第1話 伊藤下宿の住人たち③
「あ、衣彦、あのね──」
「管理人さん? あの部屋、なんなんですか? 同じ階にあんなめちゃくちゃな虫飼ってる人いるなんて聞いてないんですけど? ビビってうんこ漏れそうになったんですけど?」
俺は台所にいたみずほ姉ちゃんを発見するなり、つかつかと速足で詰め寄った。
後ろめたい気持ちはあったのか、勢いに気圧されたみずほ姉ちゃんはおろおろと狼狽しながら、視線を泳がせる。
「それは、その……あとで話そうと思って」
「あとで⁉ 入居当日に⁉ 今さら引き返せないタイミングで⁉」
「……ごめん。最近、まだバタバタしてて。言おうとは思ってたんだけど……もし、衣彦が『そんな所に住めない』って言ったらどうしようって思ったら、怖くて」
「いや、それはさ……」
「衣彦がそんなことを言う子じゃないっていうのは、わかってる。でも……どうしても不安で、言いにくかったの……ごめん」
消え入りそうな声色でそう言われると俺としてはそれ以上何も言えなくなる。
みずほ姉ちゃんは、我が身可愛さで情に訴えるような真似をする人じゃない。
本当に余裕がなくて、怖かったのだ。
それだけの理由がみずほ姉ちゃんにはある。
「……架空の俺じゃなくて、現実の俺を見てよ。苦手なものがあるからって、俺がみずほ姉ちゃんを置いて逃げたりするわけないだろ」
「衣彦……」
「今度からそういうのはちゃんと言ってくれよ。俺もみずほ姉ちゃんが何でも話せるように、ちゃんと聞くようにするからさ」
聞いていたところで、どの道虫にはビビりまくっていたと思うが。
「っていうか、何か用事あったんじゃないの?」
「あ、そうだ、ごめんね。ちょっとおつかい頼みたいの」
「良いよ、何でも言って」
「さっき卵買い忘れちゃったから一パック買って来て欲しいのと、銀行でこの通帳、記帳してきてくれる?」
「記帳ってしたことないんだけど、本人じゃなくてもできるの?」
「うん。ATMに入れるだけでできるから。はい、これ。ポイントカードも渡しとく」
「わかってると思うけど、こういうのは簡単に他人に預けたりしない方がいいよ」
「わかってる。だから衣彦に預けたの」
そう言ってみずほ姉ちゃんはふっと微笑んで目を細めた。
その穏やかで慈愛に満ちた眼差しから、みずほ姉ちゃんが少しの疑いもなく俺を信頼してくれているのが伝わった。
幼馴染みの母性的な表情を目の当たりにして、俺は軽い驚きと同時に一瞬の胸の高鳴りを自覚する。
「……うん。何かあったら連絡するよ」
「ありがとう。よろしくね。それとね、もう一つ……」
「みーちゃーん! ちょっとお姉ちゃんとおでかけしてくるねー!」
みずほ姉ちゃんが何か言いかけたタイミングで、二階から潤花が降りてきた。肩掛けの鞄を携え、ドアからひょっこり顔を出している。
「ちょうどよかった。潤花、今衣彦におつかい頼んだところなの。私は夕飯の用意あるから、衣彦と一緒に行ってきてくれない?」
「へ?」
「もちろん! 私も今お姉ちゃんの付き添いで駅前に行くところだったから、みんなで一緒に行こ!」
えぇ……嫌だ。
俺らさっき会ったばっかりだぞ?
この陽キャ、自分の世界に他人っていないのか? 女と……ましてあんなノリの姉妹と買い物なんて絶対疲れるに決まっている。気を遣って俺なんか誘わなくていいから姉妹水入らずで行けばいい。そう言おうとした。なのに、
「私、こういう生活すっごく楽しみにしてたんだ! 最近まで留学してて全然友達いなかったから、下宿のみんなに会えて嬉しい!」
キラキラした目でこっち見んなよ……こっちはこれ以上お近づきになりたくないんだよ。そこまで無邪気に喜ばれたら断るのに罪悪感湧くだろ……。
「潤花……!」
え? 泣いてる? 今ので?
みずほ姉ちゃんは口元を押さえながらうるうると涙目になっていた。感受性の女王かよ。勘弁してくれ、このままじゃ否が応でも一緒に行くハメになってしまう。
「あー、俺は……」
「衣彦! これ! 余ったおつりでみんなの好きなの買ってきていいから!!」
俺の発言を食い気味に被せてきたみずほ姉ちゃんがバンッと机に叩きつけたのは、皺ひとつ無い綺麗な万札だった。
ウソだろ。俺は一言も一緒に行くなんて言ってないはずなのに、もう行くことが決定事項になっている。
これで誘いを断ろうものなら、俺をハブいた下宿生のSNSグループで「あいつ協調性ないよね笑」の開会宣言から始まる第一回陰口選手権が催されそうだ。不本意ながら、離脱は諦める他に選択肢はなさそうだった。
「わーい! みーちゃんありがと! みーちゃんの分も何か買ってくるね!」
「よろしくね、潤花。真由(まゆ)にも声かけてあげて」
「真由?」
「バスで話した子だよ。衣彦と潤花と一緒の、新一年生」
「あぁ……あの……」
そういえばそんな話をしていた。
これ以上女が増えるのは勘弁願いたいところだが、どうせ俺への忖度はないのだろう。
「よーっし、そうと決まればいざ小早川(こばやかわ)家だね。衣彦、行こ!」
「あー、わかった。わかったから落ち着いて。みずほ姉ちゃん、とりあえず行ってくる」
「うん、いってらっしゃい。真由とも仲良くしてあげてね」
みずほ姉ちゃんから通帳と万札を受け取り、屠畜場(とちくば)に連れて行かれる牛のような心境で美珠妹の後に付いていく。
「お姉ちゃーん! 衣彦も一緒に買い物行くってー!」
「さすが古賀くん! フットワーク軽いね!」
「はは……気持ちは不運(ハードラック)っす」
玄関で待っていた先輩の手には、誰でも知っている人気海外ブランドのキャリーバックが握られていた。
「随分良いバッグですね」
「でしょ⁉ 奮発して買っちゃったんだよね。本来は犬や猫とかの小動物に入ってもらうバッグなの」
「『本来は』?」
妙だな。さらりと気になる言葉が出て来たぞ。
「私もそういう柄のやつ欲しいなぁ。今のバッグ、思ったより紐長くてかさばるんだよね」
「それならこれと交換してあげよっか? お姉ちゃん潤花のバッグも可愛いと思ってたから」
「えー嫌だー。もげた足とか出てきそうだし」
「私の育てた子たちはそんなヤワじゃないよ! マッチョばっかりだから!」
「……それ、中に何が入ってるんですか?」
「うふふ、これはねぇ……」
よくぞ聞いてくれました、と言わんばかりの表情を浮かべて先輩がバッグのファスナーを下げると、中には見覚えのあるプラスチックケースが入っており、その中には、
ガサガサガサガサ!
黄色く平べったい体躯をした毛むくじゃらの虫が、プラスチックケースの中で這い回っていた。
「っく……!」
「じゃーん、ヒヨケムシ〜」
ド●えもんの声マネをしながら、先輩は嬉しそうにヒヨケムシとやらを掲げた。隣を見ると潤花が露骨に嫌そうな顔をしながら自分の両腕を抱いていた。危ない、その顔を見なかったら俺も同じ表情をするところだった。
「それ、本当に欲しいって言われたの? お姉ちゃんの願望が生み出した幻じゃなくて?」
「本当だってばー。これから会うんだからちゃんと本人見て確かめてよね」
「その虫、欲しい人──誰かにあげるんですか?」
危うく『欲しい人いるんですか?』と口を滑らせるところだった。
「うん。SNSで連絡来た人に譲るの。ヒヨケムシって育てるの難しいし、相手が知らない人で心配だったから何回か断ってたんだけど、たくさん勉強もしたし、必ず大事に育てるって約束してくれたから、この子を譲ることにしたの」
「なんだか娘を嫁に出す母親みたいですね……」
「今まさにそんな心境だよ。この子には、新しい場所に行っても幸せになって欲しいな。お母さん寂しいよー」
まるで赤ん坊に話しかけるような口調でヒヨケムシに語りかける先輩。
それにしても、これだけ人に忌避されている存在に対して一体何故ここまで執心できるんだろうか。
「先輩は何でそんなに虫が好きなんですか?」
「おじいちゃんが虫好きだったから、その影響かな。最初から好きだったわけじゃないんだけどね」
「え、そうなんですか?」
「そうだよ。でも、人間も一緒じゃない? 第一印象は良くなかった相手でも、ふとしたきっかけでいつの間にか仲良くなってたりとか」
「……そう言われると身に覚えがあるような気がしますね」
「でしょ? それより古賀くん、見てみて。この子の顔……この顎の奥にあるちっちゃいポツポツ。これ、目なんだよ。可愛くない?」
「え、これ目なんですか? 意外とつぶらですね!」
「そうなの! 毛むくじゃらで見た目ワイルドなのに、目はこんなにくりっとしてるギャップ……たまんないよね!」
