第1話 伊藤下宿の住人たち②


 その後、道中で延々と元カノへの愚痴をこぼしているうちに、俺たちは伊藤下宿へ着いた。


「ただいまー」


 買い物袋を片手に下げながら、みずほ姉ちゃんが慣れた動作で玄関のドアを開けたので、俺もその後に続く。


「お邪魔します」


「違うでしょ。今日からここが衣彦の家になるんだよ?」


「え、あぁ……ただいま」


「おかえり、衣彦」


 えへへ、とみずほ姉ちゃんがはにかむように笑った。

 言わせておいて何でそっちが照れるんだ。

 でもこのやり取りは少し新鮮で、釣られて俺も頬が緩む。

 なにしろ子供の頃の遊び場が、今日から俺の家になるんだ。ワクワクする。


「これ、部屋の鍵。私、これから晩御飯の準備するから、みんなとの顔合わせはその時でね。あと、何かわからないことはある?」


「しいて言うなら女心がわからない」


「衣彦には永遠にわからないと思う」


「えぇ……せめてヒントくらい」


「ダメでーす。衣彦は別にわからなくて結構でーす」


「何で?」


「なんでも。べーっ」


「……俺が何をしたっていうんだ」


 舌を出してドアの向こうへと顔を引っ込めたみずほ姉ちゃんを見送り、さっそく二階の自室まで向かう。俺の部屋は階段を上がってから左の突き当りにあった。

 渡された鍵を回して部屋に入ると、先日あらかじめ送っていた段ボール類が置いてあったので、それを開封して荷物を整理する。ひとまず先にすぐに使う着替えや日用品を取り出してから、親父のおさがりのパソコンのセッティングをする。残るはネット接続の設定だけとなったが、みずほ姉ちゃんに肝心な無線LANのパスワードを聞くのを忘れてしまった。億劫だが下に降りて聞きに行かねばならない。


「……ん?」


 部屋を出ると、突き当りの部屋のドアが開いていた。

 片付けのことばかり考えていたせいで気付かなかったが、他の下宿生も部屋にいたらしい。

 ……挨拶くらい、した方がいいだろうか。


「誰もいない……」


 無人の部屋を覗いてみると、一見して奇妙な光景があった。

 壁一面にびっしり並ぶスチールラックと、そこに所狭しと置かれた大小様々なプラスチックケース。独特な臭いと少し湿っぽい空気の中、かすかに聞こえる発泡スチロールが軋むような音がこの空間の異様さを際立たせていた。


「何だこれ……」


 透明なプラスチックケースには木片や腐葉土がぎっしり敷き詰められているのがほとんどで、何故か紙製の卵トレーが入っているものまである。

 中身は何だろうかと気になり、近くにあった一番大きな衣装ケースの中を覗き込むと、


ガサガサガサガサ!


