"二人で"ご飯。

 朝。

 少女――セリーゼの朝は早くない。

 これが寝心地の悪い石の床や壊れかけの木造ベッドなら別だが、連合国の技術を取り入れた近代的なベッドはマットレスの性能も良く、身体を柔らかく受け止めてくれていた。当然布団もふかふかで、これで寝過ごすなと言う方が無理がある。


 ただでさえセリーゼは睡眠環境の悪いところで眠り続けてきたのだ。寝心地の悪さと、周囲の危険と心の不安と。熟睡など夢のまた夢――であった。過去形である。


「……ぅ」


 呻きとも唸りとも取れる声を漏らし、少女は目を覚ます。

 ぽやぽやとした頭で考えるのは、よく寝た、もうちょっと寝たい。あぁでもご飯取りに行かなくちゃ……――あれ。


「……」


 眠気が吹き飛び、頭が冴える。

 十分な睡眠は少女の脳を完璧に動かしてくれていた。


 即座に昨晩のことを思い出し、身体を包む柔らかな布団に頬が緩みそうになるのを我慢し、手のひらから伝わる温もりに身を硬くする。


 ゆっくりと目を開けながら、今の自分の体勢を頭で理解する。

 セリーゼは昨日の夜、おじさんと手を繋いで寝た。寂しがっているとかいうおじさんの勘違い――ともあながち言い切れない部分はさておき、夜中に一度も目を覚まさない程度には熟睡した。


 朝になれば繋いだ手なんて解けているだろうと思っていたが、どうも違ったらしい。彼女はおじさんと手を繋いだまま、なんなら両手でおじさんの手を包んで眠りこけていた。


 かぁっと頬が熱くなる。

 寂しがりにもほどがあるでしょう、わたし。とは少女の心の声である。


 気を紛らわせるために開けた目で周囲を見る。

 見える範囲は狭く、布団と布団と窓と、あとおじさんの横顔。


 朝日に照らされたおじさんは死んだように真っ白で、身動き一つせず呼吸の音すら聞こえてこない。手のひらから伝わる高い体温だけがおじさんの命を感じさせる。


 少女は不安に駆られ、そっと繋いだ手に力を込めてみる。


「――起きたのか」

「っ」


 ゆらりと返事が来てびっくりしてしまった。首を傾け、こちらを見てくる。

 薄い朝日を浴びたチョコレイト色の瞳が少女だけを見ている。


「おはよう、セリーゼ」


 目は逸らして、こくりと頷く。

 まさか起きているとは思わなかった。おじさんが息をしていないんじゃないかって心配したのに、全然少女より先に起きていたらしい。目をつむっていただけのようだ。


「セリーゼ。起きてすぐに悪いが、手を離してくれないか?」


 ぱっと急いで手を離し、自分の布団に両の手を引っ込める。ずっとあった温もりがなくなって、何か物足りないようなおかしな心地になる。

 ごめんなさいの意味を込めて視線を送り、目が合ったところで頭を下げた。おじさんは身を起こしながら首を振り。


「いや、謝らなくていい。手なら後でいくらでも繋いでやるから気にするな。それより俺は朝食の準備をするから待っていろ。――あぁ、ホットチョコレイトを入れておこうか。先に顔を洗ってくるといい」


