◆3-2

 ハチさんは、おぎゃあと生まれた時から野良だったそうだ。

 兄弟は六匹。その中でもハチさんは一番体が大きく、強かった。だから、母猫のお乳をたっぷりともらって病気ひとつせずにすくすくと育ったって。


 生まれた場所は、壁が腐食してボロボロの小さな小屋だったそうだ。人もあまり来ず、手入れもされなかったらしい。――まあ、物置小屋ってところだろうね。


 母猫は子猫たちがある程度大きくなると、そのうちにどこかへ流れていき、帰ってこなかった。子猫たちもまた、自由に小屋から出て、最後に残ったのはハチさんと一番下の弟だけだったんだって。


 一番下の弟は、ほとんど白いんだけど、右目から耳にかけてと尻尾、脇腹にだけ黒が入った猫で、ひ弱だった。だから、どこへも行けなかった。


 ハチさんは違う。自由にどこにだって行ける。でも、なんとなく行かなかったそうだ。

 ここは居心地がいいと思ったって。


 それでも、小屋にばっかりいたんじゃ食べるものがない。ハチさんは時折、弟を連れて公園や商店街の散歩に出かけた。

 そこでは虫を追いかけたり、時にはカラスと戦ったり、刺激的な毎日だったという。

 ちょっと目を離すと、弟はカラスにからかわれて縮こまっているんだって。


 ――チキもカラスに遭遇したらつつかれそうだよね。

 ええと、それで、ハチさんはいつも弟の面倒を見ながら毎日を過ごしていたそうだ。


「お、ノラとチビじゃねぇか。また来やがったな。ほれ、昨日の晩酌の残りの笹カマ、取っといたぜ」


 商店街の入り口にいつもいる頭の白い人間の男は、いつも早口でまくし立てては食べ物をくれる。声が大きくてうるさいけれど、嫌なことはしない。多分、いい人間だったって。

 その人は、ハチさんと弟に平等に食べ物をくれた。そこで腹ごしらえをして商店街を歩く。


 にゃあ、と呼び止められて振り向くと、商店街で飼われている猫のタマキがいた。

 いわゆる茶トラ。赤い首輪に鈴をつけていて、それをリンリン鳴らしながら店の前にとめてある自転車に飛び乗る。


 にゃあ?

 もう聞いたかって、何をだ? ハチさんは首をかしげた。


 すると、タマキは難しい顔をしながらハチさんたちを見下ろした。

 最近、野良猫が狙われているんだって。

 狙われているとはどういうことだって、ハチさんは訊ね返したそうだ。


 なんだか、悪戯をする人間がいるらしくって、気をつけた方がいいよ。アタシもお店のお客さんがうちのお母さんと話しているのを聞いただけだから、それ以上は知らないけどさ。

 タマキはそう言った。


 ちなみにタマキは人間を母親だと思っている。野良猫のハチさんたちからしたら失笑ではあるけれど、まあ真実を告げて、もらわれっ子だと知った時にショックを受けるのはわかっているから、あえて言わない。


 しかし、野良猫が狙われていると。

 相手は犬か、それともトンビか?


 ハチさんは、フン、と息巻いた。この爪で返り討ちにしてやるって。

 でも、弟はその話を聞いてすっかり怯えていた。


 にゃぁぁ。

 兄ちゃんは強いけど、オイラは弱虫だもん。狙われたら勝てないよって。尻尾を引きずるほどに下げた。


 弟のそういうところがイラつくのだけど、いつも決まってハチさんは尻ぬぐいをしてしまうんだって。こいつの体が小さいのは昔からだし、今さら大きくならないのもわかっているから。

 ただし、甘やかしてばかりじゃいけない。


 にゃあ!

 勝てないって思うなら、せめて逃げ足くらいは磨いておけ! って叱ったそうだ。


 結局のところ、自分の身を守るのは自分なんだから。弱いならタマキみたいに飼い猫になればいいとは思うけれど、運よくいい人間に拾われるとは限らない。たまに、紐をつけて猫を散歩するような人間だっている。あんなのに当たったら最悪だ。



 ハチさんと弟は、そのまま商店街を歩く。


「お、ボスとブチは今日も仲良しだなぁ」

「あら、ミルクでよければ飲んでいく?」

「野良猫が我が物顔で歩くんだから、今日も平和だよなぁ」


 なんて、道行く人々が声をかけてくる。人間はやたらと猫に構いたがる習性があるらしいって?


 まあ、そこは人それぞれなんだ。犬派と猫派、この二大派閥が論争を始めると大変なことになるんだよ。最近は猫ブームなんて言われているけど、飼われているのは犬が多いんだから。

 はい、すいません。話が逸れました。続けて?


 商店街でお相伴に預かったのち、二匹は公園へ行った。この公園は緑が多く、虫もたくさんいる。狩りをして遊んだり、草の上で転がったりできるいいところだった。二匹とも公園が好きだったって。

 でも、調子に乗りすぎると、体中に変な草のトゲがくっついて取れなくなる。チクチクして痛い。

 そこは気をつけないといけないところだ。


 狩りをして、ハチさんはチョウチョを捕まえた。ハチさんの前足の下でチョウチョの翅がヒラヒラと動く。弟はそんなハチさんにいつも尊敬の目を向けていた。

 兄ちゃんはすごい! って、弟はハチさんの周りをグルグル回って遊んでいた。


 そんな時、真っ黒な服に大きなカバンを持った人間が二人やってきた。

 人間のオス。あれはまだ大人じゃない。体は大きくなってきているけど、あれはまだ大人になりきっていないんだってハチさんは知っていた。

 黒い服は二人とも同じだ。上から下まで真っ黒。丸い何かが縦に並んでいる。


「あ、クロムとオハギだ」


 ――この子供が一番変な名でオレたちを呼んでいた、と。

 あはは、感性豊かだね。その黒服って詰襟の制服だろうな。中学生か高校生かな?

 その子供のツレも呆れていた。こっちは子供にしては縦に大きかった。


「変な名前。どこかの飼い猫か?」

「ううん、野良猫。俺がつけた名前。こっちのシロクロはモノクロームだから、クロム。もう一匹は模様が牡丹餅ぼたもちみたいだろ? 牡丹餅は呼びにくいからオハギ。こいつら、よく公園にいるんだ」


 この子供はよく声を立てて笑うヤツだった。別に食べ物を施されたこともない、ただの行きずりだ。

 害はないが、利もない。ハチさんはフン、とそっぽを向く。

 特に食べるつもりもなかったチョウチョは放してやった。



 大体、毎日がこんなものだったそうだ。

 時には他の猫との縄張り争いなんかもしたけれど、ハチさんは負け知らずだったって。だから、この界隈ではハチさんがボス猫だった。だからこそ、弟も安心して過ごせたんだ。


 そのはずだった。

 でも、それは猫社会での話だ。


 いつもの日常が、ある日――。

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