チョコレイトとあたたかな食事。
魔石灯の明かりが夜の暗闇を染め上げている。
既に日は沈み、人の時間は終わりを迎えている。それでも窓の外は明るかった。
知識としては知っていたが、実際に見たこと、訪れたことはなかった。同じ国――いや、同じ国ではないのか。乱立した小国家の一つであり、既にここは元居た土地と異なっている。
しかし国が違うだけでこうも変わるものなのかと、話には聞いていたが体感するのとは違い過ぎて少女は――セリーゼは戸惑いを隠せずにいた。
「……ふぅ」
深く息を吐いて、顔にかかった髪に触れる。
艶のあるアッシュグレーの髪を一房掴み、目に映るところまで持ってきた。指通りの良さと髪質の良さに喜びながら、はらりと落として先ほど聞いた話を思い返す。
『――君は死にかけていた。流した血の量、心身の衰弱、栄養不足。成り損ないに襲われて生き延びた時点で奇跡のようなものだが、よくあのボロボロの身体で生きていたものだと思う。君は運が良い』
運が良い。
わたしの何を見て運が良いと言ったのか。淡々とした口調で言われむっとしてしまったのは今でも間違いじゃなかったと思う。ただ、でも。自然に怒りが湧いてくることが、目の前の人に怒りを向けられることが不思議だった。そんな元気は、そんな心はもうとっくに失くして忘れてしまったはずのものだったから。
『死にかけの君に、俺はチョコレイトを与えた』
チョコレイト。
わたしがおじさんからもらったもの。わたしを
少女は聞いたことがなかった代物で、実物を見せて食べさせてもらったが不思議な味だった。見た目は四角形の茶色い石のようなもの。滑らかで、触ると思ったより温かくて驚いた。
こわごわ口に運んでみると、すぐにチョコレイトが溶けてほんのりとした苦みと強い甘みが口の中に広がった。
「……」
少し涎が出そうになってしまった。チョコレイトは甘くて美味しいお菓子だった。また食べてみたい。
『俺は少し特殊なんだ。チョコレイトを作る魔法が使える。今セリーゼに渡したものは普通のチョコレイトだが、普通じゃないチョコレイトも作れる。それが君の身体を治し、種として進化を促した』
進化。おじさんはそう言っていたが、セリーゼにはよくわからなかった。
何が変わったかと聞かれたら、足が治った、髪が綺麗になった、肌が綺麗になった、身体の痛みがなくなった、等々色々言える。けどそれは、昔の彼女と同じだった。
明るい銀灰色の髪に、傷のない肌。身体を動かしても苦しくも痛くもならない。それはセリーゼにとって当たり前のことだった。今はその当たり前にとても感謝しているが、それでも"進化"と呼べるかと言うとわからなくなる。
わからないけど、でも、おじさんの不思議なチョコレイトのおかげで身体が治ったのはよかったと思う。説明を聞いて、おじさんへの警戒心が少し解けた気がした。
『チョコレイトのおかげで君の身体は治ったが、生物として進化するためにある程度の時間が必要だったらしい。この街に来るまでの間、君はずっと眠ったままだった』
そう言われ、どこか納得している自分がいた。
眠ったまま。確かにそんな気がする。色々と話を聞いて、おじさんも席を外して冷静になった今は記憶を辿れる。思い出せるのはふわふわとしたものばかりだけど、そのほとんどが温かい何かに乗って揺られているものだった。
きっとそれはおじさんの背中だったのだろう。背負われ、この街のこの宿まで歩いてきたのだと思う。あんまり覚えてないけど。
ちょうど五日ほどかけて来たと聞いたから、実際そんなに一緒に過ごしていれば警戒も何もなくなる。……と言いたいところだけど、少女は何も覚えていないのですぐに男と打ち解けることはできそうになかった。
おじさんが見た目ほど怖い人じゃないのかもしれない、そう思えるようになっただけでひとまず許してほしいと思う。
『今俺たちがいるのは連合国に近い国の……名前は確か、ニノクニだったか。ニノクニの中でも連合国の国境に位置する街だ。少し南下すればサンノクニに入るが、セリーゼの故郷はそこになる。国の地理はわかるか?』
男の問いには頷きで返した。
商家の生まれなだけあって、ある程度の地理、土地については学んでいる。少女自身はサンノクニの中でも王国と国境を挟んだ街に住んでいた。あまり国ごとの違いを聞いていなかったので知らなかったが、こうして別の国に移ってみて理解できた。
"後方国家に近い国ほど堕落している"。
人類が異種族と生存戦争を始めて二千年。時間の流れと共にあらゆる科学技術は衰退し、代わりとばかりに魔法が台頭した。負け続けの戦争は終わりが見えず、それでも人類は国を栄えさせ、超人、仙人、戦人と自身を進化させ強靭にしてきた。
戦う者はより強く、逃げた者は争いを忘れ弱く。
闘争との最前線に近い国家ほど、人間は力強く前だけを見て生きていた。
セリーゼの両親は、定期的に後方国家の弱さを彼女に説いていた。それが商人だったからなのか、それともサンノクニで生まれたからなのか、別の国の文化、人間と接する機会があったからなのか。今ではもう誰にもわからない。
ただ、両親の言葉がおそらくは真実なのだろう、というのが今の少女の胸中の思いだ。人外との戦場から遠のけば遠のくほどに、人は人同士で争おうとする。自らの欲のためだけに争いを起こそうとする。
『当たり前の幸福を与えてやると言っておいて悪いが、俺も今は住む家が無くてな。長旅になるがナナノクニまで行って拠点を構えようと思っている。あそこは大山脈があるから危険も少ないだろう。――あぁ安心しろ。金ならある』
話を聞いた直後は何も思わなかったが、こうして振り返ってみると、そんなに不安そうな顔をしていたのかなと少々恥ずかしくなる。
家がないのはわたしも同じだし別に……と思いたいが、お金があると聞いて安心できたのも事実だ。マジックバッグの中身を少し見せてもらったが、本当にお金はたくさんあった。おじさんは見かけによらず大金持ちだった。
お金がないと生きていけない……いや、お金があっても力がなければ生きてはいけないのだ。
両親の最期を思い出してしまい、ぎゅっと拳に力を込めて布団を掴む。
「……」
動悸を堪え、おじさんがベッド横の机に"好きに飲め"と置いていった飲み物を思い出す。ホットチョコレイト、と言っていたはずだ。実はさっきから部屋に甘い香りが漂っていて気になっていた。
警戒だったり不安だったりで飲まずにいたが、色々考えている自分が馬鹿らしくなってきた。おじさんのことを信じると決めたのだから、裏切られるまでは信じ切ってしまおう。
自分への言い訳を終え、ベッドから降りて床に足を置き立ち上がる。ふらつくかとも思ったが意外にも身体は安定しており、これが進化かとちょっぴり感慨深くなる。代わりに声が出なくなったのかなと思い、気持ちが暗くなる。
鼻をくすぐる香りに意識を戻し、机の上のマグカップに手を伸ばす。両手で包み込める大きさのカップに触れると、陶器越しに温かさが伝わってきた。
揺れる液面は茶色――チョコレイト色で、湯気からは存分に甘い香りが漂っている。
火傷しないように口を付けると、思ったより熱くなくてするりと喉を通っていった。甘い。美味しい。
「……」
吐息はこぼれるのに、声だけ出ないのは変な感じだった。
ホットチョコレイトは固形のチョコレイトより甘くて、とろりと溶けていて温かく美味しかった。身体が内側からぽかぽかと温められていくような気がする。
気づいたらマグカップの中身は空になってしまっていた。もったいないことをしたかもしれない。少し後悔。
でもまあ、美味しかったからいいか。思い直し、ほう、と吐いた自分の息から甘い匂いがして一人で笑ってしまう。
おじさんへの感謝を込めながらベッドに戻り、穏やかな気持ちで話の続きを思い出す。
『セリーゼの着る服がないから俺は少し買いに出てくる。食料の買い足しもするつもりだ。……あぁ、大丈夫だ。この街はサンノクニのどの街より安全だよ。それに――チョコレイトの兵を置いていくから安心して待っていてくれ』
そんな不安そうな顔してたかなと、またもや先ほどと同じ羞恥が襲ってくる。
気持ちを誤魔化す意味も込めて部屋の入口を見ると、男の言っていた"チョコレイトの兵"が二体、扉の両脇に立っていた。
少女の半分程度の高さの人形。全身チョコレイト色で、兵士っぽく鎧と兜を身につけ槍を携えている。微動だにしないので本当に動くかどうか疑問だが……。
「……ぅ」
口から呻きが漏れる。
興味本位で手を振ってみたら小さなお辞儀が返ってきてびっくりしてしまった。
おじさんの言うことが嘘だとは思っていなかったけれど、本当に動くとそれはそれで驚いてしまう。見た目チョコレイトだし、もしかしたら食べられたりもするのかな――。
「――っ」
欲張りなことを考えていたら、コツリコツリと小さな足音が聞こえてきた。
少女の身体が緊張に固まり、布団を手繰り寄せるようにと手が動く。
時間にして数秒。チョコレイトの兵が何もしないまま扉は開かれ――。
「――戻ったぞ」
「ぁ」
「……どうかしたのか?」
慌てて手帳を取って、かきかきと返事を書く。
【なんでも、ないです】
部屋に入ってきたのはおじさんだった。
緊張が解けて、詰まっていた息が戻る。
おじさんは戻ってきて早々、机の上のマグカップを見て無言で新しいものを入れ直す。つい目で動きを追っていると、どうやってか手のひらからチョコレイトの滝が流れ落ちているように見えた。不思議な魔法だった。マグカップからは湯気が立っている。
何も言わずに椅子に座り、マジックバッグを窓際の大きな机に置く。
「セリーゼ」
【はい】
「俺たちは旅の途中だ。家はない。服はこれから渡すが、それでも衣食住最低限にすら届かない。当たり前の幸福など程遠いとしか言えないだろう」
そんなことはない、とは声にも文字にもならなかった。
この人が怖くない人だとは、今まで会ってきた人たちとは違うとわかっている。強面な見た目はともかく、変わらない表情もともかく、少なくともわたしのことを思って動いている人だとはわかっている。それでもどうしても、まだ心が怯えていた。
信じようと思って決めて、それでもなお信じ切れない自分がもどかしかった。
俯き、ペンを強く握る少女に何を思ったのか、男は小さく頷いて話を続ける。
「だからこそ、手始めに最低限の一つを君に与えようと思う」
衣服だろうか、思っていたら"服は後で渡そう"と告げられた。じゃあ何かと考えている間に、おじさんがすぐ答えを広げた。
「少し手狭な机だが君は小さいからな。十分だろう。――さあ、夕食としようか」
「――――」
言葉は出なくて、文字も書けなくて。
机の上に少女の目が釘付けになる。セリーゼの反応を見て、小さく頷いたおじさんが続ける。
「好きに食べていいんだ。金ならあると、言っただろう?」
マジックバッグから食べ物を――たくさんの料理を取り出しながら、おじさんは不器用に笑った。
笑顔に見えない口元を歪めただけの笑みは、不思議と少女にはちゃんと笑顔に見えて。初めて見るおじさんの笑みと部屋に広がる料理の香りに、自然と口元が綻ぶ。
そっと、ベッドから降りて机に備え付けられた椅子に座る。
ちらりと隣のおじさんを見て、時々手を止めながら文字を書き切る。見せるか見せないか、文字を読んで怒られるたくないから、迷って悩んで、でもお腹は減っていて。目の前にこんな良い匂いをした料理が置かれているのは本当に……本当に久しぶりのことだったから。
食べたいけれど、文字だからこそ生まれてしまう間が、相手に見せるまで物事を伝えていないという余白が、少女を躊躇わせる。
何度も迷った後で、意を決して紙をおじさんに見せる。
【食べても、よい、のでしょうか】
つっかえつっかえになってしまった文字列は少女らしく、おじさんは目を細めて数回読み直した。それから深く頷き。
「あぁ。食べていいんだ。余らせたら明日に回そう。冷める前に食べようか」
言葉を連ね、何度も"食べていい"と言ってくれるおじさんに、少女は頭を下げて無音のお礼を言った。
おずおずと、隣を窺いながら食器を手に取る。手帳とペンは机の端に置き、木製の食器を使って湯気を立てる料理の一つを口に運ぶ。
「――っ」
口の中いっぱいに広がる、香辛料と塩気と肉のうま味。
柔らかく、温かく、丁寧に複雑にと調理されたことがわかる料理の味。きっと調理自体は複雑でもなんでもないのだろう。その辺で販売されている、普通の持ち帰り用料理だ。でも、そんな普通のものでも、少女にはどうしようもないほど美味しく感じられた。
「うまいか?」
返事なんてできるはずもなくて、口をもぐもぐと動かしながら慌てて手帳を取ろうとする。"返事はいい"の言葉に横を見て、柔らかな眼差しと首肯に手を戻す。
ゆっくりと食べ進めていく料理は全部美味しくて、温かくてあたたかくて、すごくあたたかくて。本当に、本当にあたたかくて……。
「……っ、……ぅ……」
湯気で何にも見えなくなってしまうくらいに、本当にあたたかな食事だった。
少女の、声のない嗚咽が温かい部屋に小さく響いた。
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