 苦笑とも言えるような、何とも言えない顔をするおじさんの言葉に従って浴室に向かう。ぺたぺたと音を立てず床を踏み、頭の中では色々と考える。


 戸を開け閉めして、小さく息を吐いて。


「……」


 おじさん、笑っていたかも。嘘だ、笑ってはいない。

 苦い顔だった。でもちょっと笑顔っぽくもあった。昨日から見ていて全然表情が変わらない人だと思っていたけど、小難しい顔なら結構しているかもしれない。


 苦笑いとか困り顔とか悩ましい顔とか。

 眉を寄せたり口元少し歪めたりする程度だけど、無表情ではない。そう思うと、昨日の"金ならある"と言った時の不器用な笑顔はかなり貴重だったのかもしれない。


「――」


 口元で笑って、まさか"金ならある"が一番の笑みになるなんてと思ってしまう。

 いや、お金は大事だから悪いことじゃないんだけど。でも他に笑顔を見ていないから笑っちゃうのも仕方ないし。


 言い訳をしながら顔を洗い、洗面台の横に置かれているタオルで水を拭き取る。

 姿見で自分を確認し、髪を結ぶかどうか迷ってそのままでいることにした。


 今の長さならまだ結ばなくても済むし、結ぶにもリボン一つゴム一つなければ髪を留められない。わざわざそこまでするほどのことでもないのだ。最悪切ればいいし。


 軽く頷き、便利な水洗式のトイレでお手洗いを済ませてから浴室(脱衣所トイレ兼用)を出る。

 トイレの技術もすごいなーと、まだ少し緩んだままの頭で考えながらおじさんの下へ。


 居間ではチョコレイトの甘い香りに混じって食欲を刺激する料理の香りが漂っていた。

 ぱたぱた歩き、手帳に文字を書いて準備中のおじさんに向ける。


【おじさん、おはようございます】

「あぁ。セリーゼおはよう。ホットチョコレイトはベッド脇のテーブルに置いたから飲んでくれ。食事はもう少し待ってもらえると助かる。俺も顔を洗ってくる」

【はい】


 流れるような言葉に頷き、机の上から目を逸らしベッドの近くへ。

 マグカップを手に取り、両手で持って口元に運ぶ。甘い香りが気持ちを落ち着かせ、ちびちびと流し込むとチョコレイトの甘みが身体の力を抜いた。


 ベッドに座り、ホットチョコレイトを味わいながらぼんやりとする。

 聞こえるのは窓の外からの声、それと浴室からの物音だった。どちらからの音も思ったより少なく、特に外の音は静かに耳を澄ませてようやく聞こえる程度の代物。

 部屋の防音性能に感心する。これも連合国の技術かと思うと、"後方国家は遅れている"という言葉にも頷けてしまう。


 自分の生まれ育った国を悪く言うつもりはない――いや嘘だ。悪く言うつもりはあった。あんな国は滅んでしまえばいい。


「……」


 チョコレイトを飲んで気持ちを落ち着ける。揺れていた心が徐々に穏やかになっていく。


 小さく溜め息を吐き、中身を飲み干してしまったマグカップを机に置いた。

 おじさんまだかな――。


「――待たせたな」

「――ぅ」

「セリーゼ?」


 心配そうな目に首を振る。急いで手帳に返事を書きこんだ。


【大丈夫です】

「そうか。なら朝食にしよう」


 まだかなと思った直後に話しかけられて身体が跳ねてしまった。びっくりした。恥ずかしい。

 幸いおじさんは気にした様子がなく、首を傾げただけで何事もなかったように頷いてくれたのでよかったことにする。


 ほんの少し、本当に少しだけ話しかける前に予兆作ってほしかったと恨めしい気持ちもないこともないが、それ以上に羞恥からくるドキドキ感を抑えるので少女はいっぱいいっぱいだった。


 男が先に座るのを見て、少女もまた椅子を引き席に着く。

 机の上には昨日手を付けなかった料理や余った料理が、これまたたくさん並べられていた。どういう原理か湯気を立てるほどに温められている。

 セリーゼは目を輝かせ、こくりと生唾を飲み込み隣を見る。


「食べようか」

【はい】

「いただきます」

【いただきます】


 言葉の意味はわかるが初めて聞くお祈りの言葉を続ける。こういうのは相手に合わせた方がいいのだ。

 他に作法はないらしく、そっと隣を窺い見ながら食器を手に取る。


 昨日の夕食は何も考えず先に食べ始めてしまった。よく考えたらおじさんの方が先に食べるべきじゃ……とも思ったが、おじさんの方を見てもこちらが食べるまで一切料理に手を伸ばさないので、普通に先に食べさせてもらうことにした。


