遠く旅路。二人旅。
買ったものをすべてマジックバッグに詰め宿に戻った少女とおじさんは、部屋での昼食を終え食後のティータイムを楽しんでいた。
平和な午後のティータイム、お茶とお茶請けはホットチョコレイトである。
人混みに疲れた少女が男の傍を離れようとしなかったり、掏りと出くわしたり、夕食用の料理を買うのに迷い過ぎたりと色々あったが、ずいぶん久しぶりなセリーゼのお出かけは無事に終わりを迎えた。
宿に戻り、ある程度くつろいだ後。
時刻は夕方が近く、窓の外では傾いた日が青空を薄め始めている。
カーテン越しの夕日を部屋に取り込み、机の上の魔石灯を点け、椅子に座った二人は並んで地図を広げる。
万が一にもぶつけて落とさないようにと、先ほどまでホットチョコレイトが入っていたお揃いのマグカップは、ベッド脇のサイドテーブルに置かれていた。もちろん中身は空っぽだ。
「改めて俺たちがこれからどう動くかを話す」
【はい】
「どこまで話したかは覚えているか?」
【はい。ナナノクニに住むのですよね】
「ああ。……ふむ、先に少し詳しく説明しておくか。セリーゼとの暮らしも長くなりそうだからな」
【はい】
嬉しい。具体的に何がどうして嬉しいのかは上手く言葉にできないけれど、ひたすらに嬉しかった。ついつい頬が緩んでしまう。
「ナナノクニで家を買い住むという話はしたが、どうしてナナノクニなのかまでは話していなかったと思う。セリーゼはナナノクニについて何を知っているんだ?」
【あまり知りません。ミコク南部にある山脈が壁となって雪が多いとだけ】
「そうか。雪を見たことは?」
【ない、です。サンノクニは、気候は温暖でしたから】
人類領域後方に近いだけあって、気候は一年中温暖だった。これが水上都市国家群まで行ってしまうとまた環境は大きく異なるのだが、少なくとも少女の故郷であるサンノクニは暖かな国だった……。
気候だけは暖かく他の全部が冷たかった国のことは忘れ、おじさんの話に集中する。
「あぁ。ニノクニも含め中原国家は暖かいところばかりだったな。ならナナノクニには驚くかもしれない。あの国は雨がほとんど降らないらしいぞ。俺も行ったことないから詳しくは言えないが、雨の代わりに降るのはすべて雪だそうだ」
【それは、寒そうです】
「そうだな。寒いぞ。こちらとの気温差は……どうなんだろうな。少なくとも半袖じゃ家の中でも耐えられないだろう」
【だからわたしの服も長袖だったのですね】
「ああ。道中で買い足すことも考えているが、長袖の衣服とコートがあれば最低限の防寒にはなると思ったんだ。旅装具店で防寒具も買ったから、ある程度の寒さなら凌げるだろう」
ふんふんと頷きながら、ナナノクニへの興味が湧いてくる。雪も見たことがなければ、そんな寒さも体感したことがない。
もしも少女がナナノクニで孤児になっていたら、きっともう生きてはいなかっただろうと心が冷えることを考えてしまう。その点だけは生まれたのが温暖な気候のサンノクニでよかったと思う。
「セリーゼ。震えているが大丈夫か?」
【大丈夫です】
心配の声に申し訳なくなる。
この震えは寒さから来ているわけではない。思い出して、もしもを考えてしまって、恐怖と絶望と安堵に自然と身体が震えてしまっていたのだ。
止めようにもそう簡単には止められない。時間が経てばきっと収まる――。
「――これを食べるといい」
渡されたのは丸いチョコレイトだった。今食べた方がいいのかなと迷っていると、おじさんがゆっくり頷く。
「チョコレイトだ。遠慮するな。噛むなよ?ゆっくり口の中で溶かすんだ」
小さく頷き、手渡された丸いチョコレイトの塊を口に入れる。
口内の温度で溶けていくチョコレイトは、いつもと変わらずに甘くとろけるような心地にしてくれる。ただ、おじさんが急にくれたにしては普通過ぎるかも……。
「ぁ……」
口の中で転がしていたら、チョコレイトが割れて中から温かい液がじんわり滲み出てくるのを感じた。ホットチョコレート……よりも熱さと甘さは抑えられ、代わりに強い風味が口の中いっぱいに広がる。鼻を抜ける香りは上品な紅茶のようで、落ち着きを通り越して眠気さえ出てくるような気分だった。
「気持ちは落ち着いたようだな」
こくこくと頷く。
「セリーゼに渡したのはリラックスチョコレイトだ。気分を落ち着かせる効果がある」
【美味しかった、です。ありがとうございます】
気づいたら身体の震えは止まっていた。さらりと感謝を書いて伝えておく。
チョコレイトが美味しいのはもちろんだけど、おじさんの魔法、やっぱりすごい。
「話を続けるぞ。ナナノクニは雪が多くとても寒い。正直普通に生活するだけでもニノクニ近辺と比べて大変だろう。だが、ナナノクニは陸上国家群の中で最も安全と言われている。雪の山脈が壁となり外敵も気安く立ち入れない。魔物や成り損ないもまた、雪に包まれた場所ではそもそもの絶対数が少ない。人が生きるのに厳しい環境は他の生物であっても同じだ。人類領域東方なだけあって魔獣族との接点も少ない。身の安全を確保し生活していくには適した環境だと思う」
【危険は少なそうですけど、安全なところだと人でいっぱいになっていませんか】
「そうでもないみたいだぞ。寒いから」
【そんなに寒いのですか?】
「寒いみたいだな」
【寒いですか】
「ああ……だがまあ安心しろ。最悪俺たちにはチョコレイト魔法がある。いくらでも暖は取れるさ」
【チョコレイト、すごいです】
チョコレイトが万能すぎてびっくりしてしまった。
甘くて美味しくて、その上色々生活の役にも立つなんてすごすぎる。
少女個人としては、単純にホットチョコレイトだけで寒さは乗り切れるんじゃないかと思っていたりもした。あったかいし甘いし、栄養もありそうだから極寒の中でも生きていけそうな気がしたのだ。寒い冬を知らないので本当に気がしただけではあるけれど。
「ナナノクニの事情についてはこんなところでいいだろう。ここからは今後の動きについて話そうと思う」
短く頷く。
一区切り付き、今度は机の上の地図を見ながら話を始める。
おじさんの指を見ると、ちょうど現在地、ニノクニと連合国との間に指先が当てられていた。
「今俺達がいるのは大体この辺りだ。国境の街から北上し、まずはイチノクニに向かう。国境沿いは連合国の魔動車用に道が整備されていると聞いたから、それを使おう」
【魔動車ですか】
魔動車。
魔石を燃料とし、魔法と科学を原理とした自動で動く車のこと。
古代魔法文明の技術を発掘、模倣し再現した結果広まった技術の一つと聞く。
少女の生まれた国では知られていなかったが、両親から聞いて書籍を読み知ってはいた。曲がりなりにも商人の家系である。魔動車はもちろん、現代の人類の技術については一定以上の知識があった。
「聞いたことないか?」
【名前だけは知っていますが、乗ったことはないです。おじさんはどうですか?】
もしかしたらと少しの期待を込めて聞いてみる。
明日か明後日か、自分が乗る可能性があるにしても経験者の感想を聞いてみたかった。
「いや、俺も乗ったことはない。乗り心地はそれほどよくはないと言うから、あまり期待しないほうがいいぞ」
【そうですか】
しゅんとする。
乗ってみたい気持ちは変わらないが、期待値は下がってしまった。
「実際どの程度かかるかわからないが、多めに三日と見積もっておこう。歩けば一週間近くかかることを考えれば、それでも十分速い。イチノクニに着いてからは東に向かうことになるが……」
【山脈ですね】
「ああ。イチノクニを東西に分かつ形で山がある。話に聞いた程度だが、イチノクニでは山をくり抜くように東西を繋ぐ道が作られているそうだ。そこを抜けて東に進もう」
【もし、道が通れなかったらどうしますか?】
「その時はしょうがない。チョコレイト魔法で山越えしよう」
ぴたりとペンが止まる。チョコレイト魔法で山越え。どういうことだろう。
少女の疑問を読み取ったのか、おじさんが教えてくれる。
「方法はいくつかあるが、今回はチョコレイトの翼を生やそうと思う」
【チョコレイトの翼ですか】
食べ物としか思っていなかったから、そういう使い方は盲点だった。
チョコレイトはチョコレイトでも、やっぱり魔法らしい。
おじさんがチョコレイトの翼を背中から伸ばしている姿を想像してみる。
わたしを抱え、ぽたぽたとチョコレイトを垂らしながら羽ばたいて空を行く。翼を動かすたびにチョコレイトが飛び散って、頬に当たって舐めてみるといつもより甘かったりして。山の上は寒いと言うから、もしかしたら凍ったりもするかもしれない。おじさんはあったかいのに、チョコレイトは冷たくて。ぷるぷる震えちゃうような寒さの中でも、ホットチョコレイトだけはあったかくて美味しくて……チョコレイトの食べ過ぎで口の中ずっと甘くなっちゃうかも。
「――」
「どうかしたのか?」
くすりと笑ってしまって、尋ねてくるおじさんに首を振る。
なんでもない、どうでもいいことなのだ。ささっとペンでも書いておく。
【なんでもないです。少し、山越えも楽しそうだなって思っただけです】
「そう、か」
【はい】
おかしな想像をして笑ってしまった。
おじさんは特に表情も変わっておらず、呆れた様子も気にした様子もなかった。ほっとする。
「山を抜ける段階で魔動車は通れないだろうから、この辺りは徒歩か、他何か移動手段を使って行こう。イチノクニ東に着けばヨンノクニまでは直線で行けるはずだ。この地図だとざっくりとした地形しかわからないから、山の手前でイチノクニの街について詳しく話を聞き込んでおこうと思う」
【わかりました】
明日からの流れを聞き、地図上の指を目で追いながら考える。
おおよそおじさんの話は理解できた。
北上し、山を抜ける。簡単に言えばこれで終わりだ。
言葉で表すのも地図で進めるのも簡単だが、実際に移動するとなるとこれが数日かかる。それも魔動車を利用した最速の動きで、である。
国を跨いでの移動なのだから当然だが、セリーゼにあまり現実感はなかった。
知らない国、知らない土地、知らない街。そして知らない人。
未知への恐怖はない。だが不安はある。おじさんと離れてしまわないか、おじさんに付いていけるか、おじさんに見放されないか。
元いた場所――でも無理だったが、少なくとも半年近くは生活できた。それが見知らぬ土地で放置されたら半年どころか半月も生きられないだろう。なまじチョコレイトの甘さと人の優しさに触れてしまったばかりに、以前より確実に弱くなっていると自覚がある。
どれだけおじさんが"そんなことはしない"と言葉を尽くしてくれていても、不安は次から次へと生まれてくる。一生ホットチョコレイトを飲み続けていれば別かもしれないが。
小さく首を振り、無理矢理に気持ちを切り替える。
現実感のなさはそのままで、質問は?と問いかけてくる男に返事を書く。
【この地図より詳しいものはないの、でしょうか】
「……どうだろうな。あるにはあるだろうが、陸上都市は国同士で積極的な交流をしていないから広範囲の精緻な地図はないかもしれないぞ。見つけたら買おうか」
【はい。ありがとうございます】
「ああ。今は俺たちで書き込んでいこう」
【はい】
ないものはしょうがないので、おじさんの指示に従いながら目の前の地図にペンで書き込み話を進めていく。
現在地を丸で囲み、そこから進路を上へと引く。山を横切り、イチノクニとヨンノクニの国境まで進んだ。
「ヨンノクニとの国境は川の支流になっているが、通るのはそう難しいことでもないだろう。どこに橋があるかは途中で聞いておくか。国境を越えた後はヨンノクニの首都がある川の中心、湖に行くつもりだ」
男の指が滑り、爪先が薄い青の流れに添えられる。
ヨンノクニ中心よりやや西にある川の本流、円状に膨らんだ部分を示す。
「川の本流は太く深いからな。ナナノクニまで行くとなると、湖の上の水上都市を通り抜けるのが手早いと思う」
【ナナノクニまでで、どれくらいかかるでしょうか】
「ふむ……途中途中休みながら行くとして、最短十日あれば着けるかもしれない。何か移動の支障を考慮に入れると、十五日、半月を目途に考えておくと時間に余裕はできるだろう。もちろんそれより早く着くことも十分あり得るがな」
【半月、ですか。わかりました。ありがとうございます】
小さく頭を下げ、半月かと胸の内で呟く。
長いようで短く、短いようで長い。
昨日と今日だけでこんなにも濃く長い時間だったのだ。それが半月ともなるとどれほどのものになるのか。想像だけでチョコレイト漬けの自分が見えてしまう。毎日食事ができて、毎日布団で寝られて、毎日あたたかな手がすぐ傍にあって。そんな生活は夢でしかなかったから、これもまた現実感が一切なかった。
加えて、旅というものへの不安もある。
長旅、遠出なんてものを少女は経験したことがなかった。そんなに長く歩けるのかという疑問もあれば、誰かとずっと一緒にいて何か粗相をしないかという不安もあって、心配の種は尽きない。
「――セリーゼ。何か気になることでもあるのか?」
「ぁ……」
少女の不安な様子を見て取り、おじさんが声をかける。
どうしよう。素直に答えた方がいいのかな。でも正直に言ったところでどうにもならないし……――――この人なら、大丈夫かも。おじさんとこれから半月も、ううん、半月以上毎日一緒にいるんだから、ちゃんと伝えた方がいい。
迷う心を従え、きゅっと手を丸めておじさんを見る。チョコレイト色の瞳が優しく迎え入れてくれた。手早く手帳に書き込んでいく。
【おじさん、わたし、旅をしたことがないです】
「ああ。だろうな」
【いっぱい、足を引っ張るかもしれません】
「最初はそんなものだろう。気にするな」
【一緒にいて、迷惑をかけるかもしれません】
「俺がセリーゼを迷惑に思うことはない」
「……ぅ」
手が止まる。おじさんの瞳が真っ直ぐ過ぎて、言葉に迷いがなさ過ぎて顔が熱くなってしまう。火照りは無視し、手帳に集中する。
【いっぱい、、不安ばかりです】
「あぁ。知ってるよ」
【そう、ですか。毎日じゃないですけど、泣いたりもするかもしれないです】
「構わんよ。存分に泣けばいい。いつでもチョコレイトなら渡してやる」
【あんまり、離れないでくれたら嬉しいです】
「安心しろ。子供を放って離れはしない」
【寝るときは、手を繋いでほしいです】
「任せろ。いつでも繋いでやる」
【こうやって、またお話してもらってもいいですか?】
「ああ。いつでもいいぞ。話したい時に、聞きたい時に俺に声をかけてくれていい。今の俺に、セリーゼ以上に優先するものはないんだから」
【はい。あの、おじさん】
「なんだ?」
【ありがとうございます】
少女のお礼に対する返事は短い首肯だった。頭を撫でる手が安心感を与えてくれる。
降り積もる不安は解けて消え、ふわふわとした心地良さだけが胸に残る。
セリーゼは微笑みを浮かべ、胸の奥でおじさんへの感謝を繰り返し呟いた。
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