すれ違い。

 都市シスイ、夜九時。

 灰を被った天蓋には夜の帳が下ろされ、普段なら街を覆うように広がる人々の喧騒も、囁きめいた微かな音だけを残してさっぱり消えている。

 灯された人の火も風に揺れる蝋燭のようで、魔物の、そして魔人の襲撃による影響を儚げに物語っていた。


 シスイにおける旅籠はたごは東西南北四つの橋近くに居を構えているが、都市の中心部にも小さな旅籠町として十数件の宿が集中している場所があった。どの宿も少々値は張るが、人の行き来は少なく安全性も高いため、落ち着いて過ごすのに適している。


 おじさんと少女の二人組も、そちらにある宿の一室で寝泊まりしている。

 値段相応に部屋は広く、マクリルで作られた窓には特殊な加工を施した薄いカーテンが掛けられている。外からは見えず、中からは見通せるミラーレスカーテンだ。


 外界は暗く、雲の広がった空は月と星の光を完全に遮り夜の闇を深めている。

 部屋の魔石灯も消され、弱い人工灯だけがセリーゼの視界の助けとなっている。とは言っても、暗闇で見えるのは物や人の輪郭だけだが。少女は夜目など持っていないのだ。


 おじさんはこんな暗くても見えるのだろうか。思って、ベッドに横たわったまま窓から椅子へと目を移す。


「……」


 ぼんやり、人の形。

 窓際の机と向き合う椅子に座り、じっと窓を眺めている。


 少女が潜り込むベッドの位置からだとおじさんの後ろ姿しか見えないが、かれこれ数十分は同じ体勢のまま微動だにしていない気がする。何度か寝返りを打ち、眠れない目で見るとずっと同じ姿勢のままだった。


 今日は手を繋いでいない。おじさんは寝る時いつも手を繋いでくれて、一人じゃない安心感を与えてくれる。けど、今日はそれがなかった。それが原因……というわけでもない。繋いでいた方が眠れるには眠れるけれど、今はもうそこまで追い詰められてはいないから手は繋がなくても眠れる。


 だから、今眠れないのは別のことが原因だった。


 

『――魔人、魔人、魔人か……。経過はどうあれ、よく倒してくれたな。礼を言おう。――しかし、何故魔人がヨンノクニに?海を渡るにしてもミコクやナナノクニの警戒網を掻い潜ってやって来るのは相当な手間だろう。それがこうも簡単に捉えられて討滅されるとは……妙だと思わないかい?』

 


 思い出す。

 宮殿に出向いて都市長との二度目の謁見。魔人との戦闘を報告し、感謝と褒賞を受けた。そして生まれたいくつかの疑問。


 

『君のギフト――チョコレイトについて知られていたのも妙だ。魔人が人間に混ざってこそこそ調査なんてありえないし、さすがに街中まで入られたら私や衛兵が気づく。とすると、事前に知られる何かがあったとみるべきだ』

 


 話をしている間、おじさんは淡々と返事をしていた。魔人との戦闘からずっと難しい顔をして、考え事をしているのはわかっていた。何を考えているのかはわからなかったけれど、きっとそのうち教えてくれると思ったから少女は何も聞かず黙っていた。


 

『根拠はないがおそらく正しい推測はできる。十中八九先の魔物の襲撃だろう。あの魔物を魔人が操っていたと考えれば君のチョコレイトが知られていたことにも納得がいく』

 


 ……けど。けれど。


 

『あぁ、そうだね。確かに魔物を操るなんて魔法聞いたことがない。だが相手は魔人だ。私たちの常識が通用しなくてもおかしくない。ただ……魔物を操りシスイを襲撃したにしては、やはり急に現れて君に退治された点が不可解に思えてしまうね……』

 


 ずっと考え込んでいるおじさんは、これまでと違って……これまで以上に、すごく迷い悩んでいるように見えてしまった。


 

『ふむ……人間を見下しているから、か。確かにそれは理由になるけれど……魔人の行動原理を図るのは難しいな。とりあえず、魔人が言っていた"次"という言葉には用心しておこう。もしも魔人が生きていた場合、それこそ次は一筋縄ではいかなくなってしまうだろうからね』

 


 話してくれない、教えてくれないのには理由があるはず。

 そうわかって、そう思っていても、頭の片隅には別のことがちらついてしまう。


 

『都市長としても気をつけるが、君も気をつけたまえよ。次にまず魔人が狙うとしたら君だろう、オジくん』

 


 一度目に宮殿を出て子供たちに会うまで浮かべていた表情。

 二度目に宮殿を出て、今の今まで浮かべている表情。

 二つが重なり、迷いに満ちた瞳が遠くを見ている。


 

『――不幸の星は、君次第だと私は願っているよ』

 


 都市長の意味深なセリフが甦る。

 不幸の星なんてないと言いたい。そんなもの嘘だって思いたい。今ここでずっと外を見ているおじさんが何かに呑み込まれて消えてしまいそうで……心が痛くなる。身体が、冷たくなる。


「……」


 心のなかでおじさんを呼ぶ。音は広がらず、声は届かず。それでもおじさんは、じっと少女を見つめて返事をくれる。


「――まだ起きていたのか」


 そっと、音なく立ち上がったおじさんがこちらに歩いてくる。

 闇を背負って、夜に濃いチョコレイトを浮かび上がらせて近づいてくる。


 何を言わなくても気づいてくれたことに安堵し、ゆっくりと頭を撫でてくれる手に寒気が薄れていく。


「今日は疲れただろう……もう寝るといい」


 小さく頷く。眠気が襲ってくる。

 心配はある。不安もある。疼く痛みも残っている。


 伝えたいことはあった。聞きたいこともあった。たった一言さえ、傍にいてほしいの想い一つ伝えられない自分が憎らしくて悔しくて虚しくて……悲しかった。

 けど今だけは。おじさんが傍にいてその温度を、人としての温もりを分けてくれる今だけは。


「おやすみ。セリーゼ」


 ただただ、全身を包むぬるま湯に身を委ねるままでいたかった。

 


 ――――明朝。

 

 セリーゼが目を覚まして最初に感じたのは、肌寒さと雨音だった。

 湿り気を帯びた空気は布団から出た身体を冷やしていく。足先が冷たい。身体を丸め頬まで布団を引き上げる。


 寒さに身を震わせ、急速に覚醒していく意識のまま周囲に視線を走らせる。


 木と石とガラス――ではなくマクリルと。

 手のひらに温もりはなく、傍に温度もなく。若干の恐怖を押し殺して、そっと窓際を見ればおじさんがいた。詰まった息を吐き出す。


 椅子に座ったまま……昨日の夜も同じように椅子に座っていた。もしかして、ずっと座ったままでいたのだろうか。疑問を飲み込み、ささっとベッドを出る。布団の外は思ったより寒くて、服を透過する冷たさにぶるりと震えた。床に足を付けたらまたひんやりしていて、ぎゅっと目をつむり耐えるはめになった。

 寒さを乗り越え、すぐ傍の机から手帳を取って挨拶を書き込む。とててて、とおじさんに近寄り、そっと差し出した。


【おはようございます】

「……ああ。おはようセリーゼ」


 一拍遅れて返事が来た。文章を読む速度が遅く感じたのは気のせいだろうか。いつも以上に声が優しく――気のせいか。おじさんはいつも優しい。


 朝食にするか?と聞いてくるおじさんにこくりと頷く。

 準備を始める姿を横目に、気合を入れてかきかきと文字を作る。


【手伝えることはありますか?】


 むん、と両手の拳を胸の前に持ってきてやる気あります!と伝える。

 おじさんはほんのり笑って。


「ありがとう。だがやることなんてそんなないんだ。セリーゼは顔を洗っておいで」


 言われ、撫でられた頭があったかくてちょっぴり恥ずかしくて、そそそ、と急ぎ足で洗面所に行き顔を洗う。今日の水は一段と冷たく、既に覚めていた目がよりはっきりとする。というか顔が冷たくて寒い。


