チョコレイトの魔法使い。
眼前に広がる大山脈。
ごつごつとした壁は人の手を跳ね除け、乾燥し風化の進んだ山は岩石土砂入り混じった肌を曝している。上から吹き降ろす風が細かな砂利を煽り、沈みゆく太陽の光を遮り霞ませる。
首が痛くなるほど見上げても山頂は見えず、左右果てなく地平線の先まで高い山が連なっていた。
「セリーゼ。目を傷めるぞ」
【はい。ありがとうございます】
「ああ。……しかし、ずいぶんと高い山だな」
呟くおじさんの声にこくこくと頷く。
いつまでも見上げているわけにはいかないので、二人で踵を返し聳え立つ山の前から離れていく。
少し歩けば見える街。背の高い建物は少なく、平たく横に広がるように建築物が並んでいる。木造よりも石造が多い、硬い印象のある街だ。名をトンネルの街と言う。
少女がおじさんに連れられニノクニを発つこと早三日。
途中にある国境の街を経由し、イチノクニを東西に分かつ山脈の麓までやってきていた。道中で魔動車トラブルや魔物の襲撃がありはしたが、基本何事もなくここまで辿り着くことができた。
時刻は夕方の近い午後四時前。遅い昼食を終え一息つき、一度山の様子を見ておこうと歩いてきた次第だ。
山の麓と街の距離は歩いて十分程度。トンネルは封鎖されているため入れないが、外から山を見る分には誰に咎められることもなかった。
連なる山脈を見上げ、トンネルの街に戻った二人は小さなカフェに入る。
今日は宿を取っていないのだ。午前中にたっぷりの休息を取ってきたため、少女に疲れは見えず元気いっぱいである。
注文を終えたおじさんが机の上に地図を広げる。
今朝手に入れたばかりの、地名や地形情報が記載された精密地図だ。
「地図を出しはしたが、今日に限ってはあまり見ることはない」
【そうですね。朝の話だと今日の夜、ですよね】
「ああ。俺の魔法は少し特別だからな。人目は避けて飛ぼう」
【チョコレイトの翼。わたしは好きですよ】
「セリーゼはチョコレイトが好きなだけだろう?」
【そうかもしれません】
くすりと笑って手帳を見せる。おじさんも少しだけほんわかした表情を浮かべている。
この数日で、少女とおじさんはずいぶん打ち解けていた。たかが三日、されど三日だ。ほぼすべての時間を共にしていれば、それだけ相手を知ることもできる。互いを知り信頼するには十分な時間だった。
控え目に笑う少女は今日の夜に想いを馳せる。
一度だけ見たおじさんの使うチョコレイトの翼。本物のようにふわふわ柔らかく、しなやかに自由に動く翼。そして美味しい。
空を飛ぶのは、翼を羽ばたかせて空を飛ぶのはどんな気持ちなんだろうと思う。
見える景色も、感じる空気も、空飛ぶ感覚も。
全部が全部少女は知らない。おじさんは知っているのだろうか。気になる。
【あの、おじさん】
「なんだ?」
【空を飛ぶのって、どんな感覚なのでしょうか】
こうして気になったことを簡単に聞けるようになったのも少女にしてみれば大きな進歩だった。信頼の証そのものとも言える。
「俺はまだ飛んだことないぞ」
【そうなんですか?】
ちょっとびっくり。
「ああ。飛ぶ必要なかったからな。飛びたいとも思わなかったが……。まあ飛行魔法自体は試したから大丈夫だ。安心しろ」
【それは、はい】
その点については心配していなかったから大丈夫。とまでは書けない。少し親しくなったとはいえ、まだまだ人見知りは継続中である。
のんびりゆるゆると時間を使い、人の出入りが少ないことを見てカフェに長居する。途中で軽食の注文を挟み、デザートも頼み、気づけば十八時。窓の外に広がっていた青空は陰り、すっかり夜の闇が覆ってしまっている。
トンネルが封鎖されているからか、国境の街よりも
会計を済ませカフェを後にする。
