不幸少女と幸運のチョコレイトおじさん【旧題:可哀想な女の子がおじさんのチョコレイトで救われて幸せになるお話】
坂水雨木(さかみあまき)
運命の出会い。
――――それは、悪夢のような光景だった。
赤く、紅く、朱く。視界に赤が広がっている。
夢のようで、嘘のようで、鈍った頭で考えるのは億劫で。それでも、多くの刺激が
鼻を刺す、強い鉄錆の臭いと獣臭。耳に届く、ぐちゃぐちゃくちゃくちゃとした咀嚼音。目に映る、飛び散った赤と大きな黒い影。そして何より、右足から伝わる灼熱の痛み。
現実でしかありえない痛みが、叫び出してしまいそうな痛みが、少女の身体と心に襲いかかってきていた。
「――――」
彼女が声を出さないのは身体の痛みが未だ現実的でなく、縛られ抑圧された心がそれらを受け入れられていないからであった。
本来なら声を出した瞬間に少女もその辺に散らばる赤の仲間入りを果たしていただろうが、幸運にも彼女は言葉一つ、声一つ漏らすことはなかった。できなかった、と言う方が正しいか。
しかしそんな幸運も長くは続かない。
影は肉を貪るのを止め、四足の巨体を起こし鼻を鳴らす。
それは狼のようで、狐のようで、虎のようで熊のようでもあった。
大きな身体は平均的な人の優に数倍はあり、発達した筋肉は分厚い毛皮で覆われている。四つの足は少女の胴体など簡単に踏み潰してしまえそうなほど太く、赤みを帯びた鋭い爪が地面に食い込んでいた。
尖った歯からはつい先ほどまで口にしていた赤――血が滴り、こびり付いた肉片が地に落ちる。
縦に伸びた赤い瞳孔がゆらりと動き、感じ取った匂いの元へと鋭い目を向ける。
凶悪な眼差しを向けられた少女はようやくとばかりに身を震わせ始め、状況を受け入れた肉体が悲鳴を上げる。
「っ……ぁ……」
出ない声を押し殺し、震える身を押さえ込もうとするも上手くはいかない。
ゆらゆらと近づいてくる化け物に、枯れ果てたと思っていた涙が少女の頬を伝う。
「……ぁ」
まともな言葉が少女の口から出ることはなく、意味のない音として外にこぼれる。
怯え震える獲物を甚振ろうかと、血生臭い口を開ける化け物――成り損ないは、少女の声にならない声を聞いても動きを変えることはなかった。周囲に強い生命反応はなく、愚かな獲物の足掻きほど面白いものはないと知っていたからだ。
「――――」
だからこそ、成り損ないは誤った。
「――醜い」
その男は、強い魔力を持っているわけではなかった。強大な生命力もなければ、特殊な力もない。化け物が感じ取れる限り、ただの弱い人間の男でしかなかった。
振り向き、胡乱な目つきで新しい獲物を見て気づく。どうしてかその男は、やたらと甘い匂いを発していた。あまり感じたことのない食べ物の香りは化け物の意識を少女から逸らさせ、思考に隙を作る。
「……哀れなものだ」
何を言っているのか、どうしてわたしの方を見て言っているのか。
曖昧な思考で男を見つめ、ただただ、何もできない少女は一人と一匹の動きを見守る。
何の予備動作もなく、そっと手をやるように男がごく暗い茶色の物体を前に投げた。
特段のエネルギーも感じず、匂いに気を取られていた成り損ないは鼻面にそれを浴びてしまい、ぺちゃりと広がった液体に怒りを覚え――る前に、つい、と舌で舐め取る。
甘い香りの正体だった。肉体が活性化しているのを感じる。これほど上質かつ美味な食べ物は初めてだと喜び、もっと寄越せと男に飛びかかろうとしたところで。
どぉぉん、と。
静かに音を立てて獣の巨体が地面に倒れた。
獣は知らないことだが、男が投げたものの正体はチョコレイトと言う。倒れた理由は言うまでもなく、チョコレイトに含まれた毒だ。即効性かつ異常を通り越した異様性を持った毒であり、自然界には存在しない人工複合毒であった。
「ぁ……ぇ」
状況を理解できない少女の前に、男が一人歩み寄る。巨獣の死骸など見なかったことにして――否、事実男にとっては成り損ないなど居ても居なくても変わらないものでしかなかった。
「さて……君は泣いていたな」
「……ぇ……ぅ」
まともに言葉を返せない少女に、男は一方的に語りかける。
「泣いて泣いて、言葉すらまともに発せられない憐れな子よ。俺が助けよう。憐れで可哀想な君に、これ以上ないほどの当たり前の幸福を与えよう。神はいない。救世主もいない。誰も救いになど来ない現実だけしかない世界で、俺が君を救おう。さて君は、この苦しい現実を。痛ましいほどの現実を。まだ――――生きていたいか?」
ひとしきり喋り、最後におかしな問いを投げかけてくる男の目を見て、少女は震える唇を懸命に動かして呟いた。
これが始まり。これが出会い。
一人の少女が、ただ当たり前の幸福を享受するための運命の出会いであった。
☆
走馬灯のような夢を、心に沈んだ記憶の欠片を見ていた。
大好きだった父と母。血溜まりに沈む父と母。助けを呼んでも、誰も彼も見て見ぬふりをして、国の兵士・騎士ですら目を逸らしていた。
親戚の家に送られ、疫病神を見るような視線を向けられ。それだというのに、お金だけは奪っていく。繰り返し、繰り返し、家々を転々とした。誰もが両親の死を悼むそぶり一つ見せなかった。
追い出された先にいたのは似たような境遇の孤児たち。夜毎泣く子供もいた。子供同士で助け合って、懸命に生きようと藻掻いていた。けれど、孤児院の真実は奴隷の斡旋所だった。逃げ出し、死んでいく友達、仲間。逃げろと叫ぶ年上の子供。すべてが燃えて、焼けて、灰に消えた。
ボロボロで、じっとスラム街の小さな空き家で薄い布にくるまる。
身も心も傷だらけな日々。屋根の隙間から雨滴が落ちてきていた。
街の外で摘んだ薬草は買い叩かれ、けれど弱い自分は何も言えず、些細なお金のために必死で生きていた。少しずつ少しずつ、本当に少しずつお金は集まっていく。でも、外は危険だった。魔物に襲われた。弱い魔物。弱くても、痩せ細った少女には猛獣と同じだった。
逃げて、助けられて、助けてくれたのは人売りで。
捕まって、痛くて、苦しくて、何も考えられないよう魔力拘束具を付けられて。曖昧な意識に痛みだけが残る時間が続いた。
それから、また魔物に襲われた。成り損ないと呼ばれる上級の魔物。
人類の敵手足る
他の捕まった人も、人売りも、皆死んだ。少女もまた同じように――――――。
「――人生とは不可解なものだと思わないか?俺は思う」
そう告げた男の横顔を見て、少女はようやく真っ当に動き出した頭で男が何を言っているのかと思考を巡らす。まだ、頭がぼんやりとしている。
「俺が偶然あの街道を通りがかり、偶然生き残っていた君を助けた。君がどれほど不幸な経験をしてきたのか知らないが、あれはまさに幸運としか言いようがない出来事のはずだ。君の人生上、今後訪れることのないほどの幸運だろう。――あぁそうだ。自己紹介がまだだったな。俺はオジ。おじさんとでも呼んでくれればいい」
「……」
戸惑い。
少女が抱いた感情は戸惑いだった。
「争いだらけのこの世界で、人と人外の争いに満ちた世界で、人同士の争いなど下らないと思う。しかし、それでも争うのが人だ。俺も、君も。どうしようもない争いの波に呑まれた者同士だろう。同類の俺が君を助けたのは……どうだろうな。運命なのだろうか」
ぽつぽつと喋る男に、多くの疑問が浮かんでは消えていく。
自分が何故ここにいるのか。そもそもここはどこなのか。自分はあの時死にかけ――――。
「――……ぁ」
死にかけて、足を食べられて、今足を見て。当たり前に生えている、痛みなんて欠片もない足を見て。
「……そうか。ようやく目を覚ましたか。君、自分のことがわかるか?」
「……っ」
それから、声を出そうとして。
「――ぅ」
声が、声を出せないことに気づいた。
掠れたような、ほんの少しだけ絞り出した音のようなものは出る。それなのに、言葉が形にならなくて、声が音にならなくて。トントンと自分の胸を叩いてみても、どれだけ口を開けても一切音が出てくれない。
「……声が出ないのか?」
ぱっと顔を上げ、自分を見る視線に気づく。
男の目は、じっと少女を捉えていた。
「……」
戸惑いを上塗りするように恐怖が滲み出てくる。
この人は誰なのか、どうしてわたしと一緒にいるのか、わたしに何をするつもりなのか。疑問が膨らみ、恐怖が膨らみ、無意識で身体に掛けられた布団をぎゅっと掴む。
ちらりちらりと怯えながら男を見ていると、次第に相手が何もしてこないことに考えが及ぶ。身動き一つしないし、先の言葉以上のことを言ってこない。
この人は誰――思い出した。
「――」
おずおずと小さく頷く。じっと見つめ返してもいられず、ちらちら逸らして見てと繰り返しながら返事を待つ。とくりとくりと、緊張に心臓の鼓動が速まる。
「ふむ……」
何やら顎に手を当て考え込んでいる。少女を見て思うことでもあるのだろうか。疑問と恐怖の間に、ほんの微かな期待が揺れる。
「俺が誰か、か?。俺はただのおじさんだよ。旅人でもあるが、それは本質的なものではない。君にとっても俺は――あぁいや、少し違うか。君にとって俺は、君を助けたおじさんということになるか」
無表情のまま饒舌に語る男の話を、少女は懸命に理解しようとした。
齢十五の少女は、数年前まで商家で多くを学んでいた身だ。ここ数年で色々と忘れ失いはしたが、それでも最低限小難しい話を聞くだけの知識は身につけている。
まあ言葉を理解できても話の意味はよくわからなかったが。とりあえず大事なのは、この人が少女を助けた、助けてくれたという部分だった。
「ぁ……」
"君を助けた"。
その言葉を目の前の男の口から聞いて、フラッシュバックするかのように記憶が甦る。
そうだった。
魔物に襲われて、足を食べられて。痛くて苦しくて助けてほしくて……助けてくれたのが、この人だった。あんまり覚えてないけど、この声は覚えている。
正直顔は覚えていないが……と、恐る恐るおじさんの顔を見てみる。
長いくすんだ白髪を頭の後ろでまとめ、暗褐色の目を少女に向けている。不健康そうに痩せて、顔は少し怖い。表情の変化に乏しく、見ていてやっぱり怖い。
「……」
お礼を……お礼を口にしようとして、それでもやっぱり声は出なくて。
何も言えない自分が苦しくて、それ以上におじさんに怒られるのが怖くて。
わたしを助けてくれたのがきっと本当だとしても、本当だからこそ、お礼一つ言えないわたしに怒るのも仕方ないから。もし……もし、この後ひどいことをされたとしても我慢しなくちゃ…………ひどいことしないでくれたらいいな。
ぎゅっと目をつむり、少女はおじさんからの言葉を待つ。
「――顔を上げてくれ」
そう大きな声じゃないと言うのに、不思議とよく通る声に身体が震える。
言われた通りゆっくりと顔を上げ、少しだけ滲んだ視界で男を見る。
おじさんは無表情のままだった。
「声が出せないことを恥じる必要はない。言葉が出ないからと怯えなくてもいい。君を幸福にしてやると言っただろう。ゆっくりだ。少しずつ心身を回復させて、いつか幸せだと思えればそれでいいんだ。誰もが羨むような幸せではないかもしれない。些細な、それこそ当たり前の幸せでしかないかもしれない。だが俺は、それを君に贈ろう。当たり前を得られないこの世界で、当たり前の幸せを享受して幸福に生きるんだ」
熱の籠った言葉に、熱量の薄い声。変わらない表情と、何かを求めるような瞳。
おじさんが何を考えているのか少女にはわからず、ただなんとなく、この人は本気で言っているんだとだけ感じた。
どうしてそんなことを言うのか、知りたくて気になって、でも聞けなくて。本気だとわかっても、何も知らない、何もわからない人に何かを尋ねるのは怖くて。声の出ない自分でも、許してくれるのかなと思って。
おじさんの言ったようにゆっくりと、少女は首を縦に振った。
「そうだな……。まずは色々と説明をしよう。君も知りたいだろう。ここがどこか、君がどうしてここにいるのか。君の足がどうなっているのか。――だがその前に、渡しておこうか」
席を立ち、すぐ近くの机から小さな手帳を持ってきたおじさんは少女に手渡す。
これは、と視線で問いかける前に、もう一つ追加で渡されたものがあった。
「紙とペンだ。何も意思を伝えられないのは不便だろう。急拵えで悪いが使ってくれ。文字は書けるか?」
渡された白い手帳と茶色のペンを見て、きゅっと握ってこくこく頷く。
商家生まれの少女は、読み書きもしっかりと教えられている。ここ数年は使う機会などほとんどなかったが、それでも文字は書ける。
おじさんを窺い、無言で頷くのを見てから紙にペンを立てる。
改めて触ってみて、つるりとした感触に驚く。ペン先からは自動的に濃い茶色のインクが出て、細い線が記された。
もしかしてペン自体がインクになってるのかなと思うが、触っていても手に付着することはない。ほんの少し首を傾げつつも、ちゃんと書けることを確認したので顔を上げる。
おじさんと目が合ってしまって、すぐに逸らした。
「大丈夫そうだな。なら一つ、教えてほしいことがある」
「……」
少し考えて、ゆっくりと頷く。
「ありがとう。――君、名前は?」
問われ、一瞬何を言われたのかと思った。
なまえ。ナマエ。
あぁ名前か。
納得と同時に、少しの悲しみと苦みのようなものが胸の内に広がる。
自分の名前を誰かに聞かれたのはいつぶりだろうか。
まだ両親と過ごしていた頃。名前を呼ばれ、名前を尋ねられることもあった頃。
「……」
ペンを持ち上げ、紙に押し付けて手を止める。
おじさんの名前も知らないまま、自分だけ伝えるのは変な感じがする。けど、この人がわたしのために何かをしようとしてくれていて、わたしを助けてくれたことは事実なはずだから。……わからないけど、そこは疑わないことにする。今くらいは、この人くらいは。もう一度だけ、誰かを疑わずに信じてみたい。そう思えたから。
少女はスラスラと文字を書き、震えて少しだけ滲んだそれを胸の前に持ち上げる。
【セリーゼ、です】
今の少女を表したかのような、たどたどしい文字列を眺めた男は、神妙な顔のまま小さく頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます