外食とチョコレイト。

 ☆



 がやがやと騒々しく人の声が聞こえてくる。

 食器の音と陽気な話し声が混じり、店内の明るい魔石灯も合わせれば既に日が落ちてしまっているなんて嘘のようだ。


 机に置かれた複数の大皿にはそれぞれ異なる料理が載せられている。

 野菜、肉、野菜。今日の夕飯は野菜中心の栄養バランスに優れたものだった。大皿より手前にはパンとスープが小皿に用意され、主食もしっかりと完備されている。


 パンを千切りスープに浸してもいいし、野菜や肉を載せて食べてもいい。

 既に四分の一ほど食べ進めたが、どの料理も美味しくて少女はすっかり笑顔でいっぱいになっていた。


「セリーゼ。うまいか?」


 もぐもぐしながらこくこくと頷く。食器を置いて手帳を取ろうとするが、おじさんは首を振って制した。食べるのを優先して良いとの話だ。ありがたく食事を優先させてもらう。


 自分の食事もそうだが、前に座るおじさんの食事もちゃんと進んでいるようで一安心である。もう、食べてないとかご飯食べられないとか、悲しい話をしなくてすむ。


「どうかしたか?」


 少し見過ぎていたかもしれない。なんでもないと首を振る。本当に用はないのだ。ただ単に、一緒にご飯を食べられることが嬉しかっただけでしかない。


 交わす言葉の数は少ないが、二人にとってはそれで充分だった。

 時々かけてくれる声。何を言わずとも見守ってくれている視線。特に美味しいと思ったものを追加で渡してくれる気遣い。少女が気づいている以上に、おじさんは少女のことをよく見ていた。

 それはきっと、少女が声を出せないからという理由だけでなく、おじさん自身が彼女を守りたいと思ったからでもある。


 外食で気後れしていたが、温かな食事により緊張も解け、他人への警戒が薄れていく。それなりにリラックスしたことで周囲に目を配る余裕も出てくる。


 野菜と肉を載せたパンを食べながら、改めて店内を見渡してみる。


 少女とおじさんが居るのはイチノクニとニノクニの境に位置する街、"国境の街"の中心部にある一軒の料理屋だった。居酒屋ではない。というより、外食店はすべて酒を提供しているので、料理のみを出す店なんてものは国境の街に存在していなかった。


 少女は未だ十五歳。この世界の成人は男女等しく十六歳なので、実年齢だけ考えればもうすぐ酒を飲める年齢だ。だがセリーゼの外見は十歳そこら、良くて十二歳程度にしか見えない。酒など遠い先の話だ。どちらにしろ彼女が酒を飲めるようになるのはまだ先なので、机に置かれたコップの中身は水だった。もちろん向かい席に座るおじさんも水だ。

 ちなみにおじさんは三十五歳なので酒などいくらでも飲めるが、体質の問題で酔えないため一切飲まないようにしていた。無駄遣いはしない主義である。


 二人の座る席は店の入口に近い角席一つ手前にある。

 店内に仕切りはなく、すらりと視線を流せば全体を見渡せる。


 一人席はカウンターにしかなく、そこはちらほらと空きが見える。四人以上のテーブル席が多く、それらはほとんどが埋まっていた。座っている人は男女問わず若い人からおじさんくらいの年齢の人まで。お年寄りは見受けられない。


 酒を飲んでいる人も多いが、中には食事だけを楽しんでいる人もいる。

 あまり――というかセリーぜに外食の経験は両親が健在だった頃にしかなく、それもこうした酒屋風な店ではなく落ち着いた雰囲気のお店ばかりだった。


 外国の料理も新鮮ではあるが、店内の雰囲気もまた少女にとっては新鮮だった。

 お酒を飲んでいる人たちの空気、明るさ、騒がしさ、夜とは思えない昼間のような空間。


 天井を見上げ、魔石灯の眩しさに目を細める。

 お昼寝をしたからか眠気はなく、まだまだ食べられるがひとまず空腹は満たされている。前を、おじさんを見て、この人はお酒を飲まないのかなと思う。聞いてみよう。


【おじさん】

「ああ」

【おじさんはお酒、飲まないんですか?】

「飲まないな。俺は酔えないんだ。それに……セリーゼ。手を出してみてくれ」

【はい】


 すっと差し出す。こういうのにもそこそこ慣れてきた。おじさんがくれるのはきっと、というか確実に。


「まあいつも通りチョコレイトだが、食べてみるといい。こっそりだぞ?」


 予想通りにチョコレイトだった。

 こっそりと言われたので、こっそり頷いて誰も見ていないことを確認してから口に運ぶ。チョコレイト自体の大きさは今まで食べてきた中でも小さめだったので、口に入れるとすぐにとろけていく。手のひらの温度では一切溶けなかったのに、やっぱり口の中だと一瞬だ。不思議。