「うぉわ⁉」


 目の前を真っ黒な影が横切った。

 俺はとっさに飛び退いたおかげで背後の壁にドンと勢い良くぶつかる。

 部屋が揺れた。

 余りにも突然の出来事に、一瞬にして心臓が早鐘を打った。


「びっ……ビビったぁ……!」


 影の正体は、体長二○センチはあろうかというムカデだった。

 赤黒い手術跡のような流線的な体躯。無数に並ぶ爪の先ほどの大きさの脚が細やかに蠢(うごめ)いているさまは、まるでその一本一本が独立して密集した別の生き物のようだ。


「これ、全部……虫なのか……?」


 改めて棚に並んでいるケースを見て、戦慄する。

 手のひらを優に超えるサイズの毛むくじゃらのクモや、背中の上に無数に蠢く白い何かを乗せたサソリ。その他、見渡すおびただしい種類の虫が視界に入る。

 さっきからカリカリ、カリカリ、と小さく何かを引っかく音が聞こえていたのは、それらの虫がケースの中で動き回っている音だった。

 控えめに言って、この部屋はヤバい。


「潤花ー? いるのー?」


「っ!」


 突然聞こえてきた瑞々しい声に、俺は身構えた。勝手に部屋に入ってしまった後ろめたさよりも、こんな恐ろしい生き物達が住む部屋の主が現れたことに動揺した。

 絶対に変人だ。休み時間に粘着的な笑みを浮かべながらグロテスクな絵を描いてはクラス中をドン引きさせているような、そんなやつに決まっている。

 俺は近付いてくる足音を聞きながらバクバクと鳴る胸を押さえ、ホラー映画の主人公さながらの心境でカウントダウンをした。

 未知との遭遇まであと三、二、一──


「あれ? もしかして君……」


 ドアの向こうから現れたのは、小柄な女の子だった。


「は? かっ……わ……」


「薄荷?」


「あっ、いやっ、その……!」


 俺は直視を避け、横目で盗み見るように彼女を見た。

 端的にいって、かなり可愛い。

 満開に咲いた花を思わせる柔和な顔立ち。宝石のようにつぶらな瞳。飾り気のない微笑みから醸し出される桜色の空気感は、まるで春の陽気が彼女の周りを包み込んでいるかのようだった。フロントにレースをあしらったキャミソールワンピースと襟付きのブラウスが女の子らしい雰囲気によく似合っていて、質の良さそうな生地や清潔感から育ちの良さが伺えた。


「ごめん、あの、勝手に入って……!」


「いいのいいの! ごめんね、ビックリしたでしょ?」


「いや! そんな! 全然!」


 挙動不審で脂汗まみれ。おまけに想定外の美少女の登場に混乱してやたら息遣いが荒い。にも関わらず、目の前の少女はそんな俺に屈託のない笑顔で話しかけてくれた。


「私、美珠優希(みたまゆうき)っていうの。今度から2年生。君は、古賀衣彦くんだよね?」


「あ、はい! すんません!」


 ちなみにここで言う『すんません』は全然年上に見えなかったのでタメ口きいてしまってすみませんの意であり、さっきから喋る前に「あ」と言っているのはスクールカーストの底辺に属するコミュニケーション弱者の枕言葉のようなものだ。


「あはは、そんなにかしこまらないでよー。みーちゃんから話は聞いてたけど、会うのは初めてだね。みーちゃんとは幼馴染みなんでしょ?」


「あ、そっす! 子供の頃から!」


「良いなぁ。私の家、転勤族だったから『幼馴染み』って関係に憧れてるんだよね。昔からずっと仲良しなのは、妹とこの子たちくらいで」


 見間違いであることを信じたかったが、優希先輩が慈愛に満ちた視線を送っている『この子たち』は、どう見てもエキセントリックなフォルムをした虫たちのことだった。


「古賀くん、虫は大丈夫?」


 もちろん、大丈夫なわけがない。

 考えてもみろ。

 先輩の言う虫とは、クワガタやカブトムシみたいな全国の少年たちから絶大な支持を集めている虫界の花形とはわけが違う、見たこともないギラギラした極彩色の毛色のタランチュラや、蛇なんじゃないかと思うくらいぶっとい体をうねうね這わせる規格外なサイズのムカデのことだ。

 万が一、こいつらが脱走して何も知らずにこの部屋で寝ている俺の顔面によじ登ろうとしようものなら、この閑静な住宅街を恐怖で震撼させるほどの悲鳴を上げる自信がある。

 俺の本能が警鐘を鳴らしている。

 この先輩とは決して関わってはならない。

 いくら可愛いからといって、この人も所詮は女。ひとたび化けの皮が剥がれれば蝶のような華やかさを持つ魔性の女郎蜘蛛に変身するに決まっている。気さくなフリをしてどんどん距離を縮めてくる無邪気な捕食者にメンタルを食い尽くされる前に、今のうちこっちから防壁を築いてやる。先手必勝。


「全然、大丈夫っす」 


 間違えた。


「ほんとに⁉ よかったぁ〜!」


 ぱぁっと花が咲いたように先輩が笑った。

 その笑顔に俺もほっこり──いや、違うだろ。どうした俺。台本とセリフがまったく逆だ。しっかりしろバカ。たかが笑顔一つに惑わされるわけには……。


「嬉しい……この部屋見て普通に接してくれた人、古賀くんが初めてだから」


 嬉しい。

 古賀くんが初めてだから。

 嬉しい。

 初めてだから……!

 その言葉を心の中で二回反芻した時、俺は数秒前に自分が何を思っていたかを忘れていた。


「ってか、俺に気なんて遣わなくて良いですよ。もう本当、なんなら虫ケラだと思ってください、ははっ」


「えー、そう? じゃあどの虫にしよっかなぁ」


 しまった、本気で虫ケラ扱いされそうだ。


「それにしても、すごいですねこれ。全部一人で飼ってるんですか?」


「うん、そうなの。世話自体は大したことはないんだけど、あれもこれもって材を揃えたら時間やお金がかって大変なんだ」


「へぇ……こんなに世話できてるなんてすごいですね。俺も昔クワガタとか飼ってましたけど、二匹飼うだけでも大変だったのに」


「そうなんだ! 古賀くんが飼ってたのって、ワイルド? 累代?」


「ワイ……? ルイーダ?」


「お店で買った? それとも採集?」


「山で捕まえたやつ、ですけど……」


「やっぱりそうだよね! ブリードも良いけど、苦労して捕まえた個体の方が愛着湧くもんね! 自慢しちゃうけど、私が昔能勢(のせ)で捕まえた子の累代、こないだ美形の部で全国表彰されて『季刊Beetle room』の表紙に載ったんだよ⁉ すごくない⁉」


「あ、ちょ、えっと……!」


「古賀くんはヒラタ派? オオクワ派? やっぱりヒラタかな? 男の子だもんね。私はギラファが好きなの! あのブレードみたいな顎をデザインした神様は本当天才だよね! 私、将来自分の家買ったら玄関にシカの角みたいにギラファの標本を飾ろっかなーとか考えちゃうもん! パプキンやタランドゥスも好きなんだけど、ちょっとマット感のある黒の質感が──」


「お姉ちゃーん。引いてるー。その人、引いてるよー」


 押し寄せる情報の津波に溺れそうになっていた俺を救ってくれたのは、俺たちの背後から聞こえてきた声だった。


「え⁉ ごめんね古賀くん! もしかして私、また一人で熱くなっちゃってた?」


「いや! 俺は気にしてないんで……!」


正直かなり助かった。お礼を言いたくなり、声の主の方を向く。


「やっぱり、優しいんだね」


 空の青さを思わせる、美しい少女だった。

 一瞬、見惚れてしまった。

 腰まで伸びた藍墨(あいすみ)のロングヘアは着物の生地のように艶やかで、長いまつ毛に縁取られたアーモンド型の瞳はキラキラと輝きに満ちている。今はカーディガンにキュロットというカジュアルな格好をしているが、ひとたびドレスにでも着替えればたちまちレッドカーペットを歩くような女優と肩を並べられる美貌を発揮するだろう。無視しようにも自然と目が追ってしまう。そんな存在感が彼女にはあった。


「お姉ちゃんの趣味知ったらみんな嫌がるのに、表に出さないなんて偉いよ」


「あ、いえ! 別に、大したことじゃ……! ほ、ほんとに……!」


 本当に綺麗だ。

 さっきから言語が小学生以下のレベルまで低下しているのは、俺がコミュ障という理由だけではなく、こんなに顔が整った女子に囲まれて話したことがなかったからで……要するに緊張しているせいだ。


「古賀くん、この子は私の妹の潤花(うるか)。古賀くんと一緒の新一年生だよ」


「よろしくっ。同い年だし、タメ口で良いよ」


 え、タメ? 雰囲気あり過ぎて全然同い年に見えない。いやでも、確かに“お姉ちゃん”と呼んでいたな。


「あー、今『全然同い年に見えない』って思ったでしょ?」


「いや、そんなことは……ちょっとしか……!」


「思ってんじゃん!」


 俺の取り乱しようがそんなに面白かったのか、妹の潤花はケタケタと笑い出した。

 そこまで面白いことを言ったわけでもないのにすごい陽気だ。俺の中の陽キャレーダーがビンビンに立っている。これから毎日こんな明るさに照らされたら日陰者の俺は耐えきれず暗く深い土の中にでも潜ってしまいそうだ。