 美味しい美味しいと少し涙ぐみながら食べていると、昨日より余裕があるため一つ気づくことがあった。

 隣に座る男の、おじさんの食があまり進んでいないのだ。


「……」


 一度気づいてしまうとそちらが気になってしまうのも無理はない。

 わざわざ尋ねるのは恥ずかしいが、無視できるほど図太くもない。当然食べる速度も落ち、何よりちらちらと見てしまっていた少女の視線に男が気がつかないわけがなかった。


「セリーゼ。何か用か?」

「ぁ……」


 肩が跳ねる。目を泳がせ、じっと見つめてくる視線に耐える。

 膝に置いた手を固め、手のひらに指を丸め込む。目を合わせ続けるのはまだ難しい。

 一晩を共にしたおかげで、昨日よりは幾分か信じられる。寝ている間ずっと手を握ってくれて、起きても無理に振り払わずわたしが起きるのを待ってくれているような、そんな人だって知ってる。


 でも、それを知っていたとしても、一日経って接しやすくなったとしても、それでもまだだ。まだまだ、信頼には程遠い。少女の心が否定している。人を信じちゃいけない。この人だってきっとまたわたしを傷つける。


 頭では信じると決めても、心は納得してくれない。


 ぎゅっと一度目をつむり、高い目線に合わせて――すぐ逸らして、迷って迷って迷い尽くして、何も言わず待っていてくれるおじさんに、伝えようとペンを取る。白い紙に書きこんで、蓄えた勇気を形にする。


【おじさん。あんまり、ご飯食べてないです。お腹、減ってないですか。ご飯、美味しくないですか?】


 書いたものを見せて、生意気なこと聞いちゃったかもと後悔する。

 何も聞かなければよかった。ただ首を振ればそれでよかったのに。何も書かなければ、こんな気持ちは味わわなくてすんだのに。


 胸が苦しい。怒られるかな。やっぱり聞いちゃだめだったかも。……ぶたれるのは、やだな。痛いのは辛い。苦しいのも、怖いのも……追い出されるのも……やだな。またご飯探してお腹減ったまま寝ることになるのかな。やだな。やだ、な……。もう、一人ぼっちはやだな…………――――――。


「――ぅ……ぇ?」

「悪かった」


 頭の上に、温かな感触がある。


「セリーゼ。大丈夫だ。俺は君にひどいことはしない。君を一人にもしない。だから泣くな。俺は……君を幸せにすると言っただろう。理由は……そうだな。まだちゃんと話していなかったか。君の立場を思えば、もう少し話しておくべきだった。ごめん。謝る」

「ぁ……」


 いつの間にか俯けていた顔を上げ、滲んだ視界に気づいて服の袖で目元を拭う。頬も、少し湿っていた。


 勝手に落ち込んで、勝手に辛くなって、勝手に泣いて。

 そんな身勝手なわたしを……わたしの頭を撫でてくれている。不器用で、手つきはたどたどしくて。けど……すごくあたたかくて。


 チョコレイト色の瞳を見上げて、申し訳ない顔をしているおじさんを見て。

 すぐに"わたしの方こそごめんなさい"と書こうとして。


「――謝らなくていいんだ。セリーゼは悪くない。そもそも一方的に君を連れてきたのは俺だ。君の幼さに甘えて口下手な自分を許していた俺が悪い。最低限、せめて君が納得できる理由を話しておくべきだった」

「っ……ぅ……ずずっ」

「鼻かむか?」


 ティシューを手渡されたので、ついそのまま鼻をかんでしまった。

 ずずーっと音を立てて鼻の詰まりをなくし、また溢れ出てきた涙も拭っておく。ごみは近くのごみ箱に身を乗り出して入れておく。

 おじさんに向き直るも、撫でられる手の温かさに何度も何度もと涙が溢れてきてしまう。


 小さなタオルを渡され、受け取ったそれで目元を押さえた。じんわりと布が濡れていく。


「セリーゼ。朝食が冷める前に、君が気になったことだけ手短に伝えようか」

「――」


 こくりと、頭を動かす。

 おじさんの手が止まり頭の上から離れそうだったので、きゅっと掴んで続けてもらう。頑張って顔を上げ、潤んだ目でおじさんを見る。


「俺がどうして、料理に手を付けないかだったな」


 再び頷く。

 じっとチョコレイト色の目を見ていると、今はなんだか安心できた。頭の上があたたかい。


「俺の身体はな。そもそもが食事を必要としていないんだよ」

「……ぅ」

「チョコレイトを食べて種として進化してからになるか。魔力さえ取り込めば他に何もいらなくなった。料理だけでなく、水もな」

「……」

「嘘だと思うか?」


 ゆるゆると首を振る。

 わざわざこんな場面で嘘をつく必要もないし、おじさんが嘘をつくとも思いたくない。それに、チョコレイトの瞳に嘘の色なんて一切見えなかった。

 おじさんは少女の眼差しに目を細め、小さく頷く。


「そうか。ありがとうセリーゼ」


 今度はぶんぶんと首を振った。

 照れる。おじさんの口元がほんの少し緩んでいるのを見てしまった。気恥ずかしくて目を逸らしたい――けど、今は逸らせない。逸らしたくない気持ちの方が大きい。


「魔力をチョコレイトに変換して身体の栄養源にしているんだ。それも半自動的に行われている。"魔法"とはよく言ったものだよ。魔の法則。人の法から外れた者の法則さ。……だから俺は、あまり食べていなかったんだ。先に言っておけばよかった。すまない」


 目を伏せるおじさんに、慌てて手帳を手に取る。素早く書き込み、読んでもらえるようにと前に見せた。


【謝らないでください。おじさんは悪くないです。食べられないわけじゃないですすよね】

「ああ。食事そのものは可能だ。取り込んだものはすべて一度チョコレイトに変換されるから、基本的にいくらでも食べられる。一切食べなくても平気だが」

「……」


 聞いて、どうしようかと一瞬悩む。

 伝えていいのか、意見なんてしていいのか。まだ一晩一緒に寝ただけの関係――この言い方はちょっと変かもだけど、それだけの浅い関係だというのに。わたしなんかが助けてくれた恩人に物を言っていいのかって思う、けど。


 でも、おじさんはわたしのことを撫でてくれて、一人勝手に泣き始めたわたしに言葉を尽くして誠実に話をしてくれた。

 この人になら、この人となら。

 わたしでも……わたしなんかの言うことでも、優しく受け止めてくれると思うから。


 顔を上げ、おじさんを見て。

 何も言わず待っていてくれたおじさんを見てから、目を落として書き込む。同時、さっき急いで書いた文字が一部誤字になっていたと知り頬が熱くなる。

 息を吐き、両手でそっと手帳を持ち上げた。


【それ、なら。一緒に、ご飯を食べてください】


 穏やかな色が揺れる瞳を見つめて、深く息を吐いておじさんを待つ。

 おじさんはほんの微かに頷いて。


「セリーゼの分が減るぞ」

【いいです。一緒がいいです】

「俺は食事が必要ないんだぞ」

【それでも、です。一緒に、ご飯を食べたいです】

「そうか」

【はい】

「なら、食べるか」

【はい】

「ご飯、一緒に食べるか」

【はい!】


 表情を変えず、もそもそと美味しいのか美味しくないのかわからないような顔で料理を食べ始めた男に微笑みかける。

 昨日と今日合わせて、おじさんと一緒にいる場所で少女が見せる初めての自然な笑みだった。


「うまいな」

【はい。美味しいです】


 表情は変わらなくても、食事が必要ない身体だとしても、やっぱり美味しいものは美味しいらしい。

 おじさんの声を聞き、少女はもう一度微笑んで料理を食べ進める。


 料理は変わっていないはずなのに、少し冷めてしまっているはずなのに。それなのにどうしてか、隣で仏頂面のまま食事を続けるおじさんがいるだけで、どうしてか不思議と――不思議と、セリーゼには美味しかった料理がもっともっと美味しく感じられるのであった。

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