チョコレイト魔法と魔人の魔法。
☆
シスイ湖より遥か高く、幾層にも連なる濡れた
地上より見える雲は雨雲の一端に過ぎず、魔人と空中戦を繰り広げる男――おじさんには自身の頭上に眼下と同じ深い暗雲が広がっているのが見えていた。
轟轟と鳴り響く風は止む気配がなく、横殴りの雨がコートの裾を弱く揺らす。
水気を吸った髪が重たげに垂れ、後頭部で結んでいなければひどく視界を悪くしていたところだ。全身びしょびしょに濡れてはいるが、男の動きが鈍ることはなかった。
「――」
閃光。
目を焼く光が前後左右より襲い来る。
上下より雲の層が薄いとはいえ、前も後ろも灰色一色であることには変わらない。思考の間もない文字通りの"光線"が空を駆ける。避ける隙間を塞ぐように伸びる光は触れる雨粒を蒸発させ、男の生命を刈り取らんとする。
チョコレイト使いはコートの裾を翻し、当たり前のようにチョコレイトを上空へ配置していた。目で見る前に魔法の菓子は動き回る。
光線は魔法のチョコレイトに遮られ、するりと飛び逃げる男の背を掠めることもない。だがこれで終わるほど魔人の魔法は甘くなかった。
「――いつまで逃げ続けられるだろうなぁ、毒野郎よぉ」
光、光、光。
連続して瞬く光の間隔は昨日の比ではなく、その出処も掴めないほど広大だった。
前方から同時に五本以上飛んでくるのは当たり前。タイミングをずらして背後から飛んでくるのも当たり前。それらに重ねて上下左右より光が襲ってくるのだから、おじさんが避けきれず被弾するのも無理はない。
縦横無尽な高速機動も途切れることない光の雨には追いつけず、全身至る所を貫かれる。
チョコレイトの翼が溶け落ち、服に穴が開き、髪先や手先が焼け焦げる。
次の瞬間、翼は再生し、穴は塞がり、焦げた後は溶けて元通りとなる。
致命傷となる部分だけを避け、他はすべてチョコレイトの再生力に任せて無視していた。
攻撃を受けるたびに確かな痛みはあるが、男が眉一つ動かすことはない。おじさんにとってこの程度、痛みの範疇に入るものですらなかった。
「――――!!」
何やら騒ぐ声を無視して、ひたすら逃げながらもおじさんは考える。
現状、魔人への策は三つほどある。しかし用意周到に警戒してここに来たであろう魔人相手に、いきなり本命をぶつけるのは些か不安があった。
多くの魔人に共通することだが、魔人という種はあらゆる他種族を見下している。
蔑み、嘲笑し、まるで自身が上位者になったかのように振る舞っている。しかし、それが他者を見縊ることに繋がるわけではない。
魔人は、病的なほどの自己保身主義なのだ。
僅かでも相手が自らの命を脅かす存在であれば、徹底した安全策を取った上で戦闘行動を行う。時には戦略的撤退と称して即時逃亡も行うが、基本的には得意の魔法を使った超長距離攻撃をメインとする。単純に距離の遠近だけでなく、次元の断層や空間の隙間を利用し姑息な攻撃を繰り広げるのだ。そこに卑怯卑劣の言葉はなく、安全に勝てるならそれでいい理論で来るため
そのような一般的魔人ではあるが、おじさんと対峙している個体も例に漏れなかった。
一度戦ったおじさんの対策を打ち、今回は一切その姿を見せていない。最初の顔見せですら幻影を使った徹底ぶりだ。
おじさんの揮発毒を防ぐためか上空は常に強烈な風が吹き荒れ、視界を遮る雲の中からレーザーが飛び出してくる。おじさんの推測だと、魔人は分身魔法か何かで雲の中に身を隠している。本体はどこか遠いところにおり、この場の魔人すべてが分身だと考えるのが合理的だ。
最初は成り損ない等の魔物上位種も多く突っ込んできたが、おじさんのチョコレイトの前にさっさと退場させられた。今は一人と一魔人の一騎打ちである。まあ片方は姿を見せず数を増やしているが。
「いい加減諦めろよ。お前がオレに勝てる機会は二度もねぇ」
どこからともなく声だけが聞こえてくる。
おそらく吹かせている風に音を乗せて流しているのだろう。最初は声の元を特定しようと集中していたが、すぐに散らされていることに気づいて聞くのをやめた。ノイズまで入れている徹底ぶりは警戒を通り越して呆れを覚える。さすがの自己保身である。
耳に届く雑音を無視しながら、どうするべきかと眉間に皺を寄せる。
「……」
答えは出ない。
現状のままでは、もしこの場に魔人の本体がいなければ秘策を用いたとしても徒労に終わってしまう。
「ハッ、そろそろ死ねよなぁ!」