「面白いね。みーちゃんから聞いた通りだ」


「え、何聞いた?」


「私、お姉ちゃんが下宿に入った頃からここに遊びに来てたから、色々聞いてたよ。自転車のハンドル壊れて海に落ちたとか、賞味期限が二年前のコーンスープ飲んで具合悪くしたとか」


「よりによってろくでもないエピソードばっか」


「ね、橋の上から川に飛び降りたって話は本当?」


「あー……あれね」


「すごいね! 怖くなかったの⁉」


「えっ、何で⁉ 何かあったの⁉」


「あ、違うんです! みずほ姉ちゃんの大事にしてた帽子が風で飛ばされて、それで慌てて飛び込んだから、怖いとかそういうのは全然……」


「みーちゃんのために⁉ えらーい!」


「お姉ちゃん聞いた⁉ 『みずほ姉ちゃん』だって! いいなぁみーちゃん! 羨まし過ぎー‼」


何? ここ、そういうお店?

イケメンでも金持ちでもないはずの俺がアイドル顔負けの美人姉妹からちやほや……親の顔より見たラノベの長文タイトルかよ。


「古賀くんがいれば、私達に何かあっても安心だね!」


 まずい、油断したら顔がニヤける。このままじゃこの姉妹のペースに振り回されっぱなしだ。

 思い出せ、元カノに振られた時の屈辱を。女といて楽しく思えるなんて最初のうちだけだ。今すぐ初心に帰らなければ暗黒騎士の俺が光属性に取り込まれてしまう。そうだ、女なんて──


「意外と男らしいんだね。カッコいいじゃん」


 いくら払えばいい?

 軽くウインクを返された俺の理性はあっさりとセンターラインを超え場外へと消え去った。ハートって肉眼で目視できるんだね、知らんかった。


「きぬひこー! いるー?」


 ハッとして正気に戻る。

 危うく消費者金融の地獄に片足を突っ込みそうになっている俺を救ったのは、下の階から響くみずほ姉ちゃんの声だった。

 危なかった。褒め殺しジェノサイダーの姉妹によって自分が分不相応に優れた人間だと勘違いところだった。


「あ、ごめん。言うの忘れてた。みーちゃんが呼んでたんだった」


「俺を? 何だろ」


 心当たりはないが、ちょうど良かった。俺もみずほ姉ちゃんに新たな用事ができた。


「何だろね。家賃の値上げとか?」


「初日から⁉」


「ダメだよ古賀くん。契約書はちゃんと読まないとトラブルの元になるんだからね?」


「いや、契約したの俺じゃなくてうちの親なんですけど……」


「お客さ〜ん、ちゃんとここに違約金の詳細書いてあるでしょ〜。ハンコも押してあるよね〜? どーしてくれんのこれ」


「こ、こんな大金……お願いです! 主人には! どうか主人には秘密にしてください!」


なんか小芝居が始まった!


「へっへっへ、奥さんよぉ。旦那に借金のことをバラされたくなかったら、わかってんだろ? オラッ! 壁に手ぇ付けな!」


「きゃー! レディコミの広告みたいな展開になっちゃうー!」


「俺、下行きますね」


「えー! 囚われの人妻を放置するなんてサイテー! 男子サイテー!」


「人聞きの悪い表現やめろ!」


「遅くならないうちに帰ってくるんだよー!」


「家ここですわ!」


 最近の女子高生ってみんなこんなに距離感バグってるのか?

 俺はにぎやかシスターズのハイテンションな野次を尻目にみずほ姉ちゃんの元へと向かった。

 告知義務違反の大家に一言文句を言うために。



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