「……ふぅ」


 朝支度を済ませて居間に戻ると、朝食の良い香りが少女を迎えてくれた。


「食べようか」


 こくこくと頷く。

 穏やかに言うおじさんから昨日までの迷いは見られず、普段の芯が通った不器用で優しい男の人に戻っていた。


 一瞬。ほんの一瞬だけ昨晩の瞳が脳裏に過るも、今のおじさんを見てそれもすぐ消えていった。


「いただきます」

【いただきます】


 和やかに食事は進み、デザート代わりのホットチョコレイトも美味しくいただく。

 食後の諸々を終えて着替えも済ませたところで、二人椅子に座り今日の予定を話していく。魔物や魔人の襲撃があったせいで予定はすべて狂ってしまった。ぽつぽつ話を進めていく中で。


「――セリーゼ。少し散歩に行こう」


 と、おじさんから提案があった。


【今から、でしょうか?】

「ああ」

【雨です、けど】

「嫌か?」

【嫌じゃないです】

「そうか。行くか?」

【はい】


 突然の提案に驚きはあるが、セリーゼに朝早くから雨の中散歩なんて経験はないため嬉しくもあった。好奇と期待と戸惑いと……それと、いくらかの不安を携えて宿を出る。


 今日は雨。

 窓から見えていた以上に実物の空はどんよりと曇り、薄い雨は深く立ち込めた朝霧のように景色を狭めてみせる。しとしと、ざあざあ。二つの擬音の間とも言える、小雨でもなく土砂降りでもない曖昧な降雨が、少女には自身の行く先を暗に示しているように思えてしまう。喉元にせり上がる心細さを飲み下し、抑えきれない感情は隣に一歩足を動かすことで振り切った。


 整備された石の地面は水捌けがよく、それでもと広がる水溜まりからは昨晩より降り続く雨量の多さを感じられる。


 傘を――チョコレイトの傘を広げ、宿の屋根を離れたおじさんが目で問いかけてくる。

 頷き、甘い匂いの傘に入り込んだ。


 とたんととたんたたたんとたたん。

 不思議な柔らかさを伴う雨音が上から聞こえてくる。チョコレイトの傘という時点で謎だが、チョコレイトと雨がぶつかるとこんな音になるんだと変な感心が浮かぶ。

 普通の傘も宿にはあったはずだし、マジックバッグにだって傘は入っていたはず……。おじさんの横顔を見ても何を考えているのかよくわからなかった。ぼんやりした雰囲気をしているので、たぶん何も考えていない。結構リラックスしているみたい。


 水溜まりを避け、浅い水でちゃぷちゃぷと遊び、傘から外に手を伸ばして雨水を集めてみて、思った以上の冷たさに驚いたりして。


 お散歩らしくのんびり穏やかに、雨の日の早朝らしく人の少ない道を歩いていく。


【おじさんは雨、好きなのですか?】


 傘と雨で区切られ、不思議と宿の中で静かにしている時のような気分でいられる。おじさんは短く首を振って。


「天気に好みはないな。セリーゼは雨、好きなのか?」


 わたしは、と書いてペンを止める。

 どうなのだろうか。考えながら地面を軽く蹴って、雨水をぱしゃりと揺らす。

 傘から一歩外れ、顔を濡らしながら空を見上げる。


 雨が降っていた。

 濃い灰色の雲から、ゆっくりゆっくりと水の雫が降りてくる。額にぶつかり、目尻を垂れて涙のように流れていく。目の中に入りそうな雨粒を瞬きで避けて、弾いた雫が頬を伝い顎へと落ちていくのを感じる。


 思い出す。

 雨漏りのひどい天井。薄いベッド。吹き込む風。屋根の隙間から見える濁った灰の雲。冷たい雨水の感触。


 少女にとって飲み水や生活水になる恵みの雨ではあったが、雨そのものは好きではなかった。

 冷たくて、寒くて、凍えてしまいそうで。

 ただでさえお腹が空いて辛いのに、寒くて寒くて……水で濡れた身体はがたがたと震えて節々が痛かった。暖かい服も布団もなければ、暖を取れる場所もないので寒い時はじっと縮こまって丸くなっているしかなかった。


 寒さで震えていると、自分が一人ぼっちであることを否応なしに突きつけられているようで。より、心が痛んだ。


「……」


 雨は嫌いだ。けど、見上げた曇天の、全部忘れてどこかへ連れ去ってくれるような雨空だけは嫌いじゃなかった。


 じっと、どこにいても変わらない空を見つめる。

 自分を呑み込んで、何もかも空っぽなどこかへ連れて行ってくれるような空の色。


 ふ、っと視界に影が差す。


「風邪を引くぞ?」


 空を遮り雨を防ぐ傘。チョコレイト色をした――チョコレイトでできた傘だった。

 心配の詰まった声に頬を緩める。ほんの一か月前に一人寂しく寒さに震えて小さくなっていたのが嘘のようだった。今はもう、一人じゃない。一人ぼっちじゃない。


「……顔がびしょびしょじゃないか」


 何を言うでもなくタオルで顔を拭われる。ぎゅっと目をつむり、恥ずかしさとそれ以上の嬉しさに笑みがこぼれる。


【すみません】

「構わん」


 ぶっきらぼうな物言いがおじさんらしくて、傘を傾けて雨に触れないよう意識してくれるのもやっぱりおじさんらしくて。おじさんだなぁーって、胸の奥があたたかくなる。


【おじさん。わたし、ちょっと前までは雨嫌いでした】

「そうなのか?」

【はい。濡れると寒いし、雨の中動き回ると冷たくて痛いだけだったので。雨に、あまり良い思い出はありませんでしたから。けど、今は好きです】

「どうしてだ?」

【おじさんと一緒だと、雨でも寂しくないからです。雨の日なのに、たくさんのあったかい気持ちでいっぱいなんです。雨なんて冷たいだけのものだと思っていたのに不思議です。でも、だからきっとわたし、余計に嬉しいんです】


 この気持ちを伝えたいと思った。今は不思議と伝えられる気がした。たくさんの文章を、長い文章をすらすらと書き連ねる。

 少し気恥ずかしい気持ちはあるけれど、この人のおかげだって、雨の日なのに笑っていられるのは――幸せだって思えているのは、おじさんのおかげだって伝えたかった。


【おじさん。わたしと一緒にいてくれて、ありがとうございます!】


 そっと手帳を胸の前に掲げ、はにかみ、柔らかく笑う。綺麗な笑みだった。自然で何も飾ったもののない、心底の笑みであった。だからおじさんは。


「――――あぁ」


 短く息をして、小さな声を漏らす。

 セリーゼの笑顔に気を取られていたのは一瞬、一秒にすら満たない時間だけであった。

 微かに口元を緩めたおじさんから、何かに納得したような、何かを満足したような感情が見える。それがどんな意味を持っているのか、すぐ傍で瞳を見ていたセリーゼが問いかけるよりも早く。


「セリーゼ。感謝するのは俺の方だよ」


 おじさんが言葉を続けた。


「君のおかげで俺は俺自身のことをよく知ることができた。何かを大事にすることも知れたし、大切な何かを思い出すこともできた」


 風が凪いでいる。おじさんの声がよく聞こえる。


「最初は自己満足……いや、それは今も変わらないか。だが、今はそれだけじゃなくなったんだ。セリーゼを助け、短い時間ではあっても君が喜び、嬉しいと、幸せだと言ってくれるようになった。その時点でもう、俺の夢は叶っていたんだ」


 急に何の話をするんだろうと思う。困惑と、照れくささと、小さな……小さな不安と。


「叶った夢の先で、俺は今を生きている。セリーゼが生きて、俺が生きている今。君の未来は長く、夢の先はまだまだ続いている。そのことを君に教えられた。それに俺は――君の未来が続いてほしいとも思った」


 ……。


「セリーゼの幸せのために。セリーゼの未来のために。長く長い、夢の先のために――――」


 おじさんは、いつもみたいに不器用で、気難しそうな笑顔で。瞳にいっぱいの優しさを詰め込んで。


「――セリーゼ。俺とは、この街でお別れにしないか」


 いつも通りの、感情の薄い優しい声で言うのだった。

 

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