"諦めない心"。

 戦いの始まりに合図はなかった。

 目の前で光が瞬いて、茶色のチョコレイトが飛び散って。同時に視界がぐるりと回転し、身体が横に引っ張られる。地面に着地したところで自分が抱えられ移動したことに気づく。


 路地裏だった。日の差し込まない暗がり。入り組んだ道は通りから見えにくく、空の大部分が建物に遮られている。魔人の姿も見えず、追手の姿も見えない。住宅街の裏、そんな雰囲気を持つ小道に降り立っていた。


「セリーゼ。俺は魔人の相手をしてくる。君はここで待つか、どこかより安全なところを探して隠れておいてくれ」


 言ってすぐ傍にチョコレイトの塊を二つ投げる。ぐんぐんと大きくなり形を変えたそれは、以前見たチョコレイトの兵士そのものだった。


「お前たちはセリーゼを守れ。任せたぞ」


 天に槍を突き上げる兵士はやる気満々な様子だった。喋らなくても雰囲気で伝わってくる。

 じっとこちらを見てくるおじさんに何を言えばいいのかわからなくて、でも何か言わないといけないと思って。思っても、言葉が出てこなくて。口を開けて、出ない声に閉口し、ひしと見つめ返す。


「すまない、セリーゼ。また君を危険な目に遭わせてしまった。こんなことはもう最後にしよう。怯えず恐れず、穏やかに日々を過ごせるようにしてみせるから、今だけは耐えてくれ。やはり、俺のせいで君が傷つくなどあっていいわけがないな。……行ってくる」

「っ」

「……すまない」


 ぎゅっと掴んだ手は、やんわりと振りほどかれてしまう。短い謝罪と、悲しげに伏せられた目と。少女の心が届かぬまま、男は空を行く。


 小さくなる背中、遠のく翼、薄れる香気。


 待って、も。どうして、も。行かないで、も。

 傍にいて、一緒にいて、置いていかないで。


 言葉一つ、思い一つ伝えられず、おじさんは行ってしまった。


「……」


 これが永遠の別れじゃないとはわかっている。後でおじさんとまた話せるだろうとわかっている。心配も不安もあるが、おじさんを信じていることには変わりないから。けど結局……結局、少女が足手纏いになっていることは事実だった。


 どうして、こうなっちゃうんだろう……。

 悲しくて悔しくて情けなくて、痛む心の声が雨音に紛れ路地裏に響く。


 嫌だ嫌だと叫ぶだけで心を制御できず、ずっと考え悩んでいたおじさんを見て見ぬふりして。ちっぽけな勇気すら出せなければ気持ち一つ伝えられない。

 振り絞った想いは遅すぎて、結局何もできないまま置いていかれてしまった。


「……」


 空を見上げる。

 遮るもののない空は存分に雨を降らし、髪を、頬を、服を濡らす。視界の隅でチョコ兵士の一人が慌てたように小さな傘を渡そうとしてくるのが見えた。首を振り、要らないと示す。しょんぼりした様子に少しの罪悪感が湧く。


 赤みがかった石の建物に狭められた空は深い鈍色をしていて、時折きらりと光が走る。瞬く閃光は音のない雷のようで、微かに感じる魔力の波濤からおじさんと魔人の戦いがひどく激しいことを感じてしまう。


 空高い場所に行けないわたしが、魔法一つ使えないわたしが、あんな戦いに付いていけるわけがない。


 少女がおじさんの足を引っ張っているのも。少女がただ守られているだけの存在なのも。疑いようのない事実で、彼女自身がそれを自覚しているのもまた真実だった。


「……――」


 声なき嘆きは雨に呑まれて消えていく。

 頬を流れる滝が涙を洗い流し誤魔化してくれる。


 冷たい心で冷たい空を見ていると、思うことがあった。

 わたしが足手纏いなのが事実だとしても。でもきっと、もっと前におじさんに本音を、一緒にいてくれるだけでそれでいいと言えてさえいれば、きっとこんなことにはなっていなかった。こんな、寒くて冷たい気持ちになんてならずにすんだ。おじさんも、あんな辛そうな目と顔をしなくてすんだ。


