第15話 大神官オーデ

 しんと静まり返った書庫は、古本特有の匂いに満ちていた。少しかび臭い、埃っぽい匂い。湿り気すらも感じる、本が詰め込まれた書庫独特の匂いだ。薄暗いうえにあまりにも広々としているため、全貌が掴みにくい。奥へ進もうと試みても、目の前に背の高い何かがあった。書庫の入口付近から本棚があるのかとユシリアが目を凝らