買い物とマグカップ。
☆
人々の喧騒に満ちた街を歩く。
舗装され隙間一つない滑らかな石畳の道に、木造と石造の家々。多くは二階建てであり、少し大きめの建物は三階、四階建てのものもある。どこの家にも透明なガラス窓がはめられ、朝日を浴びて光を散らしていた。
ここは人類領域中原国家東方、陸上都市国家群の一国、西方の大国"連合国"と接するニノクニ。
ニノクニの中でもさらに国境に近く、少し歩けば連合国という場所に居を構えた街。何の飾り気もないが、ただ"国境の街"と称される街に、一人の少女がいた。
隣――の一歩前を進む男と共にいる少女、名前をセリーゼと言う。
太陽光を浴び鈍く輝くアッシュグレーの髪を揺らし、セリーゼは周囲をきょろきょろと見渡す。
人混みはそれなり。すれ違うたびに人とぶつかるようなことはないが、手を広げれば簡単に誰かとぶつかってしまうくらいには人の往来があった。
男、自称おじさんとはぐれないよう服の裾を掴み、ゆっくりと歩いていく。
辺りにあるのは多くが服飾、雑貨屋であり、外から眺めただけでもそれぞれの店で扱われているものが違うとわかる。
衣服、鞄、上着、靴下、魔石、魔法道具、携行食、防寒具、旅装具。
少女が生まれ育った国とはずいぶんと品揃えが違う。量はともかく、質だけは間違いなくこちらの方が上だった。量にしたって少ないわけではなく……あの国が粗悪品をいっぱい表に出してただけかも。
暗い気持ちは放り投げ、見覚えのないものに興味惹かれる目を動かし続ける。
美味しいご飯を食べたからか、たっぷり睡眠を取ったからか、それとも信頼できる
単純な息苦しさや全身の痛み、倦怠感、空腹眠気、さらには常に周囲を警戒し続けなければならないストレス。
それらすべてがなくなって、しかもこんな風に表通りを大手を振って――まではいかないけれど、怯えず気にせず人通りの多い道を歩けるだけで心持ちが全然違う。
それが油断を生んだのか。そもそも少女の運が悪いのか。
「――っ」
ぱ、っと少女の横を走り抜けていく影。人の波を縫うように、小柄な身体を器用に使って駆けていく。驚き見ている間に、すぐその背は見えなくなってしまった。
「掏りか」
立ち止まり、前から聞こえてきた声にぎょっとする。
人混みの邪魔にならないよう横に避けるのはさすがか。何の違和感もなく少女は男の後ろを付いていっていた。
ポケットの手帳とペンを取り出し、さらさらと書いていく。
【おじさん。掏りはよくないのではないでしょうか】
真っ当な意見を述べる少女に、男は短く首を動かして遠くを見つめる。すぐさま視線を戻し、少女と目を合わせた。チョコレイト色の瞳が微塵も焦りを宿していなくて、別にいいのかなとこちらまで気が抜けてきてしまう。
「セリーゼ、盗られたものはないか?」
ぱたぱたと服のポケット、マジックバッグと確認する。誰にも触られていないはずだが一応と見ておいた。大丈夫そうだ。
【わたしは大丈夫です。おじさんは】
聞くと、コートの前を開いて腰をトントンと叩いた。
ズボンの引き締めについて少女は簡単なゴム紐で締めて済ませたが、おじさんは紐の上からベルトを巻いていた。ベルトには引っ掛けるようにいくつかのポーチが吊り下げられ、コートにも追加で縫われたポケットが作られていた。何が入っているのかは知らない。
わたしもいつか物を預けられるようになりたい……よく考えたらマジックバッグ預けられていたからいつかも何もなかった。
頭の一部で別のことを考えつつも、ベルトのポーチが一つなくなっていることに気づく。あからさまに一か所空きができていた。
【一つ盗られていませんか?】
「ああ。いいんだ」
【いいんですか?】
「ああ。中身はチョコレイトだからな」
【チョコレイトを、ポーチに?】
疑問を浮かべながら尋ねると、おじさんはゆっくり頷いて教えてくれる。
「ダミーだよ。大事なものはマジックバッグの中、普段使いするものはコートの内側に入っている。ちゃんとボタンで閉じられているから俺が気づかないことはない」
【そうでしたか。チョコレイト、盗られちゃいましたね】
「なんだ。セリーゼもチョコが食べたいのか?」
【今はお腹いっぱいなので、いらないです。ありがとうございます】
「そうか」
【はい】
そうして、何事もなかったかのように歩き出す。
おじさんが言うには"これ以上誰かを助けるつもりはないが、せめて食うに困っている子供が空腹を紛らわせることくらいはしてやろう"とのことだった。
チョコレイトは栄養価も高いらしい。まだまだ瘦せっぽっちな少女はたくさん食べて背を大きくしたいところだった。要するにチョコレイトをたくさん食べたい。
掏りを見逃し、意外に治安悪いのかななんて思ったりして。怖々路地裏を覗いても露店があったり住宅街っぽくなっていたりするだけで、全然治安悪く見えず。
街の治安が良いのか悪いのかわからなくなってきたところで、おじさんが立ち止まる。周囲を見過ぎていたせいで危うくぶつかりそうになり――というかぶつかってしまった。
「っ」
慌てて半歩下がり、振り向いたおじさんにぺこぺこ頭を下げる。
「気にするな。それよりセリーゼは大丈夫か?」
【はい。大丈夫、です】
「そうか。ならいい」
振り向き、心配の声をかけてくれるおじさんに小さく頭を下げる。今度は謝罪ではなく感謝の代わりだ。
ぶつかった時にコートからチョコレイトの甘い匂いがしたのは気のせいだろうか。時間のあるときにでも聞いてみようと思う。
入るぞ、の声と視線に頷き、すぐ傍のお店に身体を向ける。
そこで初めて見たが、目的地は見上げるほどに大きな建物だった。ちらほらと見かけた四階建ての建物の一つ。上だけでなく横にも長い大きな建物。こんなお店にわたしが入っていいのかなと思うも、服をつまんでいる先のおじさんは既に歩き始めてしまっていたので躊躇う暇もなかった。
先ほどよりもおじさんに近づき、コートの陰に隠れるように進む。
店内は外観通りに広く、通路も幅があり見通し良く雑多な雰囲気はない。
ここで取り扱われているものはすべて旅装品、つまるところの旅道具だった。
壁際左右に階段があり、階段下の壁にはそれぞれの階に何が置かれているのか簡単な説明書きがある。今でさえ引っ込み思案で人間不信な少女となってしまっているが、数年前のセリーゼは勉学に励み接客も熟す商家の立派な一人娘だったのだ。
散々手帳に書きこんできたが、当然読み書きも学んでおり、専門用語を除けば普通に漢字も読める。
この国、というより人類領域全般が同じ言語、文字を扱っているのは彼女にとっても幸いだっただろう。さすがに別の言語を学んでいる時間はなかった。
【おじさん。何を買うのでしょうか】
歩き回り、広い店内にも慣れてきたので手帳を見せて聞いてみる。
相変わらず服は掴んだままだが。
「俺も昨日話を聞いただけだからな。あまり詳しくは知らないんだ。ただ旅支度に最適な店とだけ聞いた。……まあ、品揃えを見ている限りその点に間違いはなさそうだ。買う予定のものは色々あるぞ」
つらつらと男の口から必要なものが列挙されていく。
保存食、寝袋、魔石、水筒、雨避け、医療道具。他色々。
どれもこれも長旅に必要だと思われるもので、そもそもおじさんなら持ってるものなんじゃ――そこまで考えて、わたしのためかと申し訳なさが生まれる。あと感謝。
それはそうだった。人が増えたら物が必要になるのは当たり前の話だった。食事も寝床も。ナナノクニまでは遠い。
うろ覚えの知識を辿ると、ニノクニから直線でナナノクニまでは行けなかった……はず。大きな山が道を遮り、山の先は太い川が流れていたはずだからだ。
そうすると、一度イチノクニまで北上し、山脈が途切れたところを東に進んでいくしかない。北に行けば川も細くなり、ヨンノクニの中心なら橋も大きくあるはず。というか、ヨンノクニは国の中心都市が湖の上にあったはずだから街道の整備も丁寧にされている……はず。たぶん。そんなような地理の話を聞いた気がする。全然正確性ないけど、記憶が曖昧だから仕方ない。
細かい部分はわからないので、そこはおじさんに任せるしかない。どうせ少女は付いていくだけなのだし気楽なものだ。ただやはり……自分のためだけに色々と物を買い揃えるのは申し訳ないと思う。
「何か欲しいものがあったら言ってくれ。女の子に必要なものはわからないから」
【はい。ありがとうございます】
言ってくれと言われても……。これ以上何かをお願いするのは正直気が重かった。
そもそも欲しいものなんてないし、自分に何が必要なのかすらわからない。一人で生きていた頃は食べ物と服と寝床と、あと物をたくさん入れられる鞄さえあればよかった。今はおじさんからもらった服とマジックバッグがあり、食べ物も寝床もおじさんが用意してくれる。
