氷の少女とチョコレイトのおじさん。

 ☆

 

 

 灰の空を飛ぶ。

 暗褐色の翼を羽ばたかせ、降り注ぐ雨を弾きながら天を目指す。

 緩やかに、楕円を描くようにして空を昇っていく。


「……」


 ひどく、寒かった。

 頬に触れる雨が冷たい。肌を刺す風が冷たい。一人で……一人きりで飛ぶ空がこんなにも冷たく寒いなんて、思ってもみなかった。


 チョコレイトの翼は性能を発揮しきれず、少女に強風を浴びせず急な環境変化を起こさない速度で徐々に高度を上げていた。


 本当ならもっと速く空を飛べるはずなのに、上空の寒さに適応できない自分が悔しい。翼となっているチョコレイトに感謝を伝え、進路も操縦もすべて任せてただ寒さに耐える。


 ちらりと遠く小さくなった地面を見て、近づく暗い雨雲を見て。微かな緊張と共に、おじさんと空を飛んだ時のことを思い出す。


「――――」


 空を飛んだ。星色に染まった夜の空を飛んだ。

 空を見た。雲海の果てに明らむ空を見た。

 空を覚えている。全天に広がる青空を覚えている。


 記憶の中の空は美しく、一切色褪せることはない。目を奪われるほどに綺麗で、ずっと見ていたくなってしまうほどで、それでいて傍には――――傍には、いつだって温もりがあった。


 雲に入る。

 視界が悪くなる。何も見えない景色と、濡れて冷えていく身体。雨水を吸った服が重く、肌に張り付いた布が体温を奪う。


 どうしてこんなにも寒いのか。雨の冷たさだけじゃない。風の冷たさだけじゃない。心細さが、一人ぼっちの寂しさが、自分を包む温もりのない喪失感こそが寒さの理由だった。


 温もりを知らなければこんな寒さを知ることもなかった。でも、あのあたたかさを知らなければよかったとは思わない。思いたくない。

 おじさんのおかげで、わたしは誰かと一緒にいられる幸せを思い出せた。塗り潰されていた家族の記憶を、人と過ごす温もりを思い出すことができた。


 身体が震えて凍えてしまうような寒さでも、もう一度と。どうしようもないほど不器用であたたかいあの人ともう一度と思えば、内外から伝う冷気なんて気にならないくらいに勇気の熱が湧いてくる。


「――……」


 かさつく唇を舐め、目を細めて遠くを見る。ピカピカと空が光っている。

 チョコレイトの翼が警戒を促すように羽ばたきを弱めた。雲の上のさらに上。霞の空に迸る閃光。ただでさえ見通しの悪い空が分厚い雲で遮られている。


 緩く旋回してみて、今いる位置より上部全体が厚い雲に覆われているとわかった。不自然なほどの層雲と、雷光にしては音の無さが異様な光の瞬き。


「……」


 息を飲み、気後れしそうな心に気合を入れる。 

 ここからはもう安全地帯じゃない――危険な空域になる。


 魔人の光線は少女も見ていた。目で捉えられはしなかったけれど、ちゃんと対処法は考えてある。足手纏いにならないとおじさんに告げるため、胸を張れるようにと限界まで煮詰めてきた。


 不安はある。心配しかない。それでも行く。

 もう後悔したくない。後悔しない、そう決めたから。


 一歩、前へ。

 両翼に意思を伝え、全速力で深い雲に突っ込んだ。


「――――」


 目は閉じない。

 まるで濃霧にでも包まれているかのようだ。


 身体が冷えていく。心が冷えていく。――けれど、心の深奥にだけは消えない火の熱が灯っている。


「――!!」

「――?」


 最高速で雲を突き抜ける。

 おじさんの飛行には追い付けなくとも、雨を置き去りにするほどには速かった。


 貫き抜けた先は開けた空だった。周囲を雲に囲まれ、やけに風が強く雨粒がばちばちとぶつかってくる。髪がさらわれる。バランスだけは翼が自動で取ってくれたため落下することはなかった。


 浮遊するチョコレイトと、鏡のように景色を反射するチョコレイトと。それと、殺到する光の群れ。四方八方からチョコレイトに襲い掛かり、その合間を縫うように影が一つ動いていた。


「――ぃ」


 何か音が聞こえたような気もするが、全部無視して光雨の渦中に飛び込む。


 覚悟は決めた。やることは一つ。

 冷え切った心を外に押し出し、感情を形にする。


「セリーゼ……」


 雨が凍る。雲が凍る。世界が凍る。

 魔人から放たれた光線が無尽に広がる氷に乱反射し遠くへ消えていく。質量を持った光線も凝固した雲に阻まれ、届かず空に溶けていった。


 少しだけ間ができる。光が止み、空の上には雨が――氷の粒が降り始めた。


「……」


 羽ばたき、おじさんのすぐ傍へ。

 男は瞳に困惑を宿していた。なぜ?と目で問いかけてくる。


「――……」


 手帳は落ちないよう、鞄の中にしまってある。

 意思を、想いを伝えるなら文章が無難だったろうとはわかっている。今まで通り、きちんと正確に伝わる手段を使うべきだっただろう。けど、もうペンと手帳は使わないと決めた。


「……すぅ…………はぁ……っ」


 吸う息も吐く息も冷たい。全身氷にでもなってしまったかのようだ。

 深く呼吸をしながら、少女はじっとおじさんを見つめた。


 ずっと、考えていたことがある。

 どうして声が出せないのか。

 どうして呼吸はできるのか。

 どうして、掠れた音はこぼれるのか。

 どうして、どうして。


 どうして、話そうとしないのか。


 そう、そうなのだ。話せないではなく、話さない。

 最初に声が出ないと知り、諦め、それ以降本気で声を出そうと思っていなかった。声が出ないと思い込んで、事実それが正しい側面もあったけれど、全部が全部そうじゃなかった。


 声が出ないのは事実でも、声が出せないのがすべてじゃなかった。

 本当に声を出したいなら、言葉を紡ぎたいなら、もっと話そうとするはずだ。喋ろうと、声に出そうと意識して頑張ってみるはずだ。


 少女は違った。諦めて、無理だとわかって試そうとしなかった。

 声が出ないのはしょうがない。文字で意思疎通できるのだからいいじゃないか。おじさんもそれで許してくれた。今のまま、このままでいい。そう思って本気で会話しようとなんてしなかった。


 それは話せるわけがない。声が出るようになるわけがない。

 当人に喋るつもりがないのだから、喋れるようになるわけがない。


 でも。それももう終わり。そんなぬるま湯に浸かって諦めたままの自分は終わりだ。


 話そうと決めた。ちゃんと自分の口で、自分の言葉で、言いたいことは全部言い切ろうと決めた。文字列じゃどうしたって間ができてしまう。書き切るまで待ってもらわなくちゃいけない。それじゃ間に合わない。言いたいことはたくさんある。伝えたいことはたくさんある。全部伝える前に、おじさんはどこかへ行ってしまう。


 言葉にすると覚悟を決めた以上に、何より、少女自身がおじさんと話をしたかった。

 本当に、言いたいことはたくさんあるのだ。

 ありがとうも、ごめんなさいも。文字で伝えた感謝じゃ足りないくらい、この短い期間でいろんなものをもらってしまった。


 けれど、今この瞬間、何よりも少女がおじさんに伝えたいことは別だった。感謝でもなく、謝罪でもなく、願いでもなければ祈りでもなく。

 目の前にいるおじさんに、最初に言うことは。


「――――わ、たしは」


 見つめるチョコレイトの瞳が見開かれる。思ったよりするりと音が出てきて、驚きながらもぎゅっと拳を握る。短く深呼吸し、冷気を押し退けてあふれる熱のままに言葉を紡ぐ。


「わたし、はっ」


 最初に言うことは決めていた。

 本当に伝えなくちゃいけないこと。今伝えないと、一生後悔すること。


「わたしは、おじさんと、一緒がいいです」


 そっと、詰まりながらも振り絞るように伝える。


「他の誰かじゃ、嫌なんです。わたしは、おじさんだから一緒にいたいんです」


 頬を刺す雪風も今だけは痛く感じなかった。ただただ、おじさんだけが滲んだ世界に映っている。


「不幸とか、不運とか、そんなの……知りません。わたし、は。わたしは……ずっとおじさんと一緒がいいんです」


 思い出す。

 

『どうしてだろうな。……食事をして泣いている君を見た時だろうか。ただただ、泣いてほしくないと思ったんだ。泣き止んでほしい、俺の未来以上に、君の方が大事だと思えた』

 

 声を、言葉を、表情を。

 記憶を拾い、言うべき――いや、言いたいことを思い描いて。チョコレイト色の瞳を見つめ直し、心を声にする。


「――おじさんは、わたしが大事だと言いました。自分より、わたしの方が大事だって言いました。なら……それなら、わたしを助けて救った人として、最後まで責任を取ってくださいっ。ずっと、ずっと。傍に……一緒にいて、ください」


 瞬きのたびに溢れ出た雫が凍り付いて散っていく。

 ぎゅっと目をつむり涙を飛ばして、一心に前を見つめて返事を待つ。


 おじさんは短く瞑目し。


「――――」


 表情を崩して苦笑した。


「君は、ずいぶんと我儘になったな」


 優しい目の色に胸の奥があたたかくなる。嬉しさと気恥ずかしさが混じって、少しだけ目を逸らして。


「だめ、でしょうか?」


 言うと、柔く髪に手が置かれる。冷たい風に吹かれるまま靡く髪を、緩やかに繊細に――あたたかな手で撫でてくれる。


 上目に見るおじさんは笑って――本当に優しい顔で笑って。


「だめじゃないさ」


 そう言った。

 おじさんの笑顔がとても穏やかで綺麗だったから、少女も釣られて笑ってしまう。


「ずっと、一緒です」

「あぁ、一緒にいよう」

「もう、置いていこうとしないでください」

「悪かった。二度としない」

「約束、です」

「約束する」

「いっぱい、撫でてください」

「いくらでも」

「ぎゅって……ぎゅってしてください」

「お安い御用だ」

「……えへへ、あったかいです」

「セリーゼは冷たいな」

「もうあったかくなりました」

「そうか」

「はいっ」


 空中で抱擁を交わし、失くしてしまいそうだったあたたかさを全身で感じる。

 よかったと思う。勇気を出してよかったと、顔を上げて前を見てよかったと思う。チョコレイトの香りを吸い込み、冷えた心を暖めてくれる体温に身を任せる。ようやくの安心感に気が抜けそうに――。


「――チッ、ガキと仲良しこよしたぁ余裕じゃねぇかよ毒野郎」


 瞬間、水を差す声が空に響く。

 ぱっとそちらを見ようとして、おじさんの服で一切景色が見えなくて困った。でもこのままでいいかなとも思う。


「セリーゼ」

「は、はい」

「喋れるようになったんだな」

「はい!」

「綺麗な声だ。君のままの、セリーゼらしい透き通った優しい声をしている」

「えへへ……おじさんも、かっこいい声です」

「ふ、ありがとう」


 軽く笑って、おじさんはそれに、と続けた。


「力も使えるようになったんだな」


 魔人を無視し、残念そうな顔の少女を離し、舞い踊る雪を眺めておじさんが言う。


「はい。使えるだけですが……」

「そうか。……温度操作か?」

「いえ。たぶん、下げるだけです」


 温度操作。というより冷気操作。

 この不思議能力について、少女自身ある程度の自覚はあった。


 チョコレイトを食べて進化して以来、日々寒くて仕方がなかった。もちろん寂しさや心細さも理由の一つだが、それにしたって寒すぎる。

 おじさんの手の温かさが異常に心地良く感じられたのは、肉体そのものが冷えて低温になっていたから――というだけではない。そちらもきっと理由の一つに過ぎない。どうしてなのかは、今はもう十分に少女自身が理解している。


「なるほど。……それなら行けるか」


 呟くおじさんは真剣な顔をしていて、スッと前に翳した手を追うと、大量のチョコレイトが空に敷き詰められていく。

 宙に浮かんでいたものも新しく生み出されたものも、分け隔てなく隙間を埋め、さらに波打つチョコレイトの壁が作られ視界を遮る。


「おじさん?」

「セリーゼ。早速で悪いが、君に頼みたいことがある。……危険な役目だ。それでも引き受けてくれるか?」

「――はいっ!」


 迷う理由はなかった。

 ほんのり口元を緩めながら頷き、おじさんの策を聞く。万が一にも魔人に聞こえないよう耳元で囁かれて、ずいぶんとくすぐったかった。


「すまない――いや、ありがとう、セリーゼ。二人でやるぞ」


 セリーゼの冷気操作を見たおじさんはすぐにピンと来ていた。

 策に足りない一手、欠けていたピースが埋まる感覚。


 最後の戦いが始まる。一人と一魔人の戦いではない。二人と一魔人の戦いだ。

 最初で最大の山が少女の前に立ちはだかっている。それでも不思議と今のセリーゼに恐怖はなく、魔人相手でも一切負ける気がしなかった。

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