再びの。

 雨が鳴っている。

 地面と、壁と、傘と。風のない雨が音を立てて騒いでいる。

 人の少ない道路の壁際、住宅街の壁はところどころに傷が見られ、他に音がなければ内側の声が聞こえてくるほどに薄い。けれど今日は雨だった。外の声も内の声も聞こえず、すべてが雨にかき消されている。


 少女とおじさんは同じ傘に入り、じっと見つめ合って言葉を交わしていた。

 穏やかな眼差しのおじさんと比べ、少女はずいぶんと……ずいぶんと、多くの色をその青い瞳に宿していた。


【どうして、ですか】


 文字が揺れている。

 理解が追い付かなかった。頭が混乱している。おじさんは普通な顔して、変わった様子なんて全然ないのに。元気なかったのも考え込んでるのも、もう元に戻ったと思っていたのに。


「そうだな。順を追って話すか……。俺たちがクリスタルパレスで都市長に謁見した時の会話を覚えているか?」


 そっと、迷いながらも頷いた。

 少女が納得できるかどうかはともかくとして、とりあえずちゃんと理由を説明してくれるらしいので少しだけ気が休まる。急にお別れと言われて焦ってしまった。ここではいさよならは……ないとわかっているけれど、どちらにしろここじゃなくても普通にさよならなんて嫌だった。


 昨日と一昨日。

 自分はほとんど話していないし、緊張もしていたから本来なら覚えていなくても無理はない。でも、あの都市長との会話はとても印象的で、心のどこかへ刻まれるようにしっかりと記憶に残っていた。


「そうか。なら俺があの人に言われたことも覚えているな」

【それは】


 あまり口に出したい単語ではなくて、少女の気持ちを見て取ったおじさんが微かに苦笑してそれを言う。


「"不幸の星"」

「っ」


 わかっていても、言われた当の本人から聞くと身が固くなってしまう。不穏で、嬉しくない言葉だった。


「あの話を聞いた時、ありえないと言う思いと同時に、いくらかの納得もあったんだ」


 首を振る。そんなことはないと言おうとして、遮るようにふわりと頭に手を置かれた。小さな苦笑が目に映る。


「元々不思議ではあったんだよ。俺のチョコレイト――ギフトって何なんだろうって。作ると疲れる時期もあったが、そんな時期はとっくの昔に終わった。都市長の言う、ギフトの対価が不幸だとするならば天秤が釣り合うんだ」


 撫でてくれる手は温かく、それなのに少しずつと心は冷たくなっていく。


「国に囚われたこともそうだが、セリーゼ。君との旅路もそうだ。道中、色々とトラブルがあっただろう?魔物、喧嘩、移動問題、さらに魔物。極めつけは魔人だ。短期間でこれほどのトラブルに見舞われるなどありえない」

【でもそれは、おじさん、全部解決してくれました】

「結果的にはな。その場の問題はどうにか解決できた。だが根本的には何も解決していない。都市長の言う、俺のチョコレイトが原因なら納得もいく。俺自身、一切思わなかったと言ったら嘘になるからな。……だからこそ、セリーゼ。あの時の言葉は嬉しかった」


 どの時、聞く前におじさんが話を続ける。


「俺に、俺のチョコレイトに救われたと言ってくれただろう」

【はい】

「嬉しかったんだ。報われたとさえ思った。あの瞬間から、今後のことを考え始めたよ。俺がチョコレイトを手放すことは今さらできないし、進化前ならともかく今の俺はギフトと一体化しているようなものだ。離れようにも離れられない。不幸からも逃れられない。……まあ考えても答えは出なかったから保留にしたんだが、その後すぐに魔人の襲撃があって考えが変わった」

「……」

「俺とチョコレイトは離れられない。今は無事に済んでいるが、今後はどうだ。魔人や魔物の襲撃が続けば、いつかはセリーゼも怪我をするかもしれない。それが命に関わるものなら?それはさすがにだめだろう。長い未来のあるセリーゼをそんな危険に曝すわけにはいかない。なら……答えは一つだ」

【だから。だから、わたしとお別れですか】


 冗談であってほしかった。冗談でも笑えないけれど、冗談で済めば、それでよかったから。そうあってほしいのに……おじさんは、すごく優しい目をしていて。言葉に一切の嘘なんて含まれていなくて。本気で言っているとわかってしまって。……きゅっと、胸の奥が痛くなる。


「ああ。悪いとは思う。数週間か、一か月かおきにはちゃんと会いに来るつもりだ。声が出せない君を急に放り出すことはない。都市長にもセリーゼのことは頼むつもりだからそこは安心してくれ。チョコレイトの兵士だって渡しておくさ」

「っ!」


 もう、文字は書けなかった。ペンを持つ手が震え、インクがまともな形を作ってくれない。

 視界が滲む。ぽたぽたと、白紙のページに雫が落ちる。


 一緒にいてくれればそれでいい。今なのに。今言わなくちゃいけないことなのに。ずっとずっと、少女の喉が震えることはなく。たった一言、簡単な一言が出ない。出てくれない。


「そう泣くな。これが永遠の別れになるわけじゃない。少し傍から離れるだけだ。……だから、泣くな」

「っぅ……ぅ……」


 首を振り、頬を伝う涙を拭う。こぼれ、こぼれ、とめどなく流れる雫が熱い。言いたいこと、伝えなきゃいけないことはたくさんあるはずなのに、感情がこぼれて文字にすらならなかった。そっと髪を撫でる手の感触が、より頬を濡らす。


「セリーゼが俺に救われたと言うように、俺もセリーゼに救われたんだ。身勝手な夢を叶え、その先に新しい夢を見せてくれた。夢のため――君の未来のためなら、俺はなんでもできると思ったんだよ。君を置いて行くのは心苦しいが、君を俺の不幸に巻き込むのは御免だ。許してくれとは言わない。力不足の俺を憎んでくれてもいい。ただいつの日か、平穏に笑って"普通の幸せ"を過ごしてくれ」


 しゃくり上げ、声にならない心を形にしようとする。伝えようとすればするほどに気持ちが溢れ、意味のない線となってしまう。もどかしく、思い通りにならない自分の心が嫌だった。


「なに、大丈夫さ。セリーゼも気づいているだろう?一度進化したその身体、普通の人間より強く頑丈にできている。魔法はどうかわからないが、適性も上がっているはずだ。人生を楽しめ。俺のように時間を無駄にせず、楽しみ笑って生きてくれ」


 困りがちな声には首を振って、ぎゅっと、抱きしめてくれる身体にしがみついてわんわんと泣く。チョコレイトの香りが、おじさんの優しさが枯れない涙を延々と流し続ける。


 "普通の幸せ"なんていらない。おじさんがいないと笑えない。楽しんだりなんてできない。おじさんが一緒じゃないと嫌だ。


 ずっと一緒にいてほしい。わたしと一緒に生きて、暮らして、一緒に笑って泣いてご飯を食べて、一緒に、一緒にっ。ずっと一緒にいてくれれば、それで、それだけでいいのに。どうして離れようなんて言うの。お別れなんてやだ。せっかく……ようやく家族が、一人ぼっちじゃない家族ができると思ったのに。怖いのも痛いのも、危険なのも大変なのも、おじさんと一緒だったら全部大丈夫だから。いつかきっと、ちゃんとお話できるようになるから。全部声に出して、お話できるようになるから。だから。だから、置いて行かないで。……わたしを、ひとりにしないで。


「――……っ、ぇ……っぅ」


 無理やりに気持ちを抑えて、今言わなくちゃいけないことを心に留める。

 もう後悔したくない。おじさんに伝えなくて、離れ離れになるなんて嫌だから。それだけは絶対に嫌だと思うから。涙を堪えて、嗚咽を堪えて、痛みを堪えて。顔を上げ、少しだけ悲しげなチョコレイト色の瞳を見つめる。


「……――」

「――見つけたぞ!チョコレイトの男だ!!」


 瞬間、少女の決心を切り裂く声が雨の路上に響く。


「――逃げるぞ」


 おじさんの判断は早く、現れた警備服を見て傘を投げ捨てた。

 視界を奪い、即座にセリーゼを抱きかかえ地面を蹴る。雨水を跳ね上げ、"待て!"の声を無視し路地に入る。壁を蹴って屋根に上がり、陰を伝い遠くへと逃げていく。


 抱えられるままの少女は現状への理解が一切追い付いていなかった。

 何が起きたのか。何から逃げているのか。状況が読めないのもそうだが、おじさんとの話がまだ途中で、伝えなくちゃいけないことが言えなくて焦燥感に駆られる。……けど、そんなことを言えるような状況でも雰囲気でもなくて。


「――いたぞ!!」


 追われ追われ、どこに逃げても追われ続ける。

 路地裏でも屋根上でも、どこにいても衛兵か警備兵らしき姿の人に見つかってしまう。


「……魔法で探知されているか」


 呟くおじさんの服を、そっと引っ張る。


「大丈夫だ。すぐ済ませる」


 一瞬申し訳なさそうに目を伏せ、軽く頭を撫でてくれた。気持ちが落ち着く。落ち着くが……まず今がどうなっているのかがわからなかった。とりあえず街の人に追われているのはわかったが、何もしていないのに急に追われている理由が知りたい。


 あと、話の続きを……。考えている間に、意識の外では動きがあったらしい。"おいどうした!""魔法か!?""警戒!"等々叫び声が聞こえてすぐ、人の声はなくなった。残ったのは屋根上に響く雨の音だけ。


 おじさんは傍にいたままだったので何かしたようにも思えないが……いや、もしかしたらチョコレイトで何かしたのかもしれない。

 見ると、軽く頷いてくれる。よくわからないが、とりあえず大丈夫になったようだ。


「――――よぉ、チョコレイト野郎」


 ぴくりと、肩が跳ねた。

 雨に紛れ、聞き覚えのある声が耳まで届く。顔を上げ、おじさんの視線の先を追って驚いた。


「やっぱ人間は使えねぇが、それでもお前を探し出す役には立ったみてぇだな。――約束通り、殺しに来てやったぜ」


 雨の中、宙に浮かび空を踏んでいる男が一人。

 独特な目と、ぞっとするような魔力を持つ人――魔人。


 おじさんがチョコレイトで倒したはずの魔人が、そこには立っていた。

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