人々のほとんどが旅装束に身を包み、今までより厚着をしている人も多く見受けられた。少女の服は三日前と変わらず、おじさんに買ってもらった旅人服のままだ。着替えは数着あるのでそれを着回している。
「セリーゼ。お腹は空いていないか?」
【大丈夫です。おじさんは?】
「俺も平気だ。トイレは?」
【それも大丈夫です。準備万端です】
「そうか。なら行くか」
【はい】
歩き出す。買い足すものはない。この街でやるべきこともない。
とくりとくり、微かに速まる鼓動を無視して少女はおじさんに付いていく。コートを掴んで歩くのにも慣れたものだ。
草木の少ない大地を踏みしめ進むことしばし。
夜の闇を切り裂く月光は薄く、晴れた空には青白い三日月が浮かんでいる。見えにくい視界でも徐々に大きくなるそれはよくわかった。陽の光があった時はただ大きく高く感じたものが、闇の中だと不気味に思えてしまう。
少女たちがこれから飛び越える壁、国を二つに分かつ山脈が視界いっぱいに広がっている。
「……この辺りでいいか」
暗闇では手帳も見にくいので、今はおじさんとの対話手段がない。
つまんでいる服を引っ張ることで返事の代わりとした。
「よし。セリーゼ、少し離れてもらえるか?」
掴んだ服をきゅっと離さないよう手に力を込める。
不安に駆られてつい力を込めてしまったが、暗がりの中振り返ったおじさんにそっと頭を撫でられて気持ちが落ち着く。
周囲は暗く視界が利かない。それでも、おじさんの手のひらの温もりが心の暗闇を晴らしてくれる。不安が薄れ、遠くを見る余裕もできる。
トンネルのある場所は魔石灯が複数設置されているため明るいが、そこより離れると結構な暗さになる。街の明かりが細かな光の粒のようで、一切人の声が聞こえない空間は恐怖心を呼び起こす。
本音を言えばおじさんと離れるのは嫌だったが、飛行魔法の準備をするのだから仕方ない。そっとコートを離し、一歩二歩と距離を取る。三歩は行かなかった。これ以上は……色々と怖いから。
「ふむ……セリーゼ」
呼ばれて、何も言葉を返せないので暗闇に溶けるチョコレイト色をじっと見つめる。
「手を出してもらえるか?」
言われ、サッと手を差し出した。
こういう時におじさんがくれるのはチョコレイトなので今回もそうかなと思ったが、普通に暗くて全然見えなかった。困った。ちょこんと置かれた感触はたぶんチョコレイトだけど、食べていいのかな。
「食べていいぞ。味は普通のチョコレイトだから気にせず食べてくれ。保険みたいなものだ」
「……」
ちょっぴりの不安は押しやり、ぱくりと手のひらの上のチョコレイトを口に入れる。
いつも通り、甘いお菓子のチョコレイトだった。
とろりとした甘さが身に染みる。何度食べてもふわふわと幸せな気持ちになる味は健在で、チョコレイトの香りも心に優しかった。ぽかぽかと身体があたたまる。
セリーゼがチョコレイトを堪能している間に、おじさんはささっとチョコレイトの翼を展開する。一度作り上げたものを再構築するだけなので簡単な作業だった。
数秒で形を作り、動作確認を済ませ何度か大きく羽ばたかせてみる。
ふわりふわりと風が送られる。暗闇の中少女の髪が揺れ、全身を包み込むような香りにうっとりする。心臓のドキドキはすっかりなくなり、今はチョコレイトの香りで身も心も満たされている。
「セリーゼ」
そっと頷く。
「嬉しそうなところ悪いが、君は夜目が利かないよな?」
ぴっと身体が固まった。
もしや見えているのだろうか。手帳を取り出し、ちゃんと書けているかどうかわからないけれどと、文字を書いてみる。
【はい。おじさんはみえているのでしょうか】
「ああ。はっきりと」
羞恥。
