チョコレイトの翼と食事。

 背の低い草木が右から左へ流れていく。

 視線を奥にのばすと、徐々に動きを鈍くし地平線では一切動きを見せない大地がどこまでも続いていた。薄い緑と剥き出しの大地と。二色入り混じった景色は果てが見えず、荒涼とした土地に芽吹く生命を中天に浮かぶ太陽が祝福するように照らしている。

 空は青く、雲は吹き抜けの風に飛ばされていく。晴れ渡る青空は絶好の旅日和だった。


「セリーゼ。痛みはどうだ?」

【もう痛くないです。ありがとうございます】

「そうか。ならいい」


 流れる車窓から視線を移し、隣に座る男――おじさんを見る。

 男の人にしては長い髪を全部後ろに回し一括りにまとめ、眉間に皺を寄せてこちらを見ていた。強面で目つきは鋭く、無表情に重ねて眉間の皺。見た目からかなり怖いが、この人が実は自分のことを心配していると知っている。


 だから少女――セリーゼは小さく頷き微かな笑みを浮かべた。

 よく見ないとわからないような微笑ではあったが、おじさんは無言で頷き前を見た。


 ガタガタと揺れる車内にて。

 お世辞にも乗り心地が良いとは言えないバスに乗り、セリーゼとおじさんの二人はイチノクニに向け移動を開始していた。


 時刻は十二時を過ぎ、バスがニノクニ国境の街を出て既に十分は経っている。

 

 魔法で舗装された道路はコンクリート製のものと比較しても遜色なく、滑らかに車のタイヤの回転を受け止めていた。

 とはいえ。


 とはいえ、如何に地面が走行に適していようとも、車体そのもののクオリティが低ければ意味はないのだが。


 がたり、がたり。がんごんどどんぐわんぐわん。


 比喩でなく真実としてこの程度の擬音は鳴っていた。

 魔動車は未だ発展途上の代物であり、連合国が発掘した資料を参考に作り上げたものに過ぎない。魔法と科学を融合させてはいるが、技術としては未熟も未熟。加えてセリーゼが乗っている魔動車、バスは連合国から型落ち品として売り渡されているものになる。


 未熟な技術で作られた魔動車の、さらに一つか二つほど世代が前のもの。

 そこまできてしまったら、走行中上下左右にガタつくのも無理はない。


 少女にミニアトラクションを楽しむ余裕はなかったので、事前に言われていた通りお尻が痛い旨をおじさんに申し出た。

 結果、柔らかふわふわのチョコレイトクッションが座席に用意されることとなった。柔軟に形を変え少女の体重を支える姿はスライムのよう。見た目は暗褐色のチョコレイト色で、実際もチョコレイトだが溶けることはない。安心設計である。


「……」


 車内は静けさに満ちていた。聞こえるのは機械的音とガタガタゴトゴトと騒がしい物音だけ。座席はすべて埋まり、十人近くは乗っているというのに話し声一つ聞こえない。

 それも当然だ。喋れば舌を噛む。出発したばかりの頃は会話の声も聞こえたものだが、今となっては皆揃って口を噤んでいる。もちろん少女もだ。必要最低限以上の会話はしない。バスに乗る時のコツだ。


 無言でチョコレイトクッションに身を預けることしばし。

 窓の外を眺めていても景色は変わらず、飽きも回りおじさんと簡単コミュニケーションを取ったり、他のお客さんを観察したり。


 喋らなくてもいいので、おじさんとの対話は服をつまんだり頷いたり首を振ったりチョコレイトをもらったり程度だった。いつも通りだ。

 人間観察もおじさんが壁になってくれているおかげでこっそり行うことができ、旅人の格好をした人ばかりで少し気が楽になったりと。


 実りある時間――というわけでもないが、少女なりに初めての魔動車を楽しむことができた。チョコレイトクッション様々である。


 次の街、イチノクニとニノクニの境にある国境の街に着いたのは午後の二時。まだ空は明るいが、そろそろ日は下り始める時刻だった。


 バスを降りる人たちは誰しもが腰や尻を支え押さえるようにして歩き、外に出ると大きく伸びをしている人も多く見かけた。


「……っ」


 彼らほどではないが、セリーゼも小さく息を吐き新鮮な空気を肺に取り入れる。

 足腰に痛みはなく、他の人と比べれば楽なものだ。


 バスを降りて軽く周囲を見渡すも、出発地である国境の街(西)との違いはあまり感じられない。


 黒のバス、石造りと木造の建物、舗装された道、旅装服の人たち。

 バスの数や人の数はかなり減っているようにも思えるが、それ以外にあまり違いはなさそうだった。まあでも、バスを使えばほんの二時間で着いてしまう距離なのだから、そう違わないのも当然かと納得する。


「セリーゼ。行くぞ」


 おじさんに呼ばれたので付いていく。似たような場所でも見知らぬ場所であることには変わりないので、前を歩くおじさんの陰に隠れコートの背を掴んで歩く。


 この歩き方だと前は見えないしおじさんが止まったらすぐぶつかるしで、一見危ないように思えるかもしれない。……いや、実際に危ないので"かも"じゃなかった。普通に危ない。けど、その危なさ以上の利点がある。


 落ち着く。

 そう、落ち着くのだ。はぐれないというのも利点の一つだが、そんなのより何よりセリーゼにとっては気持ち落ち着いて安心できることの方が大事だった。歩きにくいが歩きやすい。矛盾はしていない。


 おじさんが立ち止まると、こっそり横から前を覗き見て場所や状況を確認する。

 どこへ向かったのかと思ったら、国境の街(北)のバス停だった。


 ガラス扉を開けて中に入る。

 広さは充分。人数はそれなり。前の街より少なく見える。


「どうも。こんにちは」


 挨拶をするおじさんと受付の人の話を聞きながら、少しだけ気を張って警戒しておじさんのコートにくっついておく。……やっぱり話は聞く余裕はあんまりないかも。


 じっと耳を傾けることに集中し、集中し、集中し……――――――気づいたら宿にいた。


「……?」


 意味がわからなかった。

 おじさんの話を聞いて、付いていって、外に出て……?その辺の記憶が曖昧になってる。わたし、そんなに切羽詰まってたのかな……。


 ずーんと気持ちが沈む。

 特に焦りはないのでここが危険ということはないらしい。宿の一室、のベッドに少女は横たわっていた。


 部屋の間取りは昨日泊まった場所とそう変わらず、ベッドがあって机があって椅子があって。二人用の部屋のまま、木造の宿も変わらずだ。


 身を起こし軽く見回して、なんとなくこの宿まで来た流れを思い出した。

 バス停で話を聞いて、結局今日は次の街まで行くバスはもうなくて、おじさんが宿探しの道すがら色々教えてくれた。そのことは不思議と頭に残っている。


 予定通りに今日はこの街で一泊する。

 さっき街中でニノクニからイチノクニへの通行許可は発行してもらった……もらっていたと思う。たぶん。国境の街(北)は国境の街(西)と違って本当の意味で街が国境に位置しているため、北と南で国が分かれている。


 国を渡るにはちゃんと許可をもらわないといけないので、お金を払ったり目的を伝えたりとしていた……と思う。たぶん。全部おじさんがやっていたからあんまり覚えていない。


 そのまま街の北側で明日のバスの予約をしてお金払って、ちょっと戻って宿に入って今。


「……」


 ベッドに横になっていた自分の身体を見下ろしてみる。

 服はコートだけ脱いで朝と変わらない。靴は履いていなくて、靴下も脱いでいる。服がしわしわになっていて、目がしょぼしょぼする。


 もしかしなくてもわたし、寝ちゃってた?

 それなら頭がぼんやりするのも記憶が曖昧なのも納得できちゃう。おじさんは……――普通に椅子に座ってた。


「……?」

「……あぁセリーゼ。起きたのか」


 状況がわからなくて見ていたら、ぽそりと呼ばれる。首を傾げ頷き、手帳を取って聞いてみる。


【あの、わたし、寝ていたのでしょうか】

「ああ。部屋に入ってすぐだな。外を歩いている途中から眠そうで俺が手を引いてやっていたが、ベッドに横になってすぐだったよ。布団はかけておいたが……寒くはないか?」

【はい。寒くはないです。大丈夫です】


 寒くはない。コートはなくても長袖の服を着ているし、布団もある。それはいいとして……そうかもと思って聞いてみたけど、本当に眠ってしまっていたみたいだ。


 困惑と弱い眠気を携えながら、回らない頭を回して疑問を書き込む。


【おじさん。今、何時でしょうか】

「少し待て……十七時半を過ぎたところだな」

【十七時半。ありがとうございます】


 時計はおじさんしか持っていないので、首掛けの丸時計を確認してもらう。

 十七時半との答えをもらいお礼を伝えた。


 ちらりと部屋のガラス窓を見て、目に映る空が濃紺に染まっていることを知る。

 もう三十分もすれば真っ暗な夜の空へ変わってしまうだろうと思い、窓から見える景色が空と向かいの建物だけなことにも気づく。


 そっと床に降り立ち、ガラス窓に近づき景色を確認する。

 眼下には行き来する人々。向かいは四階建ての建物。眩い人の営みが夕闇を照らし、雲一つない日暮れの空をかき消そうとしていた。


 一人で見ていると怖いのですぐに離れ、おじさんの座っていた椅子の横に座る。

 横を見ると、コートを脱いだ少女と似たような格好のおじさんが何か作業をしていた。机の上に広げられた地図と、手前に置かれた灰色の手帳。


「どうかしたか?」

【いえ。もうこんな時間なんだなと思いまして】

「あぁ、そうだな」

【おじさんはずっとここに?】

「ああ。さすがにトイレには行ったが、外には出ていない。君を置いて出るわけにはいかないだろう?」

【ありがとうございます。すみません、ずっと寝ていて】

「構わんよ。気にするな」


 ペンを机に置き、こちらに向き直ってくれる。

 おじさんと見合うことになって、恥ずかしさはあっても今は緊張しなかった。目が合っていても身体が固くなることもない。寝起きだからだろうか。不思議と気分が凪いで落ち着いていた。


「セリーゼ」

【はい】

「今日バス停で俺が話していたことは覚えているか?」

【明日の分の乗車券を買ったことは覚えています】

「そうか。じゃあ少し話そう」

【お願いします】


 昨日と同じく教えてもらう。といっても、昨日ほど細かい話ではなかった。


 ざっくりまとめると、明日は朝八時に出発する。できればさっさとバスを予約して次の街に行く。行けなかったら泊まる。今日と同じ。以上終わり。


「――それと、麓の街に着いてからの話をしよう」

【はい】

「トンネルが山崩れで塞がっているという話は聞いたな?」

【大規模な改築をすると】

「そうだ。今日北側の停留所で細かい話を聞けたが、再開通までは半月以上かかるらしい。さすがに半月の足止めは面倒だろう。金を払って飛行魔法使いに山越えを頼むことも考えたが……」


 そこで言葉が途切れる。

 地図に向けられていた目が再び少女に移る。

 見つめ返し、話を咀嚼しながらふと思う。おじさんが何を考えているのかわからないけど、チョコレイト色の瞳を見ているとチョコレイトを食べたくなってくる。


「自力で飛べるなら飛び越えた方が早いだろう。最初に山越えの話をしたのが現実となってしまったな」

【チョコレイト魔法で空を飛ぶお話ですか?】

「ああ。……そうだな。少し見せておいてもいいか」


 そう言って立ち上がり、部屋の中心に行く。机からもベッドからも離れた、一番空間を広く取れる場所。


 あまり説明はなかったが、なんとなく何をするのかはわかる。チョコレイト魔法を使った空の飛び方を簡単に教えてくれるのだろう。翼を作るとか、そんな話を聞いた。


「俺が飛ぶ時は――こうする」


 おじさんの姿をじっと見ていたら、急に少女の鼻を甘い香りがくすぐった。

 目が冴え、同時にお腹がくぅと鳴る。おじさんが一切こちらを見ないので聞いていなかったと安堵する。一瞬逸らした目を戻し、瞳を丸くしてぱちりと瞬き。ちょっと理解が追いつかなかった。


