夜と体温。
贅沢な湯浴みを済ませ、身も心もぽかぽかとした状態でベッドに入る。
部屋の電気は消され、残った光源は窓から差し込む夜の明かりだけ。カーテンを閉めてしまえばそれもなくなると思うと、微かな心細さが胸に積もる。
おじさんはセリーゼよりも先にベッドに入り静かに窓の方を向いていた。少女に背を向ける体勢だ。彼女への配慮なのか、何も気にせず向こうを見ているだけなのか。セリーゼには察しがつかなかったが気持ち楽なことだけは確かだった。
「……」
視界の悪い部屋の中、このまま寝ていいのだろうかと思う。
おじさんがわたしを拾った理由はわからないままだけれど、こんな夢みたいなことばかりしてくれた人に対し、何もしないというのは少し――いやかなり息苦しいものがある。
だからといって、自分に何ができるのか。
ここ数年で後ろ暗いことや人の闇のようなものの多くは学んだ。学ばされた。学ばないと生きてはいけなかった。
幸いにも少女は小汚い少年のような風体をしており、
知識としては知っている。まあその知識さえ浅く曖昧なものだが。
身売り、花売り。今の状況から考えれば夜伽か。
正直……。
「……」
ちらと、布団に隠れて見えにくいおじさんの背を見て思う。
正直なところ、そこまでの嫌悪感は湧いてこなかった。
死にかけのわたしに手を差し伸べて、助けてくれた。喋れないわたしにご飯をくれた。衣服をくれた。お風呂に入らせてくれた。あたたかい食事と、柔らかな服と。おじさんは"家はまだない"と言っていたけれど、少女にとって今この場所、宿の一室でさえ十二分に衣食住の"住"として足りていた。
屋根のある場所で、あたたかいベッドに入って安心して眠りにつける。
これ以上、何を求めればいいのか。
こんな"幸福"を与えてくれた人に、嫌悪感など湧いてくるはずもない。好意は……あまりおじさんのことを知らないのでわからないけど、この人ならいいかな、くらいには思えていたのだ。
ただまあ、そういった思いを文字とはいえ形にして伝えられるかと言ったら別の話にもなるのだけど。
「……」
手帳はベッド脇の机に置いてあるので、するりとベッドを抜け出し文字を書く。薄暗闇の中でも、窓から差し込む月光が視界を明るくしてくれていた。
勇気を振り絞り、おじさんの見ている窓側に回る。足音は立てず歩き、傍まで行ってどうしようかとまごまごする。
勢いで来てしまったが、ここからどうするかあまり考えていなかった。声が出せれば一声かけて終わりなのに、音一つ出ない自分がもどかしくなる。
手を伸ばすか伸ばさないか迷って、そのまま何もせず戻った方がいいんじゃとさえ思ってしまう。結局それ以上の勇気は出ず、とぼとぼと戻ろうと――。
「――セリーゼ?」
ドキリと心臓が跳ねる。
名前を呼ばれた。振り返り、闇夜に宿る濃茶色の瞳を見つける。
最初から起きていたのかな。もしかして起こしちゃったかな。起こしちゃったなら、わたしの用を言わなくちゃ。何もないのに勝手に歩き回ってたら……怒られるかもしれない。怒られるのはやだから。怖いのも、痛いのもやだから。
【わたしに何かしてほしいことはありますか?】
見えにくい中で、少しは見えやすいようにと月光を浴びられる場所に手帳を翳す。
簡潔な文章でわかりやすいが、少女の本心とはずいぶん違った。もしこれが声として出ていたら、単語は震え、言葉尻は薄くなってしまっていただろう。つっかえつっかえになっている姿が目に浮かぶ。
文字でよかったのか、文字だからよかったのか。
感情を読み取らせない文章を読んだおじさんは。
「……そうか」
呟き、大きな身体を動かして起き上がり、少女に向き直る。チョコレイト色の瞳がセリーゼの薄い青色を真っ直ぐと見つめていた。
「セリーゼ」
返事はせず、こくりと頷く。
ちらちらと目を合わせて逸らして、伝えておきながら急な羞恥心に襲われて恥ずかしくなってしまう。
よく見たらおじさんはチョコレイトそっくりな美味しそう――じゃなかった。綺麗な目をしていて、表情は動かないけど年齢より若く……あれ、おじさんの年聞いてなかったかも。
ぐるぐると頭の中が混乱している間、少女の表情はよく移り変わっていた。
赤くなったり青くなったり、難しい顔をしたり困った顔をしたり。笑顔はなかったにしても、ずいぶんと表情豊かであった。
おじさんはそんなセリーゼを見て、うむと小さく頷く。
「君は寂しいんだな」
違いますけど!というセリーゼの心の叫びは誰にも届くことはなく。
「わかった。一度ベッドから降りてくれ」
もう一度小さく、こくりと頷いた。
言われた通り、ぺたりと床に足をつけて立つ。
何をするのかとおじさんを見ていたら、結っていた髪が解かれていることに気づく。長い髪は垂れ、下手をすれば少女と同じかそれ以上に伸びていた。前髪は左右に除けられ視界は利くようにされている。進化の影響か、チョコレイトの影響か。おじさんはおじさんなのにずいぶん綺麗な髪をしていた。年齢は本当におじさんなのか知らないから何とも言えないけれど。
そうこう考えている間にも、男はベッドを簡単に持ち上げて少女の寝ていた側に動かす。二つのベッドを接するように並べ、よしと頷いた。
よしじゃないんだけど……。声にも文字にもならず、これってやっぱり、と今からの展開に不安が募る。あとちょっとした気恥ずかしさも。
「セリーゼ」
「――」
「寂しいのはわかる。だが俺は君と一緒に寝ることはできない。見ず知らずのおじさんとベッドを共にするのは君のためにならないからな」
別に見ず知らずじゃありませんが。
なんて言えるわけもないので。
【はい】
簡潔に肯定だけを書いた。
おじさんは頷き。
「さあ、もう寝よう」
と言う。促されるままにベッドに入るも、少し距離が縮んだだけで先ほどとあまり変わらない。夜伽っていったい、少女の心の声である。
「セリーゼ。一緒には寝られないが、君の寂しさを紛らわせてやることは俺でもできる。……手を出してくれ」
おずおずとベッドの中から手を出し、おじさんのいる側に伸ばす。
「ぁ……」
何をするのかなと思っていたら、きゅっと手を握られた。小さな手とは対照的に、骨ばった大きな手。
セリーゼの口から掠れた音がこぼれる。
「これで許してくれ」
何に対する許しなのか。
なんにもわからないけれど、おじさんの手は優しくてあたたかくて。胸の内が変にくすぐったくて、でもそれは嫌なくすぐったさじゃなくて。心地良くて、あったかくて、ふわふわとしていて。
「……寒いから手は布団の中に入れるぞ」
仰向けになりながら不器用な口調でそんなことを言うおじさんに、セリーゼはほんのりと口元を綻ばせる。
片手が塞がっているから文字は書けなくて、感謝が伝わるようにと繋いだ手に力を込める。
ちらりと視線が送られ、気恥ずかしさから逃れるようにと少女は目を閉じる。
気持ちは穏やか、さざ波一つ立たない心地で意識を落としていく。
繋いだ手のあたたかさは懐かしくも新鮮で、部屋には少女の心を癒すかのように甘やかなチョコレイトの香りが広がっている。
カーテンが開かれたままの窓からは、少女とおじさんの寝顔を照らす月光と街明かりが微かに差し込んでいる……。
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