急旋回。避け――られない。突然レーザーが追尾式に切り替わった。
前回の攻防で魔人の光線が柔軟に動き回るとは知っていた。警戒していたからこそ直撃を受けずに済み、なんとか回避行動が間に合った。チョコレイトで迎撃し、直線と捻じ曲がるレーザーの二種を織り交ぜた攻撃に対処していく。
避けて防いで反撃して。
雲の中にチョコレイトを飛ばしても意味はなかったため、それなりの量の羽を荒れ風に任せて流してみたがそちらも効果はなかった。相手のチョコレイト対策は万全のようだ。無論のこと、こちらの手札も見せ切っていないため余裕はあるが。
「なぁ毒野郎。オレがただ
レーザーの攻勢はそのまま。魔人の言葉に周囲へ意識を飛ばす。特に変化は――おかしい。現在地より遠く、雲の内外に飛ばしたはずのチョコレイトがすべて消えている。精度は低くとも敵意や魔力の感知もできるので少しずつ流していたものが、綺麗さっぱりなくなっている。
「固形物は大変だよなぁ。形残さねぇと役に立たねぇんだから。まぁ、オレの光には関係ねぇ話だがよぉ」
飛び逃げ回りながら注意深く雲の中を見ると、時折ぴかぴかと光る何かが見えた。雲の隙間を縫うように光が漏れてきている。
「そろそろ終わりにしようぜ。じゃあな、下等種」
数瞬、視界全体が真っ白に染まるほどの光が上下左右、周囲の雲すべてから急速に飛び出してきた。
考える時間など――。
「――――」
魔人によるレーザー収束爆破は雨粒を蒸発させ、雲の一部を吹き飛ばした。
ぽっかりと空いた穴に数秒の静けさが満ちる。
「――やっぱり切り札持っていやがったか」
再び降り出した雨と、鳴り出した風音の中心。
光爆の中心には、丸い暗褐色の球体があった。
球体の一部がどろりと溶け、中からおじさんが現れる。
「今のは少し危なかったな」
口元を歪ませ、まるで嘲笑するかのように言い放つ。実際には苦笑と虚勢の混じった笑みであり、おじさんとしてもなかなか危うい一撃であった。が、それを魔人が正確に読み取れるわけもなく。
「チッ、余裕かよ下等種が――っ!」
ぶつくさと文句を垂れる暇なく、おじさんからの反撃が飛ぶ。
球を形成していたチョコレイトが壁面を揺らめかし、空を走る高波となって全方位無差別に襲いかかっていた。
魔人の居所がわからないので、仕方なく調整溜めしていたチョコレイトを一気に放出することとなった。少々痛手だが、ここで場を動かした方がよいと判断する。自分の姿を波で隠し、内側に作った壁を鏡面加工する。ピカピカに磨かれたチョコレイトは立派な鏡だ。
予想通りチョコレイトの波はレーザーで突破されたので、浮遊させたチョコレイト鏡を使い光を反射させる。
「なんだとっ!?」
驚愕の声が聞こえる。
どうやら鏡式チョコレイトは上手く作用したようだ。鬱陶しい光線が綺麗に跳ね返り雲を貫く様子は壮観ですらあった。
広げたチョコレイトで魔力を探ると、反転させたレーザーの先に複数の気配が感じられた。一つ二つ、三つ……。合わせて七つ。光線の妨害はなく、波の隙間から風に乗せた飛沫が魔人の位置を教えてくれる。
原理は不明だが、どうやら魔人は七人に分身しているらしい。魔力の濃さは完全に一致しており、低下は見られないため一切の劣化が見られない分身魔法と考えられる。強敵かつ理不尽な魔法ではあるが、これで一つ糸口が見えた。
やはり、魔人本体はここにいない――。
「――む」
思考の間隙を突くように、光の線がチョコレイトの壁を溶き貫いてくる。
光を見る前、溶けだす茶色を見る前に魔力の励起を感じ取り避けなければ頭を撃ち抜かれているところだった。
「ハッ、鏡がどうしたよ。俺の
鏡で反射できるものもあればできないものもある。先ほどより楽になったは楽になったが、すべて避ければよかった時と異なり一部だけ避けるのは手間とも言える。
「……光に質量を加えたか」
「チッ」
即座に絡繰りを見抜いたおじさんに魔人が舌打ちをする。
二種のレーザーを直線式と追尾式で連発してくるのは強力だが、本体がここにいないとわかったからには話が変わってくる。
場は膠着している。
打開の策はある。しかし、一手足りない。魔人の本体に致命の一撃を与えるための一手が足りない。
何か、状況を変え策を完成に繋げるための一手を…………。
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