 純粋な甘みは抑えられ、代わりに果実の酸味と甘みが混じってチョコレイトの風味が引き立てられていた。いつもより甘くないはずなのに、より甘く感じる。

 不思議な甘さの中に、くらりとするような蠱惑的な香りが鼻を抜けていく。チョコレイトの香りに混じった果実のような、でも少し違うような不思議な匂い。どこか癖になるような気もするけれど、少女としてはいつものチョコレイトの方が好きなような気もする。贅沢かな、なんて思いながらチョコレイトを味わう。


 どっちの方が好きとか言っても、美味しいものは美味しいし甘いものは甘いのだ。チョコレイトは美味しい。これで決まり。


「どうだ?」


 目を開けておじさんを見る。無表情のまま、でも少しの期待と心配を混ぜた色の瞳をしていた。

 手帳に感想を書きこむ。


【美味しいですけど、不思議な香りと甘さでした】

「そうか。……気分は悪くないか?」

【大丈夫です】


 書いて見せてみて、追記するかと迷う。なんとなくでしかないけれど、いつもと違うチョコレイトな気がした。

 おじさんを見て、どうせならと追加で書き込む。


【おじさん。今のチョコレイト、いつもと違うやつでしたか?】


 手帳を見せながら自分でも少し考えてみる。


 果実が入っていたにしては食感がなかったし、おじさんの聞き方からして少し身体に悪いものが入っていたのかとも思う。けど、おじさんがわたしに悪いもの渡すわけない。あぁでも、こんなに美味しいチョコレイトなら身体に悪いって言われても食べちゃうかもしれない……。チョコレイト魔法の対価がそれなら納得できる。悪いものでもきっと……この美味しさを知っちゃったらみんな食べるから。


 むんむんと考えている間におじさんの方でも答えが出たらしい。一つ頷き口を開ける。


「セリーゼ。今のチョコにはラムレーズンが練り込まれていたんだよ」

【ラムレーズン】

「ああ。ラム酒に漬け込んだレーズン……果実のことだな。いくら身体に影響のないラム酒とはいえ、アルコール混じりであることには変わりない。少し心配だったんだが……大丈夫そうか。酒の感覚はどうだった?」

【お酒、だったのですね。甘くて美味しかったですけど、わたしはいつもの方が好きかもしれません】

「そうか」

【はい】

「宿に戻ったらホットチョコレイトでも飲むか」

【はい!】


 不思議な香りの正体はお酒だった。

 嬉しいお知らせももらったので、とりあえず今は目の前の料理を楽しもうと食器を手に取る。今度は野菜たっぷりでパンをと思ったところで。


「――おいもう一度言ってみろ!!」


 大きな怒声が店内に響いた。

 驚き肩が跳ね、危うく食器を取り落としそうになってしまった。慌ててフォークを握り込む。


「ハッ、うじうじ辛気臭ぇっつったんだよ。そういうのは教会か墓場でやれよ」

「てめぇ……!!」


 食器が割れる音と、何かが倒れる音と。

 顔をあげてお店の中心を見ると、何やら床に倒れた男の人と散乱したお皿と食べ物が目に入る。椅子と机も崩れ、どうやら立っている男の人が倒れた男の人を蹴ったか殴ったかしたらしい。


「上、等じゃねえかっ。おめおめ仲間見殺しにした負け犬がよ!」

「――お前ッ!!」


 知り合いなのかそうじゃないのかさえわからないが、同じテーブルに着いていた人たちも険悪な様子だった。


 大声を聞くと身体に震えが走る。店内は静まり返り、緊張感に満ちている。

 どうすればいいのかわからず、前に座るおじさんを見る。


 おじさんは言い争いに顔を向け、すぐにこちらへ向き直る。難しい顔をしていた。


「セリーゼ」


 こくりと頷く。手帳に書こうとも思ったが、指の震えがひどかったのでやめた。


「少しこちらに近づいてもらえるか?」


 言われて、気持ち身体を前のめりにして頭をおじさん側に動かした。


「……っ」

「安心しろ。すぐ解決してやるから」


 優しい言葉とともに、そっと近づけた頭に温かな手が乗せられた。体温の熱がじんわりと全身を解していく。この手だ。このあたたかな手が少女に安心をくれる。心配しなくていいって思わせてくれる。


「……」


 ほっと息を吐き、楽になった心でおじさんを見る。

 もう頭の上から優しい手はいなくなっている。チョコレイトの瞳もこちらに向いていない。おじさんは喧嘩を……いつの間にか殴り合いになっている喧嘩を止めようとしてくれるらしい。