女の子として必要なものって何?と逆に聞きたいところだった。もちろん口には出せないので何も言わないが。
一階は旅装具でも大物が多かったので、先に上の階から見ていくことにする。
階段を上り、一番上の四階へ。
少女の持つマジックバッグと違い、男の持つそれはある程度大きなものでも入れられる特殊な仕様をしていた。寝袋はもちろん、簡易的な雨避けのテントですら入れられる。
金ならあると豪語した通り、高品質な分値段も相応な商品をフロアごとに購入していく。
少女には到底手の届かない商品も、ぽんと金色の共通通貨を払って買っていた。
支払いを斜め後ろから見ていた少女にとって、それは少々現実離れした光景だった。
共通通貨そのものは知っている。錆色、銅色、銀色、金色、虹色。硬貨の材質と掛けられた魔法によって色が変化する人類領域共通の通貨だ。
日常生活では
あの時は非現実的で理解できていなかったが、こうして実際の買い物を見てしまうとお金のすごさを直接ぶつけられているような気持ちになる。
少女は、ほんの少し前まで錆貨一枚を文字通り必死になって手に入れようとしていたのだ。それが今や金貨を惜しげもなく使う人のすぐ傍にいる。
これが普通だと思っちゃいけないと思った。おじさんのお金に口出しするつもりはないけれど、少なくとも自分は質素倹約で生きていこうと思う。
自分でお金を稼げるようになるまでは、そうあろう、そうありたい。
お金なんて使わなくたって、たくさんお金がなくたって充分に……充分以上に、少女は自分が幸せになれることをもう知っているから。
「……」
くいくいと、服の裾を引っ張る。
「なんだ?」
一通りの買い物を終え、ひとしきり考えも終え。
お店を出て先を進もうとしていたおじさんが振り返る。
【わたし。お金がなくても幸せです】
先んじて記入していた文章を見せ、ひどく言葉足らずだったことに気づく。
慌てて何か書き足そうとして――ふわり、と頭に乗せられた温かな手に焦りが薄れ消えていく。
「ああ、そうだな。お金は大事だから、こんな派手に使うのは旅に出るまでだ」
伝えたかったことがしっかりと理解されていて少し驚いた。同時に嬉しくもなる。
さらりと髪を撫でる手のひらの感触があたたかく、相変わらず不思議と高い体温に安心する。おじさんはすごくあったかい。チョコレイト魔法のおかげなのかな、なんて思ったり。
「――だからまあ、セリーゼ」
【はい】
「今日くらい、好きなもの頼んでいいぞ。食べ物でも、服でも、魔法道具でも」
「……」
口元をぎこちなく歪めた、ひどく険しい顔にも見えるおじさんの微笑みを見て。
セリーゼはペンを動かす。欲しいものなんて何もないと思っていたけれど、旅には邪魔になるものかもしれないと思ったけれど。
マジックバッグがあって、お金もそんなにかからないものなら。
それはきっと、これからこの人と長く生きていきたいと思っている少女にとって、小さな絆のように二人を結び付けてくれているものだから。
【それなら、お揃いの、お揃いのマグカップが欲しいです】
一緒にホットチョコレイトを飲んだ時、おじさんの分のマグカップはなかった。外で使う用の金属のコップを使っていて、あまり部屋で飲むのに適していなさそうだった。
そんな贅沢は、と思わないこともない。でも、これから毎日……かはわからないけれど、一緒にホットチョコレイトをたくさん飲みたいと思っているから。だから、家族――だなんておこがましいけど、せめて一緒に旅をする仲間、親しい人として、同じものを同じようなマグカップで飲みたいと思う。
「マグカップか」
【はい】
「いいな。マグカップ」
【はい!】
「お揃いのマグカップ、セリーゼが選んでくれるか?」
【はい。頑張ります】
「じゃあ買いに行くか」
【はい!】
明確にわかるくらい口端を持ち上げて、はははと笑うおじさんに釣られ少女も笑みを見せる。
旅装具店に来た時と変わらず、セリーゼは男の服の裾をつまんで歩く。日は少し高くなり、もうすぐ中天を過ぎる。人々の雑踏も変わることはなく、少女の覚える安心と不安が同居した複雑な内心も変わらない。
ただ今は、朝歩いていた時よりも少女の足取りは軽く、心も明るく鮮やかな色を見せていた。日の光を反射するガラス窓が、セリーゼの気持ちを表したかのように眩しくきらめいていた。
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