第17話 鍛錬

 ファロテ・ルストス神殿太陽の神殿、夏の間。


 オーデ大神官が教導書を開き、『太陽アロテの御声』と題されたページを指し示しながら感心したように息を吐いた。


「ユシリア殿下、さすがです。もう基本的なことは全て終わりました。常人ならば早くともひと月はかかるところですよ」


 ユシリアは【太陽アロテの寵児】として、大神官のように太陽アロテの精気を扱えるようになるための鍛錬をすることになった。そのためまずは太陽アロテとは何か、精気を扱うとはどういうことなのかを、神官たちの教導書などを用いて学んでいたのだ。


 開け放たれた窓から、冬の香りが届く。今は晩秋。もうすぐ冬に差しかかるというのに、神殿はとても暖かく快適だった。


「なら、ようやく実践ね?」

「ええ、いよいよです。七日の期限まであと四日ですから……」

「基本を叩き込むのに三日もかけてしまったからね。すぐにでも始めなくては」

「はい。では『冬の間』へ参りましょう」


『冬の間』はその名前にそぐわず、暖かな陽光の射し込む爽やかな建物だった。神官の卵である清女、神官や大神官たちの鍛練はここで行われる。そのため円形の練武場のような造りになっており、身体を鍛えるための武具や精神を統一するための清浄具などが一通り揃っている。


「では、まずユシリア殿下には精神統一を行っていただきます」


 そう言ってオーデが取り出したのは、ネグリジェのようなワンピース状の薄い服。『冬の間』がいくら暖かいと言えど、今は晩秋である。皇宮よりは幾らか暖かく感じるというだけだ。透けそうなほど薄い服を着て長時間動かずにいれば、いくら【太陽アロテの寵児】でも風邪を引いてしまうだろう。


「えっと……」


 躊躇いを見せるユシリアに、オーデは力強く力説する。


「寒さの中でも一点に集中することができてこそ、太陽アロテと交感できるようになるというもの。この過程は抜かすことのできない、大切なものなのですよ」

「オーデもやったことが?」


 ユシリアが問うと、オーデは首を傾げた。


「私はせずとも交感することが出来ましたが……セドレイ――第二大神官は3年間毎日、欠かさずやっていましたね」

「全くもう、あなたはやっていないんじゃない」


 もったいぶって私に教えようとしたのにもかかわらず、未経験であることをすんなり明かしたオーデのカラリとした人柄に、思わず笑みが零れる。第二大神官セドレイはユシリアを書庫に案内した好人物だ。


「殿下、笑わないでくださいっ。私は才能でこの苦行を回避したのですから、ここは褒めていただくべきところです!」


 オーデの珍しいふくれっ面を拝んでひとしきり笑い合った後、ユシリアたちは早速、精神の鍛練を始めた。


「真冬の雪景色を想像してみてください。何もない野原に厚く積もった雪……他には何もありません。あるのは真っ白なキャンバスだけです」

「……無になれ、ということ?」

「簡単に言えばそういうことですね。しかし、ただ無になれば良いというものではございません。指示されたものを素早く、そして鮮明に思い浮かべられるようにするのです。だからこそ『キャンバス』なのですよ」

「なるほど。やってみるわ」


 悪戦苦闘すること、半刻。


 ようやく『白いキャンバス』なるものを心に映し出すことができた。それを察したのか、オーデは次の指示を出した。


「では、木を描き出してみてください。青々と葉の茂った大木を」


 10年前に見上げた、ローダン公爵邸の庭園にそびえ立つタリスの大木を思い浮かべてみる。蒼碧のそらを突くように、真っ直ぐ伸びた太い幹。大きな葉を枝々からびっしりと生やした、タリスの老木。


「……出来たようですね。次に……ユスタリアのフェレスチア=ラーザ宮殿――真宮しんきゅうを思い浮かべましょうか」


 ユシリアの6歳までの記憶は全て真宮――フェレスチア=ラーザ宮殿と共にある。爽やかな風が駆け抜ける、あの幸せな時間。懐かしい両親との温かな想い出がある宮殿だ。そして専属侍女キンジーと肩を寄せ合った宮殿。郷愁、追慕の強い情動に心が酷く揺さぶられそうになる。


 きっとこれこそが修練の一つなのだろう。必死で平常心を保ち、荘厳でありながら質素なフェレスチア=ラーザ宮殿の外観を「真っ白なキャンバス」に思い描いた。


「素晴らしいです。それでは……ネデヴィー宮殿秋の宮殿を見つめてください」



 ――ネデヴィー宮殿秋の宮殿

 ドク、ドク、と激しく鼓動が胸を打つ。


 初夏の割に生温く湿っぽい空気。

『いたぞ! 皇后と皇女だ!』、荒々しい殺気の籠った男の野太い声。

 わたしの鼓動、背後で燃え盛るネデヴィー宮殿秋の宮殿とは対照的な川面の静謐――。



「はっはあっ……うっ、はあっはあはぁ……」


 呼吸いきが苦しい。

 何か鋭利なものが、胸の内から脳天を突き刺しているみたいだ。


「皇女殿下、今日はこれで終わりにしましょう……これはいささか性急すぎましたね」


 オーデは震える背を力強くさすってくれた。


「大丈夫です。私は貴女様の味方ですから」


 背中に感じる彼女の手の温もりが、心に沁みた。オーデは羽織っていたガウンをユシリアに着せると、いつの間にかユシリアの頬を伝っていた露を拭った。


 泣いていたようだ。


「……ユシリア殿下。泣きたい時に思い切り泣かなければ、後で心を殺すことになります。心配要りません、大丈夫ですから。一人で抱え込まないで……」


 ユシリアはオーデの腕の中で、全身で泣いた。嗚咽が止まらなかった。


 泣くのは止めにしよう、これで最後だ、毅くならねば。そう固く決意する度、決意を反故にしてしまう度、自分の不甲斐なさに涙が滲む。結局どこまで行っても自分は泣き虫のままなのかもしれない。


 ――……私は随分、人に恵まれていると最近よく思う。


 たった一人の専属侍女キンジー、初めての友達ライゼル・エンズ、幼少期を共に過ごしたシルドレンゼ・ローダン、母を憶えてくれているイジェルナ・シーザ公爵夫人……。


 ――皆、好い人たち。だからこそ、巻き込みたくはない。


 オーデから昔話を聞かされる内、ユシリアの心に浮かんだのはその一事であった。ユシリアはゆっくりと顔を上げた。


「オーデ……」

心的外傷トラウマは簡単には無くなりません。気合や根性で覆い隠せるものでもないです。貴女様の家族は殺されたのですから、尚更」

「…………」


 口を開いたと同時に、オーデが落ち着いた声を上げた。ユシリアの心の揺らぎを見透かしていたようだ。さすがは千年に一人の逸材である。


「ユシリア殿下ったら、うちのソユラと同じ顔してるんですもの。可笑しいったらありません」

「ソユラ……第三大神官と? どんな顔よ」

「しみったれた顔です。この世の終わりかっていうくらい」


 オーデは肩を竦めて唇を尖らせた。やれやれ、とでも言うかのように。


 ――しみったれた顔。自覚はないわけではないけれど、はっきり言われるとなんて腹の立つ。


「オーデって本当に千年に一人の逸材だと思うわ……肝の太さが特に」

「そうですか? そんなに褒められると照れちゃいますね」

「ああ、うん。そうね」


 第一大神官オーデは神秘的な女性だと勝手に想像していたけれど、実際は茶目っ気たっぷりの気さくなひとだったようだ。初めの穏やかなオーデも同じくオーデ・ルストスなのだろうが、こちらの方が遥かに親しみやすい。そういえば動悸が治まっている。涙も乾いているようだ。


「ありがとうね、オー……」

「そういえば殿下はどうして書庫にいらしたんです?」


 ――あくまでペースはオーデのものなのね……。


 苦笑を漏らしつつ、数日前の夜を思い返した。


「三公爵の一人、ダウテシアン公爵が耳打ちしてきたのよ。公爵夫人からの言伝だと言って」

「なるほど。あの子の差し金でしたか」

「あの子というのは、キルヴィナ公爵夫人のこと?」

「ええ。あの子は聡い子ですからね」


 ダウテシアン公爵家は生粋の軍人一家だからなのか、暗い噂が後を絶たない。


 シャオン皇家には皇宮騎士団があるが、これに次ぐ軍事力を誇るダウテシアン家は人々の無意識下で恐れられてきた。使用人が新しく雇われると古株が不審死を遂げるだとか、娘が生まれるとその娘は生後数年以内に醜い顔になるだとか、様々な噂がダウテシアン公爵家を取り巻き、彼らへの畏怖を裏付けた。


 また彼らは親しみやすい人柄を持ち合わせておらず、社交界にもほとんど顔を出さない。そのため謎めいた闇に包まれた公爵家、という印象が広まってしまったのだ。


 ただ、十数年前、バルトザック・ダウテシアン公爵がファロテ・ルストス神殿太陽の神殿第二神官キルヴィナ・ルストスを娶ったために、その印象が好転しつつある。神官の外婚は歴史的にも珍しいと、当時話題になったものだ。


「書庫に行くように、というのはやっぱりオーデと私を引き合わせるためだったのかしら」

「それもそうですけれど、もう一つ、キルヴィナなりの意図があったのだと思います」

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