 でもどうやってやるんだろう。疑問が浮かぶ。

 じっと目の前を見ていたら、おじさんはまず机の上のカップにチョコレイトを入れた。ぽとぽとぽと。暗褐色の四角形が落とされ、みるみるうちにスープがチョコレイト色へと変わっていく。

 スプーンでかき混ぜている姿は本物の魔法使いのようで――おじさん、ちゃんと本物の魔法使いだった。


 チョコレイトスープになって終わりかと思ったら、まだ続いていた。くるくるかき混ぜていくとどんどん湯気が増えてきて、ついにはスープがぼこぼこと煮立ち始めた。どんな原理か火にかけてもいないのに沸騰している。


 スープが沸騰したところで、再び固形のチョコレイトをぽとぽとと落とす。一つ二つ三つ。

 湯気が立った辺りから漂っていた甘い香りが、新しく加えたチョコレイトにより強くなる。嗅いでいると気分が落ち着くような、ゆったりするような心地になってくる。あとチョコレイト食べたくもなってくる。


「……こんなところか」


 少女の視線の意味を察したのか、おじさんは小さく頷いて呟く。


「セリーゼ。少し待っていてくれ」


 ちょこんとした頷きだけで返事をし、チョコレイトスープを持って立ち上がるおじさんを見送る。

 心配と不安と寂しさは漂うチョコレイトの香りで中和された。


 少女と同じくおじさんの後姿を見送る客が多数。

 気づけば殴打の音はなくなり、物音も声も薄れていた。


 そっと歩くおじさんの足音だけが聞こえ、諍いの下に辿り着くと男の人たちに声をかける。


「――少し落ち着くと良い。酒に酔っているんだろう。皆見ているぞ。気を静める薬湯だ」

「あ、あぁ。……悪い」

「……すまない。助かった」


 呆然とした様子の二人に、空いた器へ分け入れたスープを渡す。

 何事もなく戻ってくるおじさんの表情に変化はなく淡々としていた。


 床に散らばった料理や皿は近くの人が片付けを手伝い、争っていた人も謝り合って仲直りをしている。誰が喋り始めたか、こそこそとした会話が始まり徐々に元のお店の姿を取り戻していく。


「セリーゼ?」


 名前を呼ばれ、ハッとなって慌てて手帳を取り出す。おじさんはもうテーブルに戻って椅子に座っていた。


【はい。なんでしょうか】

「いや、ぼうっとしていたようだったからな」


 返事を書こうとしてペンが止まる。何を書けばいいかわからなかった。

 ちらちらと周囲から向けられていた目もすぐになくなる。おじさんが周りを見ていないから他の客も気にしなくなったようだ。


 何と返そうか迷い、思ったことをそのまま伝えることにする。


【チョコレイト、すごいです】

「あぁ。そうだな……。気になるか?」


 言われ、こくりと頷く。

 気にならないと言えば嘘になる。ただのチョコレイトにしか見えなかったのに沸騰したり人を落ち着けたり。どんなチョコレイトだったのか気になる。


「まあ……後で教えてやろう。今は料理を食べてしまおう。スープも冷めて……」


 途中で言葉が止まったのを聞き、何を?と直前の単語を拾う。スープを見て察した。おじさんのチョコレイトスープはさっき持っていってしまったのだ。


 ちらと自分のもの、まだ半分ほど中身が入っているカップを見る。

 全然飲み切れるし、美味しいスープはお代わりだってもらいたいくらいだが……。


【おじさん、スープ、飲みますか?】


 今はこれを飲まなくても飢えたりなんかしない。おじさんが飲みたいならと聞いてみる。

 少女の言葉を読んだおじさんは僅かに口元を歪ませ、首を振って軽く笑った。


「いやいい。セリーゼが飲むと良い。スープ、好きなんだろう?」

【はい。はい、好きです】


 頬に熱が灯る。照れくさい。動揺で二回も"はい"と書いてしまった。

 これじゃあまるで食いしん坊な子供みたい……。思いながらも、割と事実かもと自分自身に落胆する。しょうがなく塩気の効いた野菜を食べて、でも美味しいから食いしん坊でもいいと思い直す。


 ただ一つ訂正として、文字にはしないけれど、スープだけじゃなくて目の前にある料理全部好きということは伝えておきたかった。恥ずかしいから伝えないけど。


 ぽかぽかとした気持ちで、争いも諍いも一切感じさせない穏やかな空間で、少女とおじさんは食事を続ける。


 このすぐのち、喧嘩の仲裁をしたお礼として店からデザートをもらうことになる。クリームで彩られたプリンを食べた少女がとびっきりの笑顔を見せ、それを見たおじさんもまた不器用に笑顔を浮かべることになるのは、もう少しだけ先のこと……。

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