不幸な二人とホットチョコレイト。

「――俺がセリーゼを助けた理由は、何か……そう何か、この世に俺がいたという証を残したかったからなんだ」


 食事を終え、片付けを終え。歯磨きや簡単な身支度も終え。向かい合って、窓の近くの椅子に座ったところで男は話し始めた。


「俺は不幸だった。セリーゼの境遇を知らないから君と比較はできないが、少なくとも俺は十歳から三十五歳になるまでの二十五年間、ずっと不幸だったんだ」


 あまり感情の込められていない語り口ではあるが、この時点で少女は結構な衝撃を受けていた。

 おじさん……三十五歳だったんだ。横顔を見ても三十代半ばになんて到底見えない。二十代前半か後半か。中には二十歳前後と言う人もいるかもしれない。それくらいに、おじさんは若く見えた。


「詳しい不幸話なんてしても楽しくないだろうから、ここは簡単に流すぞ。両親は殺され、俺は二十五年間幽閉されていた。足は奪われ自力で歩くことさえできなかった。拷問も受けたが、一番堪えたのは身体を焼き焦がされたことだな」

「――――」


 淡々と語るにしては、ずいぶんと凄惨な出来事だった。

 少女は未だ齢十五。生まれ育って十五年しか経っていない。人生を転がり落ち始めたのだって二年と少し前に過ぎない。


 それがこの人は、二十五年と言った。

 どれだけの時間なのだろうか。想像もつかない。ただなんとなく……その時間こそが、今のおじさんを作り上げたのだろうと予想はできた。


「原因はセリーゼもわかっているかもしれないが、チョコレイト魔法にある。こんな特殊な魔法、他に見たことないだろう?」

「……」


 気を落としながら首を縦に振る。どうしたって気分は沈んでしまう。

 少女は自分を不幸だと思っていた。もちろん自分以上に不幸な人はたくさんいるとわかっていたし、死んでいないだけ、奴隷にされていないだけマシと頭で理解してはいた。でも、こうして目の前にいる人が自分より圧倒的に不幸な人生を送ってきたと聞いてしまうと、まるで自分が不幸に酔っているかのような気がしてきて……。


 わたしよりおじさんの方がずっと不幸なのに、どうしてわたしはこんな自分勝手なんだろうと自己嫌悪に陥ってしまう。


「――セリーゼ」

「……っ」

「俺の不幸話は気にするな。もう終わったことだ。他人の不幸と自分の不幸、比べることなんてできないんだよ。君が不幸で憐れな少女だったことは事実で、俺も不幸で憐れな少年だったことは事実。それでいいんだ」


 頭を優しく撫でられて、声に込められた優しさを感じ取ってしまってもやもやする。

 こんな優しくされていいのかな。嬉しいけど、あたたかくて心地いいけど……でもわたしに、こんな幸せなことしてもらえる権利はないんじゃないかって。


「セリーゼ。君は子供で俺は大人だ。俺の過去がどんなものであったとしても、それは過去でしかない。もう終わったことなんだよ。今を、未来を見よう。俺がどうして君を助けたのか知りたいんだろう?」


 諭すような言い方に、躊躇いつつも頷く。

 頭を撫でてくれていた手がくしゃくしゃと髪をかきまぜる。きゅっと目をつむり、乱れた髪の隙間からおじさんを見る。表情は動いていないけれど、目は悪戯っぽく笑っていた。少女も口元が緩む。


「よし、じゃあ続きを話すぞ?俺の過去を気に病むなら……そうだな。俺の話を聞き終えた後に存分に悩めばいいさ」

【はい】


 手帳にかきかきとし返事をした。

 今は考えるのをやめる。結局後回しに過ぎないけれど、おじさんの言うように全部聞いて、それからゆっくり考えようと思った。


「チョコレイト魔法のせいで不幸な目に遭ったが、状況を変えたのもチョコレイト魔法だった。色々あって国が滅んで、俺は一人で旅をすることになった。――あぁ、この時既に身体は進化済みだったぞ。進化のおかげで足も生えたし人の助けを受けずに歩くこともできるようになっていた。これが今より半年ほど前のことになる」


 話の展開が急で追いつけない。

 耳と脳を頑張って動かしながら、国が滅んだという超展開を飲み込む。同時に、もうちょっと撫でてくれてもよかったのにと、会話と一切関係ないことも思う。


「旅をしている間、ずっと考えていたんだ。俺の人生に意味はあったのか。俺が生まれた意味、俺が生きた意味。両親の死に目にも会えず、返せたものなんて一つもない。三十五年も生きて残したものは何もなく、生まれた国も滅んで今はもう海の底だ。子供も作れない身体で、万が一作れたとしても俺のような壊れた人間がまともに子育てなんてできるわけがない。……あぁ、そうか。言い忘れていたか。拷問の影響でな、俺の身体にもう性器はない。……そうだったな。そういう意味では安心してくれていい。俺が君を性的に襲うことは絶対にない」


 少女は呆然としていた。

 家族がいないのは同じで、親の死に目に会えなかったのも同じ。生まれた国は滅んでいないけれど、嫌いだからなくなっても良いと思っている。子供を作るとか作らないとか、そんなことは考えたこともなかった。


 男の言葉は単調で軽いはずなのに、耳を通る声はとてつもない重みを含んでいるようだった。

 きっとそれは、少女の知らない過ごしてきた年月というもの。積み重ねた時間が、生きてきた日々が目に見えない重みとなって男の声に乗っかっている。


「何も残せない俺でも、何かを残したいと思った。だってそうでもないと……悲しいじゃないか。表情は動きにくくなって、上手く笑えなくなって、話すことさえ下手くそになった。こんな有様になって、誰にも知られず誰にも認められず、俺の人生は苦しく辛いだけの不幸なものでした。それで終わり。そんなものは……そんなものは悲しいだろう。嫌だろう。俺は嫌だった。だから、だからこそ、何かを残したいと思ったんだ」

「……っ」


 何かを伝えようとして、結局何もできず握った拳を解く。

 おじさんに、わかる、とも言えない。

 全部嫌になって逃げ出したくなったことはある。諦めたことだってある。でも少女は、セリーゼはまだ諦め切った・・・・・ことはなかった。おじさんは、もう諦め終わった後の人間だ。非情な現実を受け入れて、諦めて、その上で自分の終わり方を決めようとしている。


 セリーゼじゃ辿り着けない――いや、辿り着かない方が良い場所で、おじさんはより良い人生の終わり方を模索していた。


「世界に名を残すなんて大仰なものじゃなくていい。不特定多数に認められたいわけでもない。一人でいい。一人だけでいいから、俺を知って俺を覚えて、俺の死に涙してくれるような、そんな人がいてくれたらいいと思った。未来永劫なんて望まない。ただ時折、数年か数十年後か。俺という人間が生きていたということを思い出してくれれば、それでいい。……そうあってくれたらと願ったんだ」


 おじさんの願いは、ひどく儚かった。

 苦労と一言で言うには痛まし過ぎる生を送ってきたというのに、最後の願いはとてもささやかなものだった。


 人は報われるべきだ、なんて考えは当の昔に捨て去って、持ち合わせているのは捨て切れなかったちっぽけな願いだけ。

 その願いのためにきっとわたしは……。


「――そうして、俺は君を見つけた」


 やっぱりそうなんだ、胸の内で呟く。


「死にかけで、見るからに不幸な境遇。俺が助けなければ確実に消えてしまうだろう命。それも子供。一人では生きていけない存在だ」


 話を聞きながらも、少女が目の前の男に忌避感を抱くことはなかった。

 それがどんな理由によるものか。共感か、同情か、憐憫か。そのどれでもなく、またそのどれでもあった。


「この子供を助け、面倒を見て大人になるまで育てれば、少なくとも俺に憎しみを持つことはなく感謝することは間違いないだろうと思った。前提として俺が命の恩人になるわけだからな。それに、子供が大人になって幸せで幸福に満ち溢れた生を送れば、より俺のことを忘れないだろうとも思ったよ。……だからセリーゼ、俺が君を助けたのは綺麗な善意からなんかじゃない。打算塗れの、醜く憐れな大人の歪んだ願いが根本にあるんだ」