 少女の視線の先、コートを脱ぎ楽な格好をした男の背に焦げ茶色の塊が集まっていた。

 割れたガラスが元に戻るように、砕けた石が元の形を取り戻すかのように。

 チョコレイトが連なり重なり、一対の大きな翼を作り上げる。


「こんなところか」


 呟くおじさんの背に、大きなチョコレイトの翼が生えていた。

 服を着たままだというのに普通に背中から生えている。精巧な茶色の翼は一枚一枚羽が作られ、本物のようにゆらりゆらりふわふわと動く。

 おじさんの背と同じかそれ以上に横に伸びた翼は窮屈そうに揺れている。すごすぎて声に出せなかったが、とりあえず宿の一室でやるものじゃないなと思う。


「セリーゼ。少し見ていろ」

「……っ」


 言われた通り見ていようと思った次の瞬間、おじさんはふわりと宙に浮いていた。

 翼はゆっくりと羽ばたき、こちらに甘く甘い香りを運んでくる。


 どうしてそれで飛べるのと言いたい気分ではあったが、それ以上にセリーゼは興奮していた。すごい。飛んでる。


 少女にとって人が飛ぶというのは知識だけのものだった。知っていても見たことはない。魔動車と同じだ。場所が宿の一室だとしても、方法がチョコレイトの不思議な翼だとしても、それでも人が宙に浮き、空を飛んでいることに違いはない。


 ちらと窓を見て、暗くなった空を見る。

 あの空を、どこまでも広がる空を飛べるのかと思うとわくわくして、ドキドキして――きゅるりとお腹が鳴る。


「……ぅ」

「ふ……はは。お腹が空いたか。チョコレイトを食べるといい。この翼は普通のチョコレイトと同じだからな。ほら」


 と、翼の片方を器用に動かしてこちらに向ける。

 そっと床に足をつけ、チョコレイトの翼に近づいて触れてみる。


「……!」


 本物の鳥の翼と同じように、ふわふわで柔らかだった。

 おじさんに目で食べていいか聞いてみると、こくりと頷かれる。許可をもらえたのでふわふわの翼に指を添わせ、羽の一枚をゆっくり引き抜いてみる。はらりと音もなく抜け、すぐに新しい羽が生えてくる。


 柔らかなチョコレイトの羽を口に入れると、想像の数倍は柔らかく口溶けの良さが抜群だった。スゥっと文字通り消えるように羽が溶け、口の中にはチョコレイトの甘みがいっぱいに広がる。自然とほっぺたが緩み、少女の顔に笑みが広がる。


 びっくりするほど美味しい翼だった。


「さて、セリーゼのお腹も限界だろうし、夕食を食べに行くとするか」

「っ!」

「はは、悪いな。コートを着るといい。外に行くぞ」


 ふわふわの翼をむぎゅりと抱きしめる。

 外はちょっと、あんまり行きたくないかもしれない。気分が沈む。


「ああ。旅は長い。外食に慣れておいてもいいだろう?」

「……」


 言っていることは正しいけれど、まだちょっと外での食事は怖いというか、緊張するというか……。

 こわごわとした気持ちを言葉にできなくて、どうしようかと足が棒になる。口に残るチョコレイトの甘さが逆に苦々しかった。


「――安心しろ」


 ぽん、と頭に手が置かれる。

 見上げるとおじさんの優しい眼差しが降ってくる。


「セリーゼのことを俺が守ってやるから、安心して夕食を楽しめ。食事は大事――だろう?」

「――」


 この人は本当に……わたしが欲しい時に欲しいと思った言葉をくれる。

 おじさんの笑顔はやっぱり怖いけど、でもその怖さがわたしに安心感をくれる。おじさんとなら、外食くらいなんでもないって、全然大丈夫だって思えてくる。


 ついさっきまで重かった足が羽のように軽く、自由にどこまでも――それこそ空を飛べそうなくらいに軽く感じる。


 手帳にかきかきと記し、書き終えた後にちょっぴり恥ずかしくなって顔を隠しながらおじさんに見せる。


【ご飯、大事です。おじさん、ありがとうございます】


 別に変なことを書いているわけじゃないのに、おじさんの優しさが身に染みて妙に恥ずかしくなってしまった。


 なでなでと頭が撫でられる。

 顔の熱さを誤魔化すようにおじさんから離れ、畳まれていたコートを手に取り腕を通し羽織る。

 マジックバッグを身につけ、先に準備を終え部屋の入口に立っていたおじさんの下へ。


「行くか」


 おじさんの言葉には小さく頷きを返して。

 体は軽く、心も軽く。

 少女はおじさんの服の裾を掴み、気持ち弾むままに夕食探して夜街へと繰り出すのであった。

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