少女とおじさん。

 男から手渡されたマジックバッグを持って、少女は浴室(脱衣室兼用)に入る。

 入口の戸を閉め、すっと部屋の中を見渡して姿見に気づいた。


「……ぁ」


 すごい、と胸の内で呟く。

 チョコレイトを食べたり飲んだり、ご飯を食べたりとして今さらではあるが、宿に対して改めて思うことだった。


 この部屋、というよりこの宿。

 おじさんの言っていた連合国との国境に位置する街というのも頷ける。部屋そのものもそれなり以上に広く、ベッドは二つ。食事用に大きなテーブルと椅子もあり、思えばベッドの傍の机もあまり見ないような代物だった。天井にある魔石灯と、個々の机に設置された小さな魔石灯。無造作に置かれたそれらが魔石灯そのものへの価値があまりないことを示している。


 もしこれが少女の生まれた国、サンノクニ内の王国に隣接する街だとしたなら、部屋に魔石灯をいくつも置いたりしない。

 浴室の姿見もそうだ。いくらお金をかけても、平民が泊まれるような宿にこんな綺麗な鏡は設置されてなどいない。というか部屋の中に別室で浴室が設けられている時点でありえなかった。


「……」


 指を伸ばし、そっと鏡に触れされる。

 硬質な感触と、指紋の残る鏡に少し罪悪感が湧く。すぐに着ていた服の袖を引っ張って拭き取り、ほっと息を吐く。


 洗面台にマジックバッグを置き、改めてと姿見の前に立つ。

 お腹がいっぱいになったからか、さっきよりも気持ちが上向きになっている。


 こうして自分の姿を見るのは、ずいぶんと久しぶりだった。

 家……それこそセリーゼがきちんと"セリーゼ"と呼ばれていた頃に見て以来だろうか。


 少々感傷的になりながら、じっと今の自分を観察してみる。


 背はほとんど伸びていない。どれくらいか。元より小柄で、今も百四十センチメートルないように見える。体重は食べていない分身長以上に増えていないだろう。むしろ減っているかもしれない。


 アッシュグレー……銀灰色の髪は魔石灯の明かりで弱く輝いている。汚れはなく、痛んだ様子もない。長さは肩口まで。ちょうど肩にかかるほどで、こんなに長かったかなと首を傾げる。

 同時に揺れた髪が頬に当たり、自分の髪ながらくすぐったくて軽く手で払った。


 触れた髪の指通りの良さに満足し、ついでに触った肌の質感に驚いた。

 急いで服の裾や袖をめくって全身を確認してみると、傷だらけだった肌が綺麗になっていた。汚れも傷も、ちょっとした火傷や瘡蓋かさぶた一つすらない。


 これがおじさんの言ってた進化?疑問に思いながらも、足が再生したんだしそういうこともあるかと小さく頷く。


 じっと見つめてくる鏡の目は薄い青色。もっと濁っているかと思っていただけに、意外と綺麗なままで少し……少しだけ安心した。


 目の色は魔力で変わると言うし、あれだけひどいことがあれば魔力も濁って瞳の色なんてとっくに変わっていると思ったけど。変わってなかった。変わってなくてよかった。


 お母さんを思い出せる瞳の色。優しい色。いろんなことがあって、きっともうわたしの両親を思い出せる人なんて少なくなってる。けど、わたしにとっては大事なお父さんとお母さんだから。


 髪はお父さんの色。瞳はお母さんの色。忘れない。ずっとずっと、これだけは忘れないでいたいと思う。


 軽く頭を振り、服の確認に移る。


 服は丈の長い灰色のシャツとぶかぶかの黒色ズボンだけ。下着は薄い布を胸に巻いただけの胸当てと、痛んでくたくたになったパンツ。


 下着に関してはずっと前から使い続けているものだが、上着は違う。シャツもズボンも見覚えがなく、一切サイズが合っていないことからおじさんのものだとわかった。


 少女には大き過ぎる衣服でも、着心地は悪くなかった。ゆったりとして柔らかく、これで十分……とさえ思えてしまう代物である。

 とはいえ服が男性用であることには変わらない。おじさんのことだから、その服返せ、という意味で新しい服を買ってきたわけでもないだろうけれど……わたしが一度着たものなんて着たくないんじゃ、と思わなかったりもしないけれど……。でも、せっかく買ってもらったんだからとマジックバッグに手を伸ばす。


 鞄は小さく軽く、それでも少女の片手じゃ持ち切れないほどには大きかった。

 床に置き、おそるおそる留め具を外して開け口に手を入れる。ひんやりしていて、不思議と中に何が入っているのか頭に浮かぶ。


 シャツ、ズボン、スカート、コート、下着、靴、靴下、チョコレイト。


 細かい説明はなく、ただなんとなく何がいくつ入っているのかわかるだけ。シャツとズボンは三着ずつ。コートは二着、スカートは一着。下着は多めに上下揃えて五着ほど。靴は二つに、靴下が一番多く十足も入っていた。大量のチョコレイトはいったん意識の外に置いておく。


 試しにシャツとズボンを取り出してみると、今着ているものに近い灰色のシャツと、目立ちにくい紺色のズボンが出てきた。触った感じ品質はかなり良い。これが平均なのかどうか少女にはわからなかったが、とりあえずと姿見に合わせて服の大きさをチェックしてみる。


「……」


 ゆったり。

 身体に合わせてみたら、上下共に少しだけ丈が長かった。

 セリーゼの成長を見込んで長く使えるようにと選んだのか、ゆったりしている方が寒さに耐えやすいから選んだのか。理由はわからないが、今着ているものより格段に身体に合いそうだった。


 下着も取り出し、さっさと服を脱いで飾り気のない灰色のパンツとブラジャーに着替え――。


「――……」


 手に持って止まる。

 新しいものをもらって、おじさんの厚意を無下にするつもりはない。だけど、こんな綺麗な衣服を着るのに今のわたしのままでいいのかなとは思う。


 温かいお湯どころか、水浴びすらしていない。

 上位種の魔物――男の言っていた成り損ない――に襲われる前から、まともに水浴びなんてできていなかった。飲み水の確保で精一杯だったのだから、水浴びなんてできるわけがない。せいぜい雨の日に雨水を溜めて身体を洗うことくらいだった。


 水浴び一つしていない身体は汚くて、下着は多めにあると言ってもすぐ汚すのは……――そういえばわたし、今綺麗だった。


 はっと顔を上げ、手首を擦ってみる。

 垢が出ることはなく、少し強く擦ると薄っすら赤く色付いた。


 進化とかいうよくわからない現象のことをつい忘れてしまう。

 とにかく今、少女の身体はとっても綺麗になっていた。


 よかったと胸をなでおろし、下着を穿き替え大きめのシャツとズボンに着替える。

 靴下は……。


「……」


 まだ履くのはやめておいた。部屋の中で靴は履かないようなので、ぺたぺたと素足のまま着替えを終える。


 最後に鏡の前に立って、ぱくぱくと口を開け閉めする。

 声を出そうとして、呼吸の音以外何も聞こえないことを再確認する。息を振り絞っても変化はなく、喉を震わせるものは何もなかった。


 諦め、鞄と脱いだ服を抱え、ちらと浴室を見て"お風呂入れたりするのかな"なんて期待をして。すぐにそんな期待は捨て去って戸を開ける。


 場所柄か、少女の過ごしてきたサンノクニも今いるニノクニも、薄着で過ごせる程度には温暖な気候をしていた。男が長袖長ズボンを用意したのは今後を見据えてなのか、長旅に適したものにしたかったからなのか。

 浴室を出てみて、なんとなく肌寒さを感じるような気がしてそんなことを思った。


 鼻をくすぐる料理の香りとチョコレイトの甘さに頬が緩みかけ、おじさんと目が合って表情を硬くする。さっと逸らした。同時に過る罪悪感。


 胸の内で溜め息を吐き、ぺたぺたと部屋を歩いていく。

 おじさんは椅子に座っていた。何をしていたのかこっそり見ると、書きかけのノートが机に広げられていた。少女の気配を感じて顔を上げ、無言でペンを置く。少女がもらったペンと同じものだ。


「セリーゼ……服はどうだ?」


 服はベッドに置き、いそいそと机の上の手帳を取る。返事を書いておじさんに見せた。


【少し大きいですけど、大丈夫です。ありがとうございます】


 そうか、と頷く男を見て、なんとなくさっきよりも上手く伝えられた気になる。おじさんの雰囲気も少し柔らかくなったような気がする。

 お腹がいっぱいになったからなのか、真新しい服に着替えられたからなのか。理由は定かではないが、ちゃんと言葉を交わせたような気がする。たぶん本当に気がするだけ。まだ目は合わせられないし。


 何にせよ少し気分が上向きになったところで。


「セリーゼ」

「――」


 呼ばれた名前に頷く。


「そのマジックバッグは君のものだ。背負えるようにもなっている。少し大きいだろうが、今後買ったものはすべてそれに入れるといい」


 おじさんから告げられた急な言葉に固まる。

 だってそんな、こんな高価なものを……。


 少女の内心を読み取ったのか、男は続けて言う。


「大丈夫。金ならあるんだ。人は衣食足りて礼節を知ると言う。住居は仮でしかないが、衣と食はこれで最低限を満たせるだろう。特に食はな。チョコレイトならいくらでも出せる。足りなくなったらいつでも言ってくれ」


 そんな言葉知らない、とかいつでも言えるわけない、とかそもそも喋れない、とか。

 言いたいことはいくつかあったが、どれも形にならなかった。チョコレイトに関しては普通に嬉しかったけれど、そう簡単に伝えられないので意味はない。


 それよりなにより、やはりどうしてという思いが強い。

 でも……それも、伝えてしまうと何かが壊れてしまうような気がして指一本動かなかった。

 杞憂だとは思う。おじさんなら簡単に答えてくれると思う。けど、絶対はないから。わたしを助けてくれただけの他人でしかないおじさんに、すぐ心開けるような精神はもう持ち合わせていなかった。


 だから。せめて。


【ありがとう、ございます】


 怖いことは書けない。でも、簡単なことなら、複雑な意味も持たない言葉なら書けるから。

 いろんな想いを込めて、厚意に甘えようとお礼を伝えた。


「ああ」


 頷きついでに、するっと手渡されたものを見つめる。四角形の細長い箱だ。半透明で、中に小物が入っている。


 疑問を込めて視線で問うと。


「歯磨きセットだ。安心しろ。それこそ高価なものでもない。サンノクニではあまり見かけなかったか?」

【はい。これはプラスチック、ですか?】

「そうだな。プラスチック製の歯磨きセットだ」

【サンノクニでは、あまり見ませんでした】

「そうか。プラスチック製だが歯磨きセットに違いはない。使い方は木製や動物製と変わらん。今は進化直後だから全身健康体だが、歯も放っておくと病気になるからな。歯磨きはしておくように」

【はい。ありがとうございます】


 すごく真っ当なことを言われ少し戸惑う。

 もっとぶっきらぼうな人かと思っていたただけに、お母さんやお父さんみたいなことを言うから驚いてしまった。もちろん歯磨きセットはありがたくいただく。


 歯磨きは……まあ確かに大事だと思う。まず食べることが大変だったので歯の健康なんて気にもしていなかったけど。


「……」


 呼び掛けようと思って、どうやって名前を呼べばいいのかわからなかった。

 もちろん声じゃなく文字ではあるけれど、おじさんはおじさんとしか聞いていないからどうすればいいのかわからない。おじさんと呼んで、とは言われたけど、そのまま本当に呼んでいいのかどうか。


 セリーゼはおじさんの本名がオジであることを知らないため惑っているが、おじさんが本名なので本来気にする必要はない。


 少女は迷い、結局言われた通りの呼び方を選んだ。

 歯磨きセットは持ったまま、手帳に書き込んで男の袖を掴む。遠慮がちに、本当に端っこを掴ませてもらった。

 おじさんの瞳が少女に向く。


【おじさん、ここで開けてもいいですか?】

 

 視線はずれて、そのまま文字を読み取っていく。


「いいぞ。自由に開けて使ってくれ」


 すぐに返事はくれた。こくりと頷き、ありがとうございますと伝えておく。

 鞄は床に置き、服は……と迷っておじさんに返却し、空いた手で歯磨きセットを開ける。

 細長い箱の中には三つほどのお手入れ用品が入っていて、一つは白いブラシの付いた歯ブラシ。柄もブラシ部分もプラスチック製だ。さすがは連合国に近い街。

 残りもプラスチック製だが、歯ブラシと違って短い糸がぐるぐる巻きになったものと、小さな丸型ケースの二つだった。


 見覚えのない物体ばかりで、おじさんに聞こうと手帳を持った時。


「セリーゼ。糸が巻かれたものは糸楊枝だよ。歯間……歯と歯の間を掃除するためのものだ。小さなプラスチックケースは歯磨き粉だな。中身はチョコレイトだが」

【チョコレイト?】

「ああ。歯磨き用に俺が調整したものになる。補充はいくらでもできるから無くなりそうになったら言ってくれ。間違って飲み込んでも大丈夫だから気にせず使っていいぞ」

【はい】


 糸ようじはともかく、歯磨き粉……。

 歯磨き粉なんて実家で使っていた時以来だけど……というか、そもそもチョコレイトって甘くて美味しかったやつをそんな風に使ったらもっと歯の病気になるんじゃ、なんて思う。でもおじさんがわざわざ"調整した"と言っていたから、そういうこともできるのかなと思い直したり。


 魔法の使えない少女に不思議なチョコレイト魔法のことなんてわかるわけがなかった。そういうものだと納得する。


 ちなみにセリーゼは納得してしまったが、おじさんの魔法が世間一般で言う"普通の"魔法とかけ離れていることは言うまでもない。チョコレイト魔法なぞおじさん以外に使える者などいないのである。


【歯、磨いてきます】


 なんだかちょっぴり変に気まずくて、おじさんが頷くのだけ見て急いで浴室へ舞い戻ってきてしまった。

 音もなく、はぁと短く溜め息。


「……」


 もう一度溜め息を吐いて、姿見で自分を見て虚しくなる。

 お腹いっぱい食べさせてもらって、衣服までもらってしまって。マジックバッグ……はおじさんのところに置いてきてしまったけれど、鞄ももらって歯磨きセットまでもらってしまった。


 命を助けられただけで充分以上に恩はあるというのに、ひたすら返せないものが積み重なっていく。

 それなのにわたしは、おじさんから逃げてばかりいる。というより、逃げてしかいない。


 少しは話せるようになった、なんて勘違いもいいところだった。

 もっと素直に……は違うか。もっと従順に……も違うか。少なくとも、おじさんから逃げずにまともに向き合えるくらいではいないと人として良くない気がする。


「――」


 自分の考えがばかみたいで、呆れてしまう。

 人として、なんて。ほんの少し前まで人として扱われていなかったわたしが言っても説得力は欠片もない。でも、おじさんは衣食足りて礼節を知ると言っていたから。それは正しいのだと思う。


 なるほど確かに、お腹いっぱいになったから礼儀とか礼節とかを気にするようになったのかもしれない。さっきから自己嫌悪にずーんと沈んでばかりだ。


 時間が経てば、おじさんから逃げずにきちんとお礼を言って恩を返せるようになるのだろうか。


「……」


 息を吐き、わからないことはわからないままと思考を止める。

 もやもやした気分を抱えて、少女は歯磨きセットを手に取る。


 今日くらいはと多めに使ったチョコレイトの歯磨き粉は、思った通りびっくりするほどチョコレイト味で甘かった。

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