 自らを卑下するおじさんを真正面から見つめて、セリーゼは自分の心に一人納得していた。


 例え願いの押し付けが彼女を救った理由だったとしても。

 自らの死を看取ってもらうためだけに助けた命だとしても。

 セリーゼのことなんて何一つ気にせず、ただ自分のためだけに行動した結果だったのだとしても。


 それでも、彼女を救ったことは事実で、彼女が救われたことは真実だった。

 打算塗れでも、セリーゼに対する行動は本物で、一所懸命に幸福を与えようとする態度も本物で。昨日から今日までの短い間に少女がおじさんからもらった多くは紛れもない本物でしかなかったから。


 だからきっと、わたしはこの人を嫌だと思うことがないんだ。

 絆されやすい自分に苦笑し、それでもいいかなと思う。助けられた理由を知ったからこそ、おじさんから与えられた"今"がより嬉しく大切に思えた。


「……本当は、こんな形で話をするつもりはなかったんだ。君が成長し、俺を強く信頼してから話すつもりだった」


 返事に惑う。

 何を書こうかと、ペンを持って手を止める。何を書けばいいのか。おじさんに何を言えばいいのか。自分の気持ちを正直に書きたい思いもある。こうして今、話してくれている事実が何より大事だと言いたい気持ちもある。

 でもまだおじさんの話は終わっていないし、どうせなら全部聞いた方がいいような気もする。それなら。


【それなら、どうして今わたしに話してくれたんですか】

「理由はいくつかあるが……。そうだな。思ったより君が賢かったことと、思ったより君が弱っていたことと、思ったより俺が弱かったことだろうな」


 どれから聞きたい?視線で問われ、どうせ全部話してくれるなら順番に教えてくださいと伝える。


「――俺は最初、君のことを幼子だと思った」

【幼子、ですか】


 言葉の意味は知っている。幼子。幼い子供。

 少女は既に十五歳。小柄であることを加味しても、幼子と言うには少々年を食い過ぎている。世間ではあと一年で立派な大人だ。


「ああ。薄汚れ、痩せ細った子供。俺の見立てでは十歳程度の子供でしかなかった。男女の区別もつかず、髪が短かったから男だと思っていたが……」


 言葉を止め、少女の伸びた髪を見つめて続ける。


「進化後の君を見て正直驚いたよ。髪は伸び、栄養状態が戻ったからか肉体も女の子らしいものになっていた。よくぞあれほどまでに痩せながら生きていたものだ……」


 ちょっと気まずい。

 痩せていたと言われても、彼女にはもうその頃を思い出せなかった。日々生きるのに必死で、毎日お腹が減って飲み水にも困って。自分を省みる余裕もなければ鏡なんて上等なものに触れる機会もない。今思えば、水溜まりでも鏡代わりくらいにはなったかもしれない。ただ雨の日は飲み水を貯めるのに時間を使っていたり、身体を洗い流したりするために人目を盗んで動いたりと、それはそれで大変だったのだ。


 そのようなわけで、少女が覚えている自分は今とそう変わっていない、十三歳だった頃の自分のまま。肌質や髪艶は今の方が良くなっているような気もするが、たぶんそれは進化のおかげ。チョコレイトってすごい。


「セリーゼ。今の君を見て、話をしてみて予想より年を重ねていることに気づいた。俺の言葉や現状への理解、連合国の技術への造詣の深さを思えば見た目通りの年とは到底思えない。背はこれから伸びるとして、君はいったい今いくつなんだ?」

【十五歳です。もう十五歳になりました】

「そう、か。十五か。ならそれだけ賢いのも当たり前か……」


 呟き、しばし瞑目する。

 考え込んでいるおじさんを他所に、少女は"わたしってそんなに幼く見えるのかな……"と微妙にショックを受けていた。もっと身長が欲しいと願うセリーゼである。


「実年齢はとにかく……俺にはセリーゼがただの幼子に見えていた。それがどうだ。実際は真っ当な知識を身につけた聡明な子供だった。状況を理解していなければ必死に救い主である俺に縋るだろう。君は違ったな。周囲を見て、俺を見て、自分を見て。考えて迷って、その上で答えを出そうとしていた。人間不信もあったんだろうが、それでも子供にしては出来過ぎだ。適当に連れて帰ってぬくぬく過ごしてもらうには少し――いやかなり賢過ぎたよ」

