教えられた男
鱗で覆われた首元から剣を引き抜くと、もう慣れてしまった頭部の怠さを感じる。
「ルビルラス様がやられた!?」
「どうすんだよ! このままだと…」
「……おれ、もう無理!」
「はあ!? おい、ダラス、どこ行くんだよ!」
「…あたしも!」
「な、リッファンまで! おい、待て、待ってって! おい!」
逃げていく魔物達を眺めながら、剣にこびりついた血を払う。無骨な煉瓦造りの壁に飛沫が飛ぶと、その周囲に隠れていた非力そうな魔物達も小さな叫びを上げてソロソロと姿を消していった。
あっという間に大広間には俺と竜の死骸だけになる。先程までの騒がしさが、嘘のように静まり返っていた。
「…はあ」
溜息が響く。先ほど竜が火を噴いていたにもかかわらず、部屋は息が白くなるほど冷えている。横たわる巨体を避け、部屋の奥の扉へと向かった。
思えば遠くに来たものだ。小さな街の一教徒だった俺が、こんな魔物の根城まで足を運ぶことになるなど、思ってもいなかった。先ほど倒した巨大な竜も、旅立った頃であれば目にしただけで気を失っていた事だろう。
いつしか、魔物たちを殺すことにも慣れてしまった。それが良いことかはわからないが、昔のように躊躇もしなくなった。
ただ、ハゲの方はそうでもなかった。
魔物を殺すことに付随して、ハゲていくことにも慣れていくのかと思っていたが、こちらはいつまでたっても慣れなかった。輝きの増す頭部は、ずっと俺に新鮮な絶望を与えてくれていた。
頭部を覆う兜に触れる。硬い金属に覆われたその生え際は、すでに後頭部近くまでへ到達している。
もう、ぎりぎり人に見せられるラインは超えてしまった。
いっそ、全て剃ってしまえば、この苦しみから逃れられるのではと、何度も葛藤した。だが、俺のプライドがそれを許してくれない。
これほど未練がましく感じるのは、自分自身がかつて笑う側に立っていたからだろう。口に出したりする事はしなかったあの感情を、確かに抱いていた嘲笑うあの感情を、今度は自分が誰かに抱かれると思うと、堪らなく怖かった。
「よし、行くか」
その恐怖と比べれば、目の前の扉を押し開ける事も容易い。無骨な装飾が施された重い扉は、思っていたより軽く、すんなりと開け放たれた。
扉の先の部屋は、意外にも簡素だった。先の部屋とほぼ変わらない大きさに、四隅に置かれた燭台と入り口から真っ直ぐ続く赤いカーペット、その先に小さなテーブルの傍に大きな椅子が、こちらに背を向けているだけだった。
俺は足を踏み出す。カーペットの上を歩き、奥の椅子の前まで進んだところで、背もたれから声がかかった。
「よくぞ来た、勇者マスベルよ」
こちらが反応するより先に、眼鏡を掛けた大柄な魔物がくるりと姿を表した。手には体格とは不釣り合いな本を持っていた。
「…勇者?」
「なんだ、知らないのか? 巷の人間達はお前の事をそう呼んでいるようだぞ」
「そんな大層なものじゃない」
「謙遜するな。もっと誇れ」
推定魔王は部下に話しかけるような気やすさで、くつくつと笑う。俺は兜の中の目元を顰めた。
「あんたが魔王か?」
「そう睨まないでくれ、笑ってしまうだろう。…ああ、すまない、もう笑ってしまった」
「早く答えろよ」
「くっくっ、なんだ、急ぎか? 故郷が恋しいようには見えないがな」
愉快そうにそういうと、首元へ手をやり、コキコキ鳴らす。物が少ない室内に、小気味の良く響いた。
「ふうん、まあそうだな。ここらの者たちを管轄しているという意味では、お前の言う魔王に該当すると言える」
問いに答えた大柄な魔物、魔王は手の中の本をテーブルに置き、眼鏡を外すとハンカチで軽く拭く。燭台へ向けてかざし、汚れの有無を確認してから掛け直した。
「そうか、なら話すことはもう無い」
「血の気が多いな。もっと他愛のない話でもしようではないか」
「断る」
こちらがオームウォートを構えると、魔王は小さく両手を上げてジェスチャーする。どこか毒気の抜かれる態度だが、決して気は緩めない。
首の後ろがヒリつく感覚が、魔王の口ぶりが余裕から来ている事を教えてくれていた。
「ふぅん、取り付く島もないな。では話題を変えよう」
そんなこちらの緊張をよそに、魔王は変わらず話しかけてくる。眼鏡の向こうの瞳は、人間とそれほど変わらないように見えた。
「何故私に立ち向かうのだ? これほどまでに多くいる人間の中で、何故お前が戦っているのだ?」
魔王の問いに、俺は答える。なぜだか、不思議と息苦しかった。
「…聖剣に選ばれたからだ」
「なんだ、それだけか」
返答したとたん、魔王は失望するような視線を向けてきた。しかし、すぐにその瞳には好奇の炎が灯った。
その瞳には、見覚えがあった。
「しかしそうか、聖剣に選ばれたから、か」
人を小馬鹿にする、嘲りの視線だ。
「そのオームウォートが聖剣か、そうかそうか」
「何が言いたい」
「いいや? 何とも滑稽だと思っただけさ」
「曖昧なことぬかすんじゃない」
「権力者は曖昧な事を言うものさ。お前にも経験があるだろう?」
「……」
「だがそうだな、お前が何も知らずに死んでいくのは少しばかり心苦しい」
「………」
「だから教えてやるとしよう。その剣の真実をな」
そう言うと、魔王は徐ろに手を伸ばす。宙に向けられたそれは、握る動作を見せると小さな魔法陣が形成された。
すぐに構えていた剣を握り込み、左足を引く。臨戦態勢に入る俺を見て、魔王はまたせせら笑った。
魔法陣から小さな赤黒い粒がふつふつ漏れ出し、そして集積していく。やがて粒子は形を帯び、剣の形へと変化していった。
それは、俺の手に握られている聖剣と全く同じ形をしていた。
「は?」
「痛ましい事だ、無知は醜いな」
告げる魔王の憐れむように言う。手の中のオームウォートが、小さく震えた気がした。
「なん…で」
「なんで、か。ふっは、くく、ではお答えしよう」
いやらしく笑い、手の中で俺と同じ見た目の剣を弄びながら続ける。
「オームウォートは元々、我々の間で流通していた量産品だ」
「……………え」
聞こえたのは想定外の言葉だった。顔を少し下げる。視線の先に握られているそれは、変わらず黒光りしている。
「ああ、全く。世界とは数奇なものよな」
視線を持ち上げると、魔王は慈しむように手に持つオームウォートの刀身を撫でた。
「かつて勇者と呼ばれた男は、我々の先祖と戦い、そして勝利した。その勝利を讃えた人間どもは、彼の握っている剣がまさか奪い取った物だとは、夢にも思わなかったのだろうなあ」
愉快そうに続けると、ぱっとオームウォートを真横に放る。手から離れた聖剣と呼ばれた剣はクルクル回り、甲高い音を上げて壁に突きさった。
俺は、思わず膝をついた。
そのまま、オームウォートを床へと突き立てる。
思考が細かく分かれ、くっついてからまた散り散りになる。考えが浮かんでは消え、消えては浮かんで来た。
「あ、ああ」
「くっく、なんだ、そんなに落ち込む事か? ただ信じていた物が敵の手から溢れ落ちた産物だっただけだろう? ほら、立つといい」
自然と涙が流れる。
…ああ、ああ!!
俺は今まで、なんと愚かな勘違いをしていたのか。
俺は。俺は。私は。
「さて、せっかくだからもう一度問おうか」
何故お前は戦うのだ?
俺は、すぐに言葉を発せなかった。魔王の言葉を咀嚼するのに精一杯で、その余裕がなかった。
だから、震える手で顔の前で掌を組んで。
自分の主へ涙ながらに謝罪を口にした。
「ああ、主よ。どうか私をお許しください」
「…なるほど、そうなったか」
「私は疑ってしまいました。事もあろうに、偉大なるあなたを」
「くっくっく」
「なぜ私に、こんなあんまりな罰をお与えになったのだと。なぜ信心を燃やす意思を乱すような事をなさるのかと。本当に、あなたを信じる意味などあるのかと」
一度口を開けば、それは止めどなく溢れた。本当に己の愚かさが情けなかった。
「これは罰ではなく、試練だったのですね。」
「……ん?」
「おかしいとは思っていたのです。主はこのような下劣な武器など残されるはずがないと。信心を燃やす者に、このような無意味な罰など与えるはずがないと」
「おい、何の話をしている?」
「全ては忌まわしき蛆どもの、薄暗い呪いのせいだったのですね。ああ、本当に良かった。ええ、ええ、そうです。必ずや、必ずや…」
「……はあ、もう話になら」
剣を抜き、そして天へと振り上げる。振るった衝撃で、肉塊の腕が飛んだ。
「ぅ、があぁ?!」
「このマスベル、必ずやあなたの試練を乗り越えて見せます。どうか、お見守り下さい」
「き、さまぁ!!!」
「蛆が叫ぶな。……ああ、せっかく私の目を覚ましてくれた事を考えると、蛆は不当かな?」
「…ふ、く、くっくっ。許さんぞ? 許さんからなぁ!?」
蛆が唾を飛ばして叫ぶ姿を見ていると、先に感じていた不愉快な気分はどこかへ行ってしまった。代わりに、別の種類の不快感が湧き上がってきた。
これは怒りだ。こんな異教の肉どものせいで己の信心が揺らいでしまったことが、堪らなく許せないのだ。
「やってくれたなあマスベル!! 楽に死ねると思うなよ!!!」
しかし、寧ろ丁度良い。その怒りを向ける先が都合良く存在しているのだ。手に握る剣も、目の前の塊を切り分けるのに相応しい汚物だろう。
俺は姿勢よく立ち上がると、煩雑な動きで空を切り、掠れた調べを奏でる。
蛆は複数の魔法陣を展開し、こちらへと構えていた。室内がギシギシ軋んでいる。
「ああ、めちゃくちゃ手洗いたい……」
騒がしさを尻目に、どの教会で清めてもらうかを思案していた。
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