ウソじゃないよ。ほら」
おばさんはおれの額を親指でそっとなでた。
そこには、一、二センチくらいの傷あとがある。
「これが証拠」
「…………」
その傷は、昔みずほ姉ちゃんをいじめたやつに、石で殴られたときにできた傷だった。
砂場で遊んでいたみずほ姉ちゃんを泣かして、取っ組み合いのケンカになったのだ。
「『天下無敵』っていうのは、誰かを守れる強さのことだよ。衣彦がいなかったら今のみずほはいないし、龍も、将悟も、直も、みんな友達になれなかった」
おばさんはにっと笑った。
「わかる? 衣彦が勇気を出したから、みんなの居場所ができたんだよ」
「わ……っ」
また泣きそうになって、くちびるをぎゅっとかんだ。
「わがっ……わかんないっ、けど……っ!」
力いっぱい目を閉じる。
涙が止まるように、歯をくいしばった。
「お、おれも、てんかむてきになれたら……みんなみたいに、なれるかな……?」
ふるえる声を、ふりしぼった。
「自分のこと……! みんなみたいに、すきになれるかな……⁉」
「なれるよ」
──ポン、と力強く。
おばさんがおれの両肩に手を乗せた。
「衣彦なら、絶対になれる」
おばさんはおれをまっすぐ見つめて、微笑んだ。
「衣彦のその気持ちは、いつか必ず、形を変えて衣彦のところに戻ってくるから」
この世には、特別なやつと、そうじゃないやつがいる。
最初から特別なやつ。
がんばって特別になるやつ。
なれないやつ。
でも……
「それまで、ずっと見てるからね、衣彦」
おれはこの日、思ったんだ。
誰かが自分のことを見てくれている限り、それはきっと誰かにとっての、特別な存在なんだって。
気が付いたら、涙が止まっていた。
目の前のくもりが晴れた気がした。
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