チョコレイト魔法の力。

 青空で光が弾ける。

 空飛ぶ魔物が結界にぶつかり焦げ落ち、魔法で撃ち抜かれ四散する。


 都市シスイに張り巡らされた結界は健在だが、どういうわけか本来の一割程度しか防壁として機能していない。


 上空の結界をすり抜ける魔物は魔法により取り除かれているが、それも時間の問題だろう。

 それに何より、魔物は空からやってくるものだけではない。

 


「どうなってやがる。水中に魔物がいるぞ!警備はどうした!?」


「橋を沈めろ!機構が動かない?どうしてだ!魔力流して強制稼働させればいいだろ!!」


「おいおいおい、魔物が迂回してるぞ……上位種が混じってやがる!!」


 

 陸海空より攻め入る魔物と、群れを統率する成り損ないの影響で戦況は刻々と変化し始めていた。


 激化を辿るシスイ外縁部西より離れ、街の北西、ちょうど都市の中心と外縁の間に位置する場所。未だ魔物の姿は遠目に小さく見える程度の建物屋上に、男は立っていた。


 足元は暗褐色の液体に沈み、波打つように揺れている。湖上の風は強く屋根の上に立つ男の服裾をはためかせていた。

 男は小柄な少女を背負い、鋭い眼光を遠くに向けて言う。


「都市内部に侵入した魔物はまだ少なそうだが……時間の問題だろう」


 少女――セリーゼはおじさんの温かい背中にしがみつきながら小さく頷く。


 この屋根上までチョコレイトの波に乗って飛び跳ねてきたので、あまりおじさんの背中から離れたくはなかった。普通に怖い。まだ心臓がドキドキしている。


 宿を出て、動揺しバタバタと動き回る民衆にぶつかるのを嫌ったおじさんは空を跳んだ。

 山越えの時の翼は使っていない。あれは目立つし普通の飛行魔法じゃないからと言っていた。使ったチョコレイト魔法は地面に沼みたいなのが広がる不思議なやつ。これなに?と思ったらすごい速さで動いてぴょんぴょん屋根の上跳ねるから驚いちゃった。


 ぎゅっと大きな背中にくっついて、上下に動き流れる景色を見ていたらすぐ。気づけばもう湖面まで結構な距離に来ていた。


「どうするか……。ひとまず屋台通りに行こう。子供もまだ店を閉めてはいないはずだ」


 返事の代わりにおじさんを掴む手に力を込めた。

 おじさんは頷き、音もなく宙に躍り出る。一歩、二歩、三歩。一踏みごとに建物を越え、影を引いて空を駆ける。ぐんぐんと大きくなる魔物たちと、人々の大声と魔法の合唱。


 屋台通りはシスイ北西の、外縁部一歩手前の通りにある。

 懸念はいくつかあるが、現状大きな問題は二つ。一つは比較的貧しい人が集まった区画であるため戦闘に長けた人間がいないこと。遠距離魔法なんて以ての外だ。もう一つは――。


「――ま、魔物が湖から上がってきた!!」


 もう一つは、湖面が近いため魔物の侵入経路の先頭になってしまうこと。


 一部は障壁に弾かれるが、そんなもの気にせずと数に押して這い上がってくる。

 上空こそ拡散する範囲魔法で撃滅されているが、大きく場所を移した水中は別だ。撃退する人間もいない箇所からは侵食するように多種類の魔物が上陸してくる。


 鰐型、蜥蜴型、魚型。

 知能は低く戦闘技能のある剣士や魔法使いなら容易く刈り取れる魔物でしかない。しかし、この区画には気の抜けた貧民しかいなかった。戦士はいない。魔物の奇襲に即応し反撃できる住民はいなかった。逃げ惑い、怯え震えるだけである。


「――セリーゼ。しっかり掴まっておけよ」


 ぎゅっと、離さないようさらに力を込める。とくりとくりと、心臓の鼓動が早まり、甘いチョコレイトの香りと高い体温に少しだけ落ち着く。


 とん、と屋根を踏み男が跳ぶ。

 背にはアッシュグレーの髪をした少女。足に纏わりつく泥は甘い匂いを放ち、嗅覚に優れた魔物が首を回す。――瞬間、散弾のように飛んできたチョコレイトが多くの魔物に付着する。


 ぱたりぱたりどさりどたりと、即効性の神経毒を皮膚より摂取した魔物が死滅していく。

 湖面に落ちたチョコレイトの周囲でも魔物の死骸が浮き上がる。この世界ではあまり見られない、超強力な毒による攻撃だった。


 いくら魔物に知恵はなくとも、同類が前触れなく簡単に死んでいく光景には動揺が走る。上陸を目指していた群れの動きが鈍る。


 少しの間ができたのを確認し、おじさんは通りに降り立った。

 子供たちを探し、屋台の下で集まって怯えているのを見つける。


「ここを守るぞ」


 掴んだ服を引っ張って返答とするが、どうやって守るのか、おじさん一人で大丈夫なのかなと思う。

 少女の疑問を汲み取ったのか、男は目を細めて言う。


「あぁ、俺一人では無理だな。セリーゼ、一度降りてくれるか?」


 とん、と地面に降りる。驚かないようにと言われたが、いきなり足元に広がったチョコレイトであわあわと慌てるはめになった。


 足踏みするたびにチョコレイトが跳ね、衣服に付いちゃう!と思ったがそんなことはなかった。

 さらさらと自然に流れ落ちていく。


「一人で無理なら、増やせばいいだろう」


 少女が慌てている間にも、おじさんの呟きと同時にチョコレイト溜まりから兵士が出てきた。

 見覚えのある姿だ。少女より小さく、人形のようで格好だけは様になっているチョコレイトの兵士。ぽこぽこと生まれては並び生まれては並んでいく。数十秒もすれば通りを埋め尽くすほどの数に達した。足元のチョコレイトはいつの間にかなくなっている。


