◆3-3
公園で弟と二匹、遊び回っていた。虫取りに夢中になって、気づけば結構辺りは暗くなっていた。
でも、猫は暗いところでも平気だ。だから、遊びたいだけ目一杯遊んでから帰ろうと思っていた。
珍しく弟も狩りに熱が入り、いつの間にかハチさんからは見えないところにまで行ってしまっていた。ハチさんも自分がやりたいことをやって、特に弟を追いかけることはしなかったそうだ。
でも、弟がなかなか帰ってこなかった。どうしたんだろうって、さすがに少し捜しにかかった。
すると、にゃあにゃあと弟の声がした。それは弱い、か細い声で助けを求めていた。
にゃあ!
ハチさんはびっくりしたって。弟は、上の方で明るく光る柱の根元に、茶色の何かでグルグル巻きにされていた。
兄ちゃん、兄ちゃん、と弱々しく鳴く。
待ってろ、今、助けるから。
ハチさんは力強く鳴くと、牙でその茶色のものに噛みついた。
ただし、それは硬く、嫌な臭いがして、その上、ニチャニチャだった――多分、ガムテープだね、それは。
ハチさんの牙や爪では、少しめくれはするものの、完全に取り払うことはできない。それどころか、その茶色のものの欠片がハチさんの手にくっつき、振り払っても振り払っても取れなくなった。
にゃあ! にゃあ!
怒りではらわたが煮えくり返った。
誰の仕業だ。なんの恨みがあって弟にこんなことをするんだって。
兄弟でにゃあにゃあと鳴いていたら、いつもの黒い服を着た子供が来た。
ハチさんたちの状況を見て、目を瞬かせてから駆け寄ってきた。
「な、なんだこれ? 悪戯にしても悪質だな!」
その子供は持っていたカバンを放り投げ、柱に貼りつけられた弟に手を伸ばした。でも、ハチさんはこの時、とても気が立っていて、そんな子供の手を引っかいてしまったんだそうだ。
弟に触るな! って毛を逆立てて牙を剥いた。
その子供は驚いた顔をした。でも、そこで逃げ帰らなかった。手からは血が出ている。痛かっただろうに、それをグッと堪えているのがわかった。
「大丈夫、俺は敵じゃない。助けたいんだ。だから、じっとしててくれ」
弟に悪戯をしたのは人間の仕業だ。でも、この子供がやったわけじゃない。
人間にはいいヤツと悪いヤツがいる。この子供は、弟を助けてくれるだろうか。
事実、ハチさんにはどうすることもできなかった。
その子供は一度、放り投げたカバンのところに戻ると、そこから布を取り出して手に巻き、それからあとは金物を取り出した。輪っかになったところに指を入れ、子供は弟のそばにしゃがみ込む。
「怖くないから、な」
子供は金物を器用に使い、パチン、パチン、と音を立てて茶色のものを切断していく。弟はすっかり委縮して大人しかった。ハチさんはそんな光景をただ見つめながら、いつか聞いたタマキの言葉を思い出していた。
野良猫が狙われている。
もしかして、これがそうなのか、と。
なんのためにこんなことをするのか、皆目見当がつかない。
ハチさんの胸はザワザワと、言い様のない気持ちでいっぱいだったそうだ。
「……このガムテープ、毛にくっついちゃって、無理やりはぎ取ると痛いよな? 仕方ない、ちょっと毛の方を切るな?」
子供は、精一杯の優しい声をかけてくれたように思えた。その声が、心身ともに疲れた弟にとっては心強かったかもしれない。子供の膝でぐったりとしている。
茶色のものが弟の体から完全に取れた時、弟の体の毛はみっともないことになっていた。時折、あんな毛をした小型の犬がいるけれど、あんなのは嫌だなって話していたのに。
でも、これは弟のためなんだってわかった。もし、ここにこの子供が通り過ぎなかったら、弟はここから動けず、水も飲めずに干からびてしまったかもしれない。
この子供を恩人と言ってもいい。
ハチさんは、カッとなって引っかいてしまったことを詫びなければ、と子供の背中に頭を擦りつけた。
すると、子供は柔らかい声音で言った。
「クロム、お前の手にもガムテープついてる。ほら、手、出せよ」
さっき引っかいてしまったのに、子供は怒りも恐れもせずにハチさんの手を取り、茶色のベタベタを外してくれた。
にゃあ。
お前、いい人間だな。ハチさんはこの子供に最大の賛辞を送ったそうだ。
その子供と別れ、ハチさんは弟を連れて隠れ家に戻った。
弟はすっかり怯えて、プルプルと震えるばかりだった。ハチさんはそんな弟から途切れ途切れに話を聞き出したって。
あんな悪戯をした人間は、とても体が大きかったとのこと。
ネズミがいて、あれを獲って兄ちゃんをびっくりさせてやりたいと思ったんだけれど、あのネズミはおもちゃで、その人間が操っていたって。それで、そのネズミに飛びついたら、急に首根っこをつかまれて、あとはもう抵抗する暇もなくベタベタに巻かれてしまったって。
人間って、いいヒトと悪いヒトがいる。でも、ひと目でそれを見抜くのは難しい。弟はもう、すっかり人間が怖くなったと言っていた。
あの子供みたいに助けてくれたのもまた人間ではあるけれど、恐怖の方が大きかった。
弟は、隠れ家で縮こまった。まったく外に出ようとしないから、食べるものがなくなってしまう。仕方なく、ハチさんが食べ物を運んだって。でも――。
そんなのはその場しのぎにしかならない。
いつまでもこうしてハチさんが食べ物を運ぶのでは、弟はずっとこのままだ。外には素晴らしいものだってたくさんある。あの公園を駆け回った時の胸が躍るような解放感も、弟はすべて手放すつもりなのか。
それでは、野良猫である意味がないって、ハチさんはそれではいけないと考えたそうだ。
ハチさんは外で食べ物を探しながら考えた。どうしたらいいんだろうって。
「お? ボス、今日は一匹だけか? 珍しいなぁ」
なんて、人間に言われる。それくらい、弟はいつもハチさんの後ろを歩いていたんだ。
ハチさんはそれからも毎日公園へ通うことにした。それは、弟をあんな目に遭わせた人間に会うためだ。タマキには何度も止められた。危ないからよせって。
本来、本能のままに従うのなら、危ないこととは距離を取るべきだ。それなのに、敢えてその危険と遭遇しに行こうとする。
でも、それは、どうしても譲れないことだってハチさんには思えたんだね。
危険をそのままにしておいたら、安心して暮らしていけない。だから、その危険を退治しなくちゃいけないって、ハチさんは考えた。
これは野良猫たちのことだ。よい人間が猫を気遣ってどうにかしてくれるかもしれない、なんて期待をしていてはいけない。
自分たちの身は自分たちで守る。それが、野良の流儀だ。
この近辺にいた野良猫はハチさんたちだけじゃないらしい。ただ、ハチさんはボス猫状態だったから、ハチさんの縄張りには他の猫はあんまり入ってこなかったって。それでも、公園は誰のものでもない。皆が自由に過ごす場で、縄張り違いの猫たちもやってきた。
用心深い猫は、仲間内で話して危ないって感じたら公園にはしばらく寄りつかなかった。だから、その時公園をうろついていた猫は、噂を信じていないか腕に覚えがあるかのどちらかだったそうだ。
ハチさんが公園にいると、あの子供とまた遭遇した。ツレと一緒だった。
「あ、クロム。……オハギはいないのか?」
心配そうに近づいてくる。
コイツは行きずりの野良猫に過ぎない自分たちにも寄り添う、情の深い人間らしい。ハチさんは助けてくれたことを感謝しているから、食べ物なんてなくてもその子供ににゃあと挨拶に行った。
――ハチさんは義理堅いね。
「ショーゴ、前に話してた動物虐待のアレ、結局まだ解決してないんだろ?」
この子供の名前はショーゴというらしかった。
ショーゴはハチさんの頭を撫でながらうなずく。
「一応、交番でこういうことがあったっていうのは話したんだけど、その後動きもないし、おまわりさんも暇じゃないからな」
「まあ、気にはなるけど、明日からテスト週間だし。俺ら受験生だからな」
「わかってるけどさ。自分より弱いものを苛めて喜んでるゲスが許せないんだ」
「うん……」
ショーゴはやたらと正義感が強い。
弱いもの扱いされたのは癪だったけど、実際に人間に勝てるかと言われると、ハチさんだって限界はある。隙を突き、急所を上手く狙わなければ勝機はないんだ。
ショーゴは労わるような手つきでハチさんの頭を撫で続け、そうして去っていった。
それでも、ハチさんはまだ帰らなかった。しばらく待ったけれど、その日も何も起こらなかったそうだ。
弟に悪戯して、それで満足してもうやめたのだろうかって、そんな気もしてきたって。
もしそうならいい。弟は前以上に臆病にはなってしまったけど、それもそのうちに直るだろう。このまま二度と悪さをしないというのなら、ハチさんも気にせずにいてもいいだろうかって考えたらしい。
そんなふうにも思ったけれど――。
どうしてもそのまま終わるものではなかったそうだ。
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