「あー、これはちょっとわかります。見た目尖ったヤンキーなのに、雨の中ずぶ濡れの捨て猫拾ってて『あれ、意外とこいつ良いやつなんじゃ……?』って思えるような眼差ししてますよ、このヒヨケ」
「だよね! そう思うよね!? 他にも可愛いところいっぱいあるんだよ⁉」
何だその反則級に可愛い笑顔は。あと三秒先輩の顔を見ると恋に落ちてしまいそうだったので、俺は強い意志を持ってヒヨケムシをガン見し続けた。
「すごいね衣彦……私なんて未だに直視できないのに」
「いや、俺もその気持ちはわかるけど……なんかこう、一度よく観察すると目が離せなくなる謎の魅力があるんだよ。マジで」
「そう……素質あるんだね」
「おい、ちょっとずつ距離開けんな」
「でもこの可愛さ、なかなか人には理解されないんだよ……」
「確かに、可哀想ですけど見た目は万人受けしないですもんね」
「そうなんだよー、私がいくら推しても潤花は全然好きになってくれないし」
「宇宙一可愛い私だって人から嫌われることもあるみたいだし、好き嫌いは仕方ないよ」
「何で伝聞系なんだよ」
一番ツッコミたい部分をグッと堪えた俺は国民栄誉賞を授与されても良い優しさだと思う。
「でも、もしかしたら好きになれるかもしれないのに、それを知らないまま敬遠しちゃうのは、やっぱりもったいないよ」
知らないままはもったいない。
先輩のその言葉が不思議と耳に残った。
俺は、この人ほど真剣に何かと向き合ったことがあっただろうか。
「……本当に虫のことが好きなんですね。お世辞抜きで、尊敬しますよ」
「えへへ……ありがと。古賀くんの言ってた通り、私にとっては子供みたいなものだからね。みんなにも好きになってもらいたいんだよね」
「お姉ちゃん、衣彦には良いけど、もう真由には見せちゃダメだからね?」
「はいはい、わかってますよー……こんなに可愛いのにねぇ?」
「ちなみにその子はどんなリアクションしてた?」
「めちゃくちゃパニクって半泣きだったよ。超可愛かった」
よし……至って正常な反応だ。そうだよ、それが俺の求めているリアクションだよ。
俺はほっとする気持ちを押し殺して「なるほど」と相槌を打った。
「で、その子の部屋は?」
「そうだ忘れてた、こっちこっち」
場所を聞いただけなのに、潤花は何故か俺の袖をちょいちょい引っ張り、部屋の前まで誘導してきた。
わざわざ連行した意味は一体何なんだという疑問を問う間もなく、潤花は躊躇いなくドアをノックする。
コンコンコンコンコン……
「お客様だよ〜!」
「シャイニングのドアぶち破るシーンのマネやめろ」
隣で腹を抱えて笑う潤花を横目に待つと、やや経ってゆっくりとドアが開く。
「はい……」
おぉ……まさか、こんなに期待通りとは……。
現れたのは、おそらく着古したのものであろうあずき色の芋ジャージを身にまとい、度の厚い瓶底眼鏡が隠れるほど前髪の伸びた小柄な女子だった。まるで座敷童のようなその出で立ちを見るに、もしも彼女が古ぼけたセピア色の写真の中に映っていたとしたら、誰も彼女が令和に生きる女子高校生だとは信じないだろう。
「おはよ。おつかいのついでにみーちゃんがおやつ奢ってくれるっていうから、真由も一緒に買い物行かない?」
「あ……えっと……」
唐突の誘いに対して、明らかに戸惑っていた。無理もない。初対面相手との距離を縮地(しゅくち)で詰めてくるような潤花とこの子では、見るからに真逆のタイプだ。
「真由さえ良かったらでいいよ。いきなりだしね」
「い……いいんですか? 行っても……」
「もちろん。だから誘いに来たんだよ」
君、俺のときと誘い方違くない?
遺憾の意を表したくなるほど優しい口調で潤花が頷く。不服だが場の空気を乱してはいけないと思い直し俺も潤花の後ろで黙って首肯した。
「そ、それじゃあ……行きます」
「やった! 嬉しい! それじゃあ私たち、玄関で待ってるから用意できたらおいで! ──あ、ちなみにこの人、新しい下宿生。ほら、自己紹介」
「あ、ども。古賀衣彦です」
「…………です」
「え、何て?」
「小早川(こばやかわ)……真由、です……すみません」
「あぁごめん。小早川ね。よろしく」
あまりにも小さな声だったため、耳をすましてやっと聞こえた。経験上、声の大きさは自信や配慮のなさに比例する場合が多い。それに当てはめると彼女は自己主張が控え目な性格だと思われる。
「ゆっくり仕度していいよ。時間気にしなくて良いから」
それだけ言い残して俺は潤花と玄関へ向かった。
これで伊藤下宿の全員と顔を合わせたわけだが……馴れ合いを捨て孤高の狼として生きる決意をした下宿生活の初日、チワワと化した狼は恐ろしい魔獣達がはびこる地獄のサファリパークへと放り込まれてしまった気分だった。
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