「お前たち、海岸……じゃないか。湖の岸辺を死守しろ。敵は魔物だ。空は無視していい。だが降りてきた場合、手が空いた場合は各自に任せる――さあ行け」


 わぁぁぁ、と全員同じ槍を掲げてぽてぽて走っていく。可愛い。可愛いが、それで戦えるのかと疑問にも思う。

 小さくてもおじさんのチョコレイト魔法ならすごいんだろうと納得し、とりあえず数は足りたと安心する。


【おじさん。わたしたちはどうしますか?】

「俺たちは成り損ないを探そう。相手の数はわからないが、そこを潰せば何とかなるだろう」

【わかりました。空を飛びますか?】

「いや、今回は湖に行こう。潜るぞ」


 ペンが止まる。

 湖。水の中。息ができるのだろうか。迷って、疑問を書き連ねる。


【水の中は、大丈夫なのでしょうか】

「任せろ。とりあえずこのチョコを食べておいてくれ。保険だ」

【はい】


 渡されたチョコレイトを食べておく。四角形のチョコレイトだ。いつも通りに甘くて美味しいが、ちょっぴり塩気があって甘さが際立っていた。美味しい。


 怯える子供たちを安心させたおじさんは近くにチョコレイトをばら撒き、新しいチョコ兵士を配置してから湖面に向かう。途中の魔物はすべてぐったりと倒れ目を濁らせていたので、チョコレイト兵のすごさを実感した。


 通路を出てすぐ、揺れる水面が見えなくなるくらいたくさんの魔物で埋まった湖を見て嫌な気持ちになる。死屍累々、そんな言葉が浮かぶ。


「行くぞ」


 気持ちを整え、再びおじさんの背に乗ってぎゅっとしがみつき目をつむる。呼吸を止め、ざぱん!勢いよく湖に飛び込む水音が耳を抜けていく。


「セリーゼ。大丈夫か?」

「――」


 恐る恐る瞼を持ち上げ、息を吸って周りを見てみる。

 ひとまず返事代わりに掴んだ服を引っ張っておいた。


 普通に呼吸もできて、普通に目も見えた。上が死骸だらけなので陽の光が届きにくくなっている。それでも見える範囲が広いのはシスイ湖の透明度が高いからだろう。


 潜り沈んでいくと、景色は暗くなり視界が悪くなる。

 少女は遠くなど全然見えないが、おじさんは違うのだろうか。ぎゅっと服を掴む腕に力を込め、寒々しい身体を大きな背中で温める。


 水中の魔物はおじさんが作るチョコレイトの渦に飲み込まれ消えていく。跡形もなく消えるのはどんな仕組みか。少女の薄れた視界にはチョコレイトしか見えないので何もわからない。甘い匂いが鼻に触れる。


 五分か十分か。それとも数分程度か。 

 じっと静かにおじさんの背中に身を預ける時間が過ぎる。

 微かな光しかない湖の深みでは数え切れないほどの魔物がチョコレイト魔法で死に絶えていた。そこに例外はない。魔物であれば上位種だろうと何だろうと――それこそ"成り損ない"であろうと水泡一つ残さず死滅していった。


 通常の人間であれば不利となる水中で淡々と作業を熟したおじさんは、チョコレイトを広げて魔物の群れが辺り一帯から消えたことを確認して呟く。


「セリーゼ。終わったぞ」

「……?」

「そうか。見えないよな。上に戻ろう。ここは……君には少し、暗過ぎるだろう」


 こくこくと首を縦に振り、震える指先を動かしておじさんの手を探す。

 寒く、冷たく、何も見えない世界は凍えてしまいそうだった。


「手を、繋ぐか?」


 ぎゅっと、返事の間もなく温かな手を掴む。


「っ……」


 音の消えた世界で、寒く冷たい水底の暗闇に耐え切れず熱を求める。

 触れ合わせた手のひらから伝わる体温で、凍り付きそうな心が解れていく。寒さが緩和される。早鐘を打っていた心臓が、少し収まった気がした。


「……」


 あたたかい。温かい。暖かい。

 全身を包む寒さが薄れていく。チョコレイトの香りが心を安らげてくれる。


「すぐに地上へ戻ろう」


 そっと頷き、じっと異様に高い体温に身を預ける。ただ熱だけを意識していれば、すぐに周囲が明るんでくる。

 最速で上へ上へと泳ぎ上っているのだ。おじさんの泳法は足元から渦潮を作る意味不明な代物なので、魔物を気にせず進めば一分と経たずに地上まで戻ることができた。


 勢いで水上に飛び出し、魔物の死骸を踏んで元の場所に――――。


「――ここはどこだ?」


 ぱちぱちと瞬きし、少女は遠慮がちに遠くを指差す。指の先には沈んだ橋と街門と水面と、空に浮かぶ人間たちがいた。

 水中より現れた二人を見て、何やら怪訝な顔をしている。


 考えれば当たり前の話ではあった。

 おじさんという男、地図を持たず土地勘もない場所だとすぐに迷う方向音痴だったのだ。

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