見られていないからぼんやりうっとりできたのに、見られていたとわかってしまったらそうもいかない。急激に現実に引き戻される。チョコレイトの香りはそのままで口の中にも残り香があるけれど、気分はかなり落ち着かされた。頬が熱い。
「もう戻っていいぞ。こちらの準備は終わった」
頷く。ぼんやりと輪郭だけ浮いたおじさんの傍に寄り、手と思わしき部分に触れる。――ふわふわしていた。
「そこは翼だ。触っていてもいいが、すぐに体勢を変えるぞ」
ふわふわに頬を寄せていたら、そんなことを言われる。
体勢?と首を傾げると。
「もう飛ぶからな。さすがにチョコレイト魔法でも君に翼を生やすことはできない。俺に掴まってもらうことになる」
そういうことかと納得する。
おじさんの言葉に落胆がなかったかと言われると嘘になる。ちょっぴりくらいはわたしも翼生やせるのかなと思ったりした。けど、さすがにそれは無理だったみたい。魔法はあんまりよく知らないけれど、チョコレイト魔法もそこまで万能なものじゃないらしい。ちょっぴりがっかり。本当にちょっぴりだけど。
と、考えている間におじさんが動く。
「――さて、行くか」
「……ぁ」
どんな姿勢になるのかと思ったら、お姫様を抱き上げるように支え持ち上げてくれた。少しだけ恥ずかしい。
ペンを取り出せるわけもなく、視線でこの体勢ですか?と尋ねる。
「?ああ。翼だからな。背負うわけにもいかん。セリーゼは小さいから前で抱える体勢だとこれが一番安定する。嫌かもしれないが少し我慢してくれ」
ふりふりと首を振って嫌じゃないと伝える。
ちょっと恥ずかしいだけで、別に嫌じゃなかった。むしろ、経験したことのない丁寧な扱いは本の中の世界みたいで変に嬉しくなってしまう。ほっぺたが緩む。
「そうか、ならよかった。――ちゃんと掴まってくれよ。行くぞ」
「――っ」
ぶわりと、身体が地面に引っ張られる感覚。
自分の顔が熱く、縮こまらせた身体が熱を持っているように感じる。暗くて全然見えないはずなのに、不思議とおじさんの顔はぼんやり見えて。しがみつくようにくっつくと、チョコレイトの甘い香りが肺の中を満たしていく。
「大丈夫か?」
ぎゅっと目をつむり頷く。
轟轟と風を切る音が鼓膜を揺さぶり、すごい勢いで――文字通り飛ぶ勢いで山が下に流れていく。風の音と、不思議とよく通るおじさんの声と。
もっと緊張してドキドキすると思っていたけれど、空を飛ぶのは予想より全然怖くなかった。
もしかしたらそれは、こうして少女を抱えてくれるおじさんがいるからなのかもしれない。
昔、本で読んだ。
綺麗な翼の生えた白い馬に乗ったかっこいい男の人、王子様が普通の女の子を迎えに来てくれるお話。
誰も不幸になんてならない、今思えば陳腐で面白味もない子供向けの絵本でしかなかった。――でも、その絵本が、誰も不幸になんてならない優しいお話だからこそ少女は羨ましく思った。
白い天馬もいらない。王子様もいらない。あたたかな生活があって、両親がいる。そんな普通の生活だけでいいと思った。けど、そんな"普通"は意外と普通じゃないと知った。
自分よりひどい目に遭っている子供はたくさんいた。自分よりひどい目に遭っている大人もたくさんいた。
たくさん泣いて、涙が枯れて生きることで毎日精一杯だった。そんな人が、毎日毎日大変で苦しみながら生きている人がありふれていると知った。
わたしには翼の生えた白い馬も、かっこいい男の人も王子様も来てくれなかったけど。
お父さんもお母さんもいなくなって、友達もみんないなくなって、頼れる人なんて誰もいなくなっちゃったけど。
辛くて苦しくて、泣きたくても泣けない日がいっぱいだったけど。
痛くて叫んで声が枯れて、死んじゃいそうにもなったけど。
でも――――――最後にはおじさんが来てくれた。
やっぱり白い馬には乗っていなくて、わたしよりずっと年上なおじさんだけど。
その人は、わたしと同じかわたし以上にいっぱい辛くて、それでもわたしのことをすごく大事にしてくれる人だった。
不器用で強面で、笑った顔もすごく怖いけど。
そんなの吹き飛ばすくらいにわたしに寄り添ってくれる人だった。
白い天馬の代わりにチョコレイトの翼を持って。
王子様の代わりにたくさんのチョコレイトを持ってきて。
両親の代わりに、おじさんなりの"普通"をくれようとして。
わたしのために、こうして誰も見たことのない空を――――綺麗な夜空を飛んでくれる。
おじさんは……――――おじさんは、わたしに幸せをくれるチョコレイトの魔法使いだった。
「……泣いているのか、セリーゼ。大丈夫か?」
「――っ」
声を張って、心配の眼差しを向けてくれるおじさんに首を振る。大丈夫の意味を込めて目を見ると、ちゃんと伝わったようで小さく頷いてくれた。
目尻に流れた雫が空に溶けていく。
「……セリーゼ。そろそろだぞ」
「――ぁ」
何が、と聞く前にそれは見えた。
どこまでも続くと思えた山の上。
山頂を超えて、夜空の上を突き抜ける。
風の音が薄れ、聞こえるのは自分とおじさんの呼気だけ。
「――越えたか」
おじさんの言葉に声は返せなかった。
少女の瞳に映るのは、夜の闇に光を散らばらせたかのような満天の星だった。
同じ色なんて一つもない。数えるのも億劫になるほどの眩いきらめきが夜色の絨毯を染めている。星々の光が夜空を照らし、世界を照らしていた。
こんな綺麗なものがあるなんて思ってもみなかった。本でも、映像でも、どんなものでも見たことがない。星の海。そんな言葉が頭に浮かぶ。
海になんて行ったことがないのに、不思議とそれが正しく思えた。
星空の美しさに見惚れ、きっと自分の一生でこれ以上に綺麗なものを見ることがないとさえ思う。
色とりどりの光が自分を、おじさんを照らしている。前後左右、首を回して見渡しても誰もいない。何もない。どこまでもどこまでも、永遠の先まで星の海が広がっている。
両親にも見せたかった、自慢したい。でもこれは、わたしとおじさんだけの独り占め――ううん、二人占めのままがいい。
わたしを連れてきてくれたおじさんと、まだ普通ですらないわたしをお姫様のように抱きかかえて、こんなにも素敵な星空の真っ只中に連れてきてくれたおじさんとわたしだけの、世界で一番に綺麗な景色。
「セリーゼ。……綺麗だな」
「……」
ゆっくりと頷く。
少しだけ落ち着いて、興奮で乗り出していた身体を戻す。すっぽりとおじさんの腕の中に収まると、地上で見えにくかった視界がここだと嘘のようにはっきりしていることに気づく。
おじさんの顔が星の海を背景に綺麗に切り取られたようだった。
チョコレイトの香りと、チョコレイトの瞳と、瞳に映り込む星の色と。
緩んだ口元はほんの微かで、表情なんて一切変わっていないようにも見える。
でも、それは確かに微笑みで。
先の言葉も含めて、自分と同じように思ってくれていたらいいなとセリーゼは思う。だからもう一度、声にはならないけれど、想いだけでも伝わるようにとおじさんにぎゅっとしがみつく。
「――――」
本当に、綺麗。
星の海に音は響かない。おじさんは少女の声を聞き届けていないし、少女もまた届いていると思っていない。それでも、視線だけでも伝わるものはあった。それで、それだけで彼女には充分だった。
セリーゼは柔らかく微笑み、この光景をいつでも思い出せるようにと、世界を包む星の海を目に焼き付けるのだった。
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