 全部わたしのせいだ。わたしがおじさんに甘えて、何も言わずにただ流されるままいたから。見ないように、見ないフリをしていたわたしが悪い。


「……っ」


 いつも、そうだった。

 両親が死んだ時も、国に事件をもみ消された時も、家を追い出された時も。孤児院から逃げ出した時、人売に捕まった時だって。どんな時でも、あと少し勇気を持って踏み出していれば何かが変わっていたかもしれない。

 貧民の多い街で後ろ盾なくお金を持つ人がどうなるか知っていたのに。街の人間は信じられないと学んでいたのに。孤児院がどんなところなのかわかっていたのに。外は危険だと言われていたのに。他人は信用できないとわかっていたはずなのに。


 知っていても、わかっていても言えなかった、伝えられなかった。踏み出せなかった。

 ずっとずっと、そうやって全部失くして終わってから後悔してきた。


 本当に大事なものは離さないよう、離れないように自分の手で掴んでおかなくちゃいけないって、そうしないとすぐにどこかへ消えてなくなっちゃうってわかっていたはずなのに。

 浮かれて、甘えて、安心しきって。ぬるま湯に浸かって、失くした今になって。また同じようにわたしは……――――ううん、まだだ。


「――――」


 ぱんっ、と両頬を叩く。

 くしくしと服の袖で目元を拭い、滲んだ視界を晴らす。冷えた頬がじんじんする。痛い。けど涙は飛んだ。泣き出したいのはそのままでも、今は泣かない。まだ、今はまだ失くしてない。失いかけているだけ。まだわたしのすぐ傍に、手の届くところにある。


 寂しいのは嫌だ。一人ぼっちは嫌だ。やっと信じられる人を見つけたの。信じたいと思えるようになったの。おじさんと一緒がいい。他の誰かじゃない、おじさんだから、一緒にいたい。まだまだ話したいことも、やりたいこともたくさんある。一緒にご飯だってもっと食べたい。ナナノクニで二人一緒に暮らすって約束も叶えてもらってない。

 それにまだ、ちゃんと"ありがとう"を伝えられていない。


 不器用で、優しくて、強面で、格好良くて、弱くて、大きくて、冷たくて、あたたかくて。


 そんなおじさんと、わたしはずっと先まで一緒に暮らしていきたい。まだまだ知らないことばかりだとは思う。でも、わたしのためにおじさんがしてくれたことは知っている。いっぱい考えて、おじさんなりの精一杯を与えてくれたことを知っている。


 信じようと思う。信じたいと思う。信じようと決めた。

 おじさんを信じると決めた。どんな結末を迎えるとしても、わたしを救ってくれたあの人と生きて幸せな日々を過ごしたいと思った。


 だから。

 少女は振り向き、おじさんの作ったチョコレイトの兵士に近づく。おそるおそると、もう一度傘を差し出してくる兵士からチョコレイトのそれを受け取る。

 雨を防ぎ、手帳を取り出し、ペンで書き込む。

 今はもう、一切の震えなく文字を書くことができた。


【わたしのお願いを、聞いてもらえますか?】


 足手纏いだと自覚している。おじさんが危険から遠ざけようとしてくれていることも知っている。それでもおじさんと一緒がいい。理屈はわかっても、心が納得なんてしないから。


 危険だと言うのなら、そんなもの危険にならないと証明してやればいい。できるかわからないけれど、やるしかない。少なくとも少女の身体はできる・・・と言っていた。


「――?」

「――!」


 チョコの兵士は雨に打たれながら困惑し、互いを見合ってジェスチャーでやり取りをする。

 何を話しているのかわからないが、二人とも頷いてくれたのでお願いを書き込む。


【わたしを空の見えるところまで連れて行ってほしいです】


 ぶんぶんと首を横に振られた。追加で文字を書き、手帳を差し出しながら頭を下げる。目を閉じて、真摯に気持ちを伝える。


 傘は地面に落ちてしまった。雨が髪を濡らす。肌を濡らす。頬を濡らす。

 冷たい雨に打たれ、心だけでなく身体も冷えていく。それでもこれは譲れなかった。成功するかどうかなんてわからないけれど、やらないと後悔することだけははっきりしていたから。


 待つこと数十秒。言葉の代わりに槍の柄がトントンと地面に打たれる軽い音が聞こえてきた。雨水を纏った音は少し沈んで聞こえる。


 おそるおそる顔を上げ、小さな兵士を見る。

 少女と目が合った二人はこくりと頷き、しょうがないとでも言いたげに肩を竦めた。


 手帳は片方の兵士が濡れないよう大事に抱えてくれていた。傘を拾い、渡された手帳にそっとお礼を書き込む。


【ありがとうございます】


 少女の感謝に返事はなく、ただ一人が道を先導してくれる。もう一人は後ろに下がり、おじさんの言い付け通り護衛としての役割を果たしてくれていた。


 点々と水の張った小道を進むこと少し。

 案内されたのは古びた三階建ての建物の裏側だった。路地裏からさらに一本入った場所にあり、後から作られたと思わしき階段は建物より新しく見えた。どうしてこんなところに階段があるのかという疑問は、上に登ってみてすぐ解けた。


 屋根上から通じる細い道。入り組んだ路地を突っ切るように作られた空の道は目立たないよう多くが建物の角に作られ、勢いをつければ別の屋根に飛び乗れそうなところは敢えて道を無くしていた。

 この階段は、迷路のような通りに住むであろう誰かが作った隠し通路の一つだった。


 誰が作ったのかもチョコ兵士がどうして知っていたのかもわからないが、今は気にしない。大事なのはこれから。今これからやることだ。


【お二人に、もう一つお願いがあります】


 屋根上に辿り着き、見渡す限り広がる暗い煙色の空を見つめて伝える。

 チョコレイトの二人はやれやれと首を振り、それからトンとそれぞれ胸を叩いて頷いてくれた。微笑ましく、頼もしく、それでいて嬉しく口元が緩む。


【ありがとうございます】


 再度感謝を伝える。

 息を吸って、吐いて。

 冷えて湿った空気は雨の香りに満ちていた。頭が冴える。心が定まる。勇気がみなぎる。


【わたしの、チョコレイトの翼になれたりしますか?】


 問いかけではあるけれど、確信でもあった。

 おじさんの傍でチョコレイトを見てきた。美味しいチョコレイトも、自在に動くチョコレイトも、翼としてのチョコレイトも、小さな兵士になるチョコレイトも。

 だからこれは、質問でもあり改めての確認でもあった。


 空を飛べるなら、おじさんの下へ行ける。チョコレイトの翼で空を飛んで、高い高い雲の上で戦っているおじさんの下へ。上手く操れるかとか、わたしのために姿を変えてくれるのかとか、心配はあってもここで止まるつもりはなかった。


 チョコ兵は顔を見合わせ、はぁと甘い息を吐いて少女の背に回る。ぺたりとコートに茶色の手を付け、その身体を溶かしていく。

 とろりと崩れたチョコレイトは新しい形を作り出し、一人一翼となって少女の背に可愛らしい翼を作り出す。


 おじさんの精巧な大翼とは違う、小さくデフォルメしたかのような翼。羽が抜け落ちることもなければ新しく生えてくることもない。この場にあるチョコレイトがすべての簡易チョコ翼だった。


 簡易的翼だと侮ることなかれ。飛行の性能は高く、何より両翼が高性能人工知能を積んでいるようなものなので操縦もほぼ任せきりで済む。チョコレイトを操ったことのない素人でも飛びやすい初心者向けの翼だ。


【お二人とも、ありがとうございます】


 できるかできないかは半々な気持ちだったので、正直できて驚いたしほっとした。

 返事代わりに軽く翼の先が自動で動き、自分でも少し動かしてみた。感覚的に、腕を動かすように簡単に翼が動く。強く羽ばたけば身体は浮き、すぐにでも空へ飛んでいけそうだった。


 でも、これじゃあ足りない。


 魔人と戦うおじさんの下へ行くには。

 おじさんの足手纏いにならず傍にいるためには。


 まだ足りない。

 必要なのは身を守る術。自分で自分を守れるだけの力。

 それはきっと……既に少女が持ち得ているものの中にある。


 少女は目をつむり、雨音響く屋上で自らの心に意識を沈めていく――――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る