◆2-4
その翌日のこと。
チキはとてもとても久しぶりにママに抱っこされた。いきなりだったからびっくりしたけど、すごく嬉しくて胸が震えた。
昨日、ご飯を抜いたからかな。チキがちょっと軽くなったから、抱っこしてくれたのかな。
ふさふさの尻尾が嬉しさを最大に表して大きく揺れる。ただし――。
喜びは束の間だった。
ママはチキを狭い入れ物の中にポイッと入れた。
え? 何、これ。ほとんど身動きが取れない。
にゃーあ。
ここ、狭いよ! 嫌だよ!
思わず鳴いた。でも、ママはそんなチキの声には答えず、パパに言った。
「あなた、車まで運んで頂戴。重たくって」
「……引き取り手、見つからなかったんじゃないのか?」
チキの引き取り手は見つかっていないらしい。そのことにはほっとしたけど、チキの置かれた状況はもっとひどいことになっていた。
「一応話をしに行ったのよ。そしたら、猫は生き物で、オモチャじゃない。飽きたとか世話が大変だからとか、そんな理由で捨てようとするなんてって――とかなんとか、偉そうに私に説教して来たのよ。頭にきて帰ってきたの。赤の他人に知ったようなこと言われる筋合いはないもの」
「じゃあ、どうするんだ? 保健所か?」
「保健所なんて、体裁が悪いじゃない。それに、私だって鬼じゃないの。それは可哀想でしょう。チキにも生きる権利はあるわ」
イキルケンリってなんだろう――。
チキは狭いところでわんわんと響くママの声を聞きながら、空腹と相まってどうしようもなく苦しくなってきたって。
「とりあえず、車を出して頂戴。チカが帰ってくる前に運んでおきたいの」
「……どこまでだ?」
「××××――」
チキの入った箱が揺れた。パパが運んでいるんだって、少し空いている穴から匂いがしたからわかった。
ブゥン、と変な音を立てるものに乗ったそうだ。パパとママが前にいて、チキの入った箱は後ろにある。その状態で、ママはブツブツと言った。
「だって、チカが、チキがいると勉強の邪魔をするから集中できないって言うのよ。ただでさえ吉田さんちのマナちゃんに負けてるのに、これ以上差をつけられたら困るじゃない。私、恥ずかしくて参観日に行けないわ」
「チカだって頑張っているんだから、あんまり勉強勉強って言うなよ」
「あなたはそうやって甘やかすだけなんだからいいわよね。嫌なことは全部私に押しつけて、気楽なものね」
パパは急に黙った。そうしたら、ママは大きなため息をついた。
「――大体、この猫もあなたが飼っていいって言ったんじゃない」
「だからなんなんだ?」
パパの声も不機嫌になった。そんな間にも、この乗り物は動いたり、とまったりを繰り返している。
チキは箱の中でじっと耐えていた。鳴いても、二人には何も伝わらない。それがわかったから。
ママは吐き捨てるように言ったそうだ。
「子猫の時期が長い品種ですって店員が言っていたのよ。でも、こんなに大きくなるなんて聞いてなかったわ」
「そりゃあいつまでも子猫のはずがないだろう」
「それでも、大きくなりすぎよ。可愛かったのは子猫のうちだけじゃない。チカだって、大きくなったら見向きもしなくなったし」
可愛かったのは子猫のうちだけ。
それが、皆がチキに構ってくれなくなった理由なんだろうか。
チキは、大きくなっちゃいけなかった。でも、自分では大きくなるのを止められない。
どうしたらよかったんだろう。
チキは悲しくて、やるせなくて、このまま消えてなくなりたい気持ちになったそうだ――。
チキたちがその動く乗り物から下りた時、見なくても匂いでここがチキのまったく知らないところだって気づいた。チキの入っている箱が、何か柔らかいところへ下ろされた。青臭いから、草の上かなって思ったそうだ。
しばらくして、箱が開いた。開いた先には、いつのもお皿にたっぷりと盛られたご飯があった。
でも、空には黒くて怖いカラスが飛んでいる。チキは怖気づいた。
「ほら、出なさいよ。昨日は餌をあげなかったんだから、お腹空いてるでしょ? これ、食べていいのよ」
ママが箱の上を叩きながら言った。
もちろんお腹は空いている。でも、チキにはわかった。
この箱を出た時が、皆との別れの時だって。
――もう、チカちゃんと会うことはない。チカちゃんはチキのことがもう好きじゃないから。
ママも、パパもだ。チキが大きくなりすぎたから、嫌われたんだ。
嫌われたチキには、別れしかない。
そこでふと、思った。
あの首輪が外された時からもう、これは避けられないことだったんだって。
目印の何もないチキが迷子になっても、ママたちはそれでよかったんだ。むしろ、帰ってこなくていいって思っていたんだ。
チキは箱から外に出た。そこは緑色の絨毯のようにして草が広がるところだった。風がヒュウッと吹き抜けた。
目の前のご飯に向けてチキは歩き、そうして食べ始めた。それをママが望んでいる。いつものご飯の味がよくわからないくらい味気なく思えたそうだ。
ママとパパは変な箱に乗って、そうしてそのままチキから離れていった。それはとても速い箱だったって。
追いかけることはしなかった。追いつけないのもわかったし、追いかけてきてほしくないのもわかったからって。
これが最後のご飯で、これを食べ終わったら、次のご飯はもうない。どうすればご飯がもらえるのか、チキにはまるでわからなかった。これからどうしたらいいんだろうって、何も考えられずにいたそうだ。
そうしたら、一匹の猫が通りかかった。
お前、美味そうなメシ食ってるなぁって、威嚇されたらしい。真っ黒で影みたいなその猫は、目つきも鋭くって、チキよりも小柄だけれど素早そうだった。
にゃ、にゃあ……。
チキは怖くなってご飯を譲ったそうだ。
すると、その黒猫は遠慮なくチキのご飯を平らげた。今まで食べたメシの中で一番美味かったって、黒猫は喜んだ。そうして、いかにも野良になりきれていないチキの事情を訊ねたんだそうだ。
ふにゃあ?
お前、馬鹿だなって言われたって。
そんな面倒クサイ人間たちと切れてよかったんだ。これからは自由なんだから、もっと楽しめって。
でも、チキはずっと人間と暮らして来たんだから、今から野良として上手くやっていく自信はないんだって正直に言った。そうしたら、その黒猫はメシの礼だと言って、ここのことを教えてくれたらしい。
そう、僕の求猫募集のことだ。
自分は野良が性に合ってるから行かないけど、お前が行きたいなら連れていってやるって。
そうして、今に至る、と。
◆
「……そっかぁ。そんなことがあったんだ。ごめんな、話すのつらかっただろう?」
なんて身勝手な人たちだろうか。僕がもし、その現場にいたら、きっと少しも冷静じゃいられなかったと思う。そんな人たちは猫だってウサギだって、もちろん犬だって――ミジンコすら飼う資格なんかない。
子猫の時期だけ可愛がって、大きくなったら関心を失うって、そういう話を聞いたことがなかったわけじゃないけど、実際に遭遇したのは初めてだった。だって、小さくても大きくても、同じ子なんだ。成長を見守ってきた子を、物を捨てるみたいに簡単に捨ててしまえる神経が僕にはわからない。
こうして動物と喋れる特技がなかったとしても、それは変わらないはずだ。
「ねえ、チキ。僕の膝へおいでよ。ナデナデしてあげる」
僕は両手を広げた。
にゃっ。
チキは、こんなにつらいことがあったのにとても素直だ。疑うこともせずに僕の膝にチョンと載った。でも、恐る恐る僕を見上げる。
重たくないかって?
「ちっとも重たくないよ」
僕はチキの頭から喉、背中、身体中をたくさんたくさん撫でた。チキはゴロゴロと喉を鳴らして嬉しそうだ。
そうして、心の傷を包むようにしてチキをギュッと抱き締める。
「チキはなんにも悪くないんだよ。それだけは確かなことだからね。つらい目に遭ったのに、人間を嫌いにならないでいてくれてありがとう。それから、ここへ来てくれてありがとう。もちろん、採用だよ」
すると、チキは僕の頬をザラリとした舌で舐めた。
にゃっ。
しょっぱいって。うん……。
にゃーあ。
「え? 僕の名前? そうだね、『店長』って呼んでくれるかい?」
にゃっ?
「テンチョ、じゃなくて、テンチョウ」
にゃっ!
「テンチョンじゃなくて、テ・ン・チョ・ウ、だよ」
にゃぁ……。
「そんなに難しいなら、テンチョでいいから謝らないで」
チキは体こそ大きくなったけど、まだまだ子供だ。そこが可愛くもあるんだけど。
ええと、名前はチキ。ノルウェージャンフォレストキャットのオス。
元飼い猫。身勝手な人間に捨てられた心の傷がある。
でも、人懐っこくてとても素直。抱っこやナデナデが大好き。
トラさんに続いて、二匹目の猫スタッフ。
僕はこの子を、ここへ来てよかったって心底思わせてあげたい――。
*To be continued*
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます