◆2-3

 それからしばらくして。

 その日は日曜日だった。日曜日には学校も塾もなくて、チカちゃんが家にいる時間は長い。


 ただ、その日はお出かけすることにしたんだそうだ。

 長い髪の毛を二つに分けてくくり、ふわふわヒラヒラした服を着ていた。

 チカちゃんの服のふわふわヒラヒラがチキの前を通り過ぎる。


 行っちゃうの? 今日は家でゆっくりするんじゃないの?

 ねえ、もうちょっとだけ家にいてよ。寂しいよ――。


 そんな気持ちで手を伸ばした。チキの手は、チカちゃんの服のヒラヒラに引っかかった。

 つい、爪が出ていたそうだ。


 ピッと小さな音がして、白っぽいヒラヒラが裂けた。それを見た瞬間のチカちゃんの強張った顔は忘れられないって。

 人間が出したとは思えないような高音の叫び声だったらしい。


「うわぁぁあんっ! お気に入りのワンピースがっ!」


 顔を真っ赤にして、チカちゃんは目から水をいっぱい出したんだって。大声で泣き叫ぶチカちゃんにママは駆け寄ると、履いていたスリッパをチキに投げつけて、聞き取れないほどの早口で色々と怒鳴った。ママがあんなに怒鳴るなんて、今までになかった。


 あのワンピースがとても『高かった』って言って怒ってる。

 高いってなんだろう? 高いところにあったの?


 その時、チキはパニックになって二階に逃げたそうだ。ママとチカちゃんの剣幕が恐ろしくって、二階の部屋の隅っこで長い間震えていたって。


 悪気はなかったけど、あんなふうに怒られたのはチキがチカちゃんの服を引っかけてしまったからだ。あれはとても悪いことだったらしい。どうしたら許してもらえるんだろう。

 それがわからないままチキは小さく丸まって震えていた。



 ――その日の夕方。

 一度出かけて帰ってきたチカちゃんの声はご機嫌だった。


「新しいワンピースもよく似合ってるわ」

「ありがとう、ママ!」


 チキは見つからないように階段からチカちゃんの様子を覗き見る。

 チカちゃんが着ていた服は、チキが引っかけてしまったものとは違っていた。同じようにふわふわヒラヒラはしていたけど、違うものだ。チカちゃんは服を取り替えて、それで機嫌が直ったらしい。


 じゃあ、チキのことももう許してくれるだろうか。

 恐る恐るチキは、チカちゃんの視界に入った。チカちゃんはチキに気づくと、フイ、と顔を背けた。


 まだ怒っている。新しい服に着替えただけではチキのことを許してくれないらしい。

 一体、どうしたらいいんだろう。

 チキはしょんぼりとしながら夜を過ごしたとのこと。



     ◆



 それからも、チキはチカちゃんと仲直りがしたくって、チカちゃんの周りをウロウロしていたそうだ。でも、チカちゃんはそれを鬱陶しそうにする。進行方向にチキがいると、時々足で蹴飛ばしたりしたって。痛くはないけど、やっぱり悲しい。


 そんな扱いにもめげず、チキはチカちゃんがソファーに座っている時に思いきって膝の上に載ってみた。昔はよくチカちゃんの膝で丸くなって、背中を撫でられているうちに心地よくて寝てしまった。どうしても、あの頃みたいに優しくナデナデしてほしくなったんだそうだ。


 でも、チカちゃんは膝の上に載ったチキを突き飛ばして怒ったって。


「何よ、あんた重たいんだから載らないでよ! デブ猫!」


 重たい。デブ。

 そうなんだろうか。

 チキが重たいから、チカちゃんの膝には載れないの――。


 じゃあ、軽くなったらまた載ってもいいのかな。ご飯を食べなかったら軽くなるよね。

 チキはそう考えて、それからしばらくご飯をあんまり食べなかったそうだ。

 ひもじいのはつらいけど、チカちゃんに嫌われたままなのはもっと悲しいから。


 しばらくの我慢だと思った。ただ、チキの食べ残したご飯を捨てるママの顔が一段と怖くなった。ゴミバケツの中に、苛立ちのあまりお皿ごと叩き込んだ。


「また残して! あんたのご飯だってタダじゃないのよ! 食べないのならもうあげないからね!」


 ごめんなさい、ごめんなさい。

 せっかく用意してくれたご飯を無駄にして、ごめんなさい――。

 チキはにゃあにゃあと謝ったけれど、ママはうるさそうに顔をしかめた。


 それからは、チキもちゃんとご飯を食べることにした。だからか、ちっとも軽くなれなかった。それどころか、もっと大きくなった気がした。


 日に日に、チキは大きくなっていた。

 これは、ご飯を我慢できなかったチキが悪いの。食べたから太ったの。


 ――あのさ、チキ。チキは決して太ってないんかいないよ。

 僕、今ね、君にすごく言ってあげたいことがあるんだけど、でも、チキの話が全部終わってからにするよ。つらいけど、続けて。



「ペットの治療費もばかにならないから、餌を食い始めたならよかったじゃないか」


 パパが食卓を囲みながらそんなことを言った。すると、ママは大きなため息をついた。


「動物病院は遠いのよ。これくらいのことでわざわざ連れていったりしないわ」


 病院ってなんだろう。チキは三人のいる食卓へ近づけなかった。誰もが、チキにおいでと言わない。手を広げて迎え入れてくれない。あっちへ行け、と来るな、と言葉にせずともそれが伝わるようだったって。


 チキは皆の言うことがわかるのに、皆はチキの言うことをわかってくれない。なんでだろう。伝わったらいいのに。いつでも、大好きだって言えるのに。


 しょんぼりとして部屋の隅で丸くなるチキの耳に、チカちゃんの声が届く。


「ねえ、今日トモちゃんの家でウサギを見せてもらったの。大人しくってすごく可愛かったよ。あたし、ウサギ飼いたいな」


 え? とチキは身を起こして目を瞬かせた。

 ウサギって何? と。

 すると、パパが苦笑していた。


「うちには猫がいるんだぞ。喧嘩するだろう?」


 えーっ、とチカちゃんが大きな声を出した。


「ウサギが飼いたいの!」


 チカちゃんが甘えた声を出す。パパはこの声にとても弱い。チカちゃんはそれをよくわかっていて、ほしいものがある時なんかは決まってこの声を出すそうだ。

 パパがこうした時にチカちゃんに勝てたことは、チキの知る限りではない。


 ウサギが何かは知らないけれど、猫のチキとは相容れないものだということだけはぼんやりとわかった。どうしよう、とハラハラしていると、ママがボソリと言ったんだって。


「……チキの引き取り手を見つけたらいいんじゃないかしら?」


 引き取り手――それは、チキを手放すということ。この家から出すと、そういう意味だ。

 あまりの衝撃に、チキは呆然としてしまったそうだ。――無理もない。


「子猫ならまだしも、成猫なんてほしがる人もいないんじゃないのか?」

「でも、血統書つきよ。高かったんだから、その辺の雑種よりはマシでしょ」


 誰もほしがらない。要らない子。

 そうなの? この家でももう要らない子なの?


 チキは気が遠くなりそうだった。

 それでも、チカちゃんは輝くような笑顔で言った。


「うん! 引き取り手探して! あたし、こんなデブ猫より、小さくて可愛いウサギの方がいい!」


 ウサギは小さくて可愛いんだ。チカちゃんは小さくて可愛いものが好き。

 でも、ずっと一緒に暮らしてきたのに。チキはチカちゃんが好きなのに、チカちゃんはチキよりもウサギがいいの?

 大きくて可愛くないチキは、この家にはいられないの?


「引き取り手がもし見つかったら、だからな」


 パパがしょうがないなぁといったふうにつぶやいた。

 チカちゃんはそれでももうウサギを飼うことが決まったかのように、両手を上げて喜んだらしい。


「やった! 絶対見つけてよ!」


 なんだか急に、目の前が真っ暗になったような気がしたって?


 うん、そうだね――ああ、トラさん。トラさんが窓辺から下りて、語るチキの背中に自分の背中を寄せて寝転んだ。

 チキは首を傾げているけれど、僕には無言でそれをするトラさんの気持ちがわかるよ。

 優しいね、トラさんは。


 それでもチキは、皆の気が変わるのを願っていた。

 長い時間を一緒に過ごしたんだから、やっぱり別れを惜しんでくれるかもしれないって。


 でも、ある日、チキはご飯を抜かれた。

 なんでだろう? 最近はもうご飯を食べ残したりしていないのに。


 ご飯がなくなってしまったのかな。足りなかったのかな。

 一日くらいなら我慢するから。いい子にしてるから。


 ご飯があたらなかった理由を、誰もチキには教えてくれなかった。

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