【そう、でしたか】


 疲れたような口調の男に、あまり気の利いた文字は返せなかった。――こういうところかもしれないと、今考えたことを頭の中で反芻する。

 少女にとっては当たり前のことだったが、同年代の少年少女にとっては当たり前じゃないのかもしれない。今のような状況に陥っても行動より先に思考し、じっと考えてから結論を出すこと。できるだけ相手の反応を見てより良い言葉を模索すること。


 とりわけ、今のセリーゼと同じ状況で文字列での対話を熟すのは同年代の子供じゃ難しいかもしれない。


 商家生まれだからだろうか。両親からの教えが少女の内に強く根付いており、それを感じ取れてなんとも言えないあたたかさが胸の内に広がる。


 とりあえずこれに関しては言えることもないので、次の理由に進んでもらう。


【おじさん。わたしが弱っていたというのは】

「ああそれか……」


 頷き、何かを思い出すかのように窓の外を見て続ける。


「普通……君ほどに賢い子供なら、もっと上手く立ち回るはずだ」

「……?」


 言っていることがよくわからなくて、頭の上に疑問符を浮かべる。


「俺に取り入ろうとするか、俺に従い逃げ出す機会を窺うか。従順なフリをするのか、本当に従順に過ごすのか。どちらにしろ、急に泣き出すような、幼い子供のような真似をするわけがないんだ」

「……」

「君はよく泣いたな。それだけ過去の経験が影響を与えているということでもあるんだが……セリーゼ。君は俺が思っていたより賢く、それ以上にボロボロだった」

【どういう、ことでしょうか】


 言っていることがよくわからなくて、そんな言葉を書く。

 だろうな、そう呟くおじさんの瞳はなんだか悲しげに見えた。


 ボロボロ、ボロボロ。そうなのだろうか。そうなのかもしれない。自分が今どんな状態なのか、身体は健康になっているからおじさんが言っているのは全部心、精神の話なのだろうとはわかる。


 少女としても昔と比べて色々変わったという自覚はある。でも、あまりボロボロと言うほどでもないんじゃないかなという思いもあった。


 変わりはした。疲れてもいる。寂しさとか悲しさとか、そういうのは日々生きる中でいつの間にか埋もれてなくなっていた。

 辛いのと痛いのと苦しいのと、本当に耐えられないことはおじさんに助けられる前のことくらいだったから。もし自分がボロボロなんだとして、それがいったいいつ頃からなのか。そんなものはもう……もう、わかるわけがなかった。


「人の心は環境に適応するようにできていると言う。君はボロボロの状態が普通になってしまい、その普通を当たり前だと思うようになってしまっているんだ。だからちょっとした本来の……人間として当たり前であるべきモノに触れて泣いてしまったんだろう」

【そう、なのでしょうか】

「きっとな。俺もわかっているべきだったよ。それこそ当たり前の話だった。現状に甘んじるしかない子供が長い時間その環境に身を置けば、子供は過去の"普通"を忘れて目の前の"普通"を普通と思い込んでしまう。……そうでも思わないと、生きていくのが辛すぎる」


 語りかけるような男の口調は、どこか自分自身に言い聞かせているようにも聞こえる。

 つい、聞いてしまう。


【おじさんも、そうだったんですか?】


 尋ねて後悔。

 好奇心のまま聞いてしまったが、こういうデリケートな話は慎重に触れるべきだった。怒られるかも――という気持ちはもうない。この人がどんな人なのかはもうわかっている。今こうして、この場で少女に話をしてくれていることがすべてだった。


「俺は……そうだな。俺もそうだった・・・よ。いつの間にか現状に流されて、このままでいいか、なんて思うようになっていた。今となってはそれも昔の話だが。俺はセリーゼと違ってずいぶんと……ずいぶんと年を重ねてしまったから」

【すみません。失礼なことを聞きました】

「いやいい。もう済んだことだ。昔の……本当に昔の話さ。それよりセリーゼ」

【はい】

「君の心が悲鳴をあげていることについては、今は納得しなくていい。今後俺と過ごす時間が、平穏で満ち足りた生活が君にとっての日常になり、いつの日かそれを"普通"と思えるようになったら、おじさんがあんなことを言っていたなと思い返してわかってもらえればいいからだ」

「……」

「……一つ、聞き忘れていた」


 少しだけ背筋が伸びる。元より伸びていた背が椅子の背にぴたりと合わせられた。

 何を言われるのか。ペンを内側に、きゅっと手の指を丸め、鼓動を速める心臓を抑えながらおじさんの目を見て――すぅっと糸が解けていく。優しい眼差しをしていた。緊張なんてしなくていいと、視線で伝えてくるような瞳をしていた。ホットチョコレイトのような、あたたかい色。


「セリーゼは、今後も俺と過ごすつもりはあるか?」

「……ぇ」

「最初は俺を命の恩人として長旅に付いてきてもらうつもりだった。……今は、こんな話をしているくらいだ。嫌なら嫌と言っていいんだ。どうにかして君の居場所を見つけてやろう。何、金ならある。少々の無茶なら――」

「――」


 首を振る。いやいやと、言葉にできない気持ちを伝えるようにと首を振った。

 おじさんは驚いたように瞳を揺らしていて、少女は急ぎ文章を作る。


【いいです。わたし、おじさんと一緒がいいです】


 急いで書いたせいか文字は歪み、インクが滲んでいる部分もある。でもこれでいいと思った。今はちゃんと伝えることが大事だから。

 手帳を持ち上げ、おじさんに読んでもらう。


 短く息を吐き、震える手を強引に抑え付ける。

 おじさんの言葉を遮ってしまったけれど、今のは譲れなかった。セリーゼにとって、ようやくやっと……やっと信じられる、信じようと思える人に出会えたのだ。その人が少女を想って言おうとしていることであったとしても、そんなのは嫌だった。もう……セリーゼは一人ぼっちになんて戻りたくなかった。


「……」


 じっと見ていると、何度も文章を読んでいたおじさんの目が少女に向く。

 妙に緊張してしまい、そういえばと慌てて書いた文章に文字を付け足す。


【おじさんが許してくれるなら、ですけど】


 最後だけ自信なく、薄い文字になってしまったのは仕方ない。だってずっと、なんてそんなことわからないもん。おじさんが良いって言ってくれてるにしても、お金はかかるしもしかしたらおじさんの気分が変わるかもしれないし。……だから、しょうがない。


 内心で悶々しながら、そっと目前のおじさんを窺い見る。

 どんな顔をしているのかなと思ったら、身体を椅子に預けて目を閉じていた。安堵したような、疲れたような。そんな格好をしている。

 呼び掛けることはできないので、じっと目で大丈夫ですか?と訴えかける。


「……あぁ、悪い。少し、安心してな」


 視線に気づいて、ゆっくりと姿勢を正しこちらを見てくる。相変わらず表情の変化は乏しいが、なんとなく纏う雰囲気が柔らかくなったように感じる。


【安心ですか?】

「ああ。俺なんかと一緒にいるのは嫌なんじゃないかと思ってたんだ。だから……セリーゼが俺と一緒に来てくれると聞いて安心した」

【そう、でしたか】


 なんだか、こちらも安心したような気分だった。

 少女が不安でいっぱいだったのと同じように、おじさんもまた不安でいっぱいだったのだ。自分よりずっと大人で、自分よりずっと大きな人だと思っていた分、同じように悩んで、同じように迷っていることを知れて嬉しかった。


 等身大にこの人も生きているんだなと思えて、おじさんが少し身近な存在に思えてまた一つ気が楽になる。


「ありがとうセリーゼ。俺からの質問はもうない。三つ目の話をしようか」

【はい】

「最後は……俺が弱かったことか」

【はい】


 話の全部に納得できたわけではないが、きちんと理解はできている。これもきっとおじさんの言う"賢い"に当たるのだろう。考えながら、男の話を待つ。


「そう難しい話じゃないんだ。ただ……俺という人間は俺自身が思っていたより人に厳しくなれなかったというだけの話さ」


 セリーゼを見て、ぼんやりと目を逸らしてどこか遠くを眺めながら言う。


「セリーゼの境遇は知らない。知らないが、それでも察するものはある。君の態度を見て、涙を見て、笑顔を見て……。君が自分を十五歳だと言おうが、俺からしたらまだ子供でしかない。見た目は幼いしな。そんな子供に、可哀相な子供に同情しないわけがないんだよ」

【わたし、そんなに幼いですか】

「……気にするな。これから大きくなる」


 誤魔化された気もするが、頭を撫でてくれたのでよしとする。

 空気が弛緩してしまったけれど、これでいいと思う。これくらいのふんわりとした雰囲気の方が少女は好きだった。


「俺はな。自分がもっと冷たい人間だと思っていたんだ。不幸な人生だと思って生きてきたし、国が滅んでも何も思わなかった。だから子供一人に同情なんかしないだろうと思っていたんだが……セリーゼにはずいぶんと同情してしまった」

【どうしてですか?】

「どうしてだろうな。……食事をして泣いている君を見た時だろうか。ただただ、泣いてほしくないと思ったんだ。泣き止んでほしい、俺の未来以上に、君の方が大事だと思えた。考えてみればそうなんだ。俺が生きてきた人生のように、君にもこれからの人生がある。その生を、俺が救い上げたものとはいえ、身勝手に使い潰していいものかと思った。思ってしまった。そこまで思ってしまったら……もうだめだった。俺には誰かを縛り付ける才能はないらしい。たった一人、見知らぬ子供一人にこれだけ共感し同情し、心の底から助けてあげたくなってしまったのだから」


 聞いて、じっと静かに聞いて。

 少しずつ少しずつと、おじさんへの理解が広がっていく。じんわりと温かいものに包まれていくような。そんな感覚。


 この人は、おじさんは。

 わたしの思っていた以上にすごく――――すごく、優しい人だった。


「子供に厳しくなれない。そんな俺の弱さが、こうして君と話している今に繋がっている。もっと俺が強ければ、大人として君を導くこともできたのかもしれないな。……弱い大人ですまない」


 謝るおじさんに首を振り、どう言葉を伝えようかと考える。

 ペンを持ち、白い紙にペン先を当てる。ほんの少し頭を振り、難しいことを考えるのはやめた。自分の気持ちを正直に書けばいいと、ペンを滑らせる。


【いいと、思います。おじさんは弱くていいと。わたしは思います】

「……そうか」

【わたしはわたしを助けてくれた人が弱いおじさんでよかったです。弱くて優しい、わたしと同じ不幸な人で】

「そう、か」

【おじさん。ありがとうございました】


 文章をしっかり読み終えたのを見て、そっと頭を下げる。


「……そうだ、な。セリーゼ、顔を上げてくれ」


 言われた通り顔を上げる。ちゃんと言いたいことは伝わったのかなと思いながらおじさんを見る。


「セリーゼ。俺の方こそありがとう。これからよろしく頼む」

【はい。よろしくお願いします】


 文字を書き終え、ふわりと微笑む少女と、読み終えて口端だけをほんの少し持ち上げて笑うおじさんと。

 出会って一晩の二人は、ぎこちないながらもようやく一歩ずつの歩み寄りを果たした。


 まだまだ不安なことだらけではあるけれど、もう一度人を、おじさんを信じて頑張って生きてみようと思う。

 擦れて削れた心に灯るあたたかな光を抱きしめながら、少女は始まりにと小さな我儘を形にする。


【おじさん。二人で、ホットチョコレイトを飲みませんか?】

「ホットチョコレイトを?構わないが……歯磨きしたばかりだぞ?」

【また磨きます。おじさんと一緒に飲みたいのです】

「そうか」

【はい】

「飲むか。ホットチョコレイト」

【はい!】


 ほんのついさっきしたばかりのようなやり取りを繰り返し、思い返してくすりと笑ってしまう。

 すぐに漂ってくる甘いチョコレイトの香りに頬を緩め、セリーゼは窓の外を見た。


 今日の天気は晴れ。雲一つない青空が見える。

 少女の心を覆っていた雲も今やどこかへ流れ去り、青空一色に――ならず、チョコレイト色に染まった雲がふわふわと浮かび流れていた。


 これからの日々が甘くてあたたかなチョコレイト色になる予感がして。


「甘いな」

【甘い、です】


 セリーゼは手帳を机に置き、ひとまず今はと、隣からぶっきらぼうな言葉が返ってくる、普通で当たり前の幸せを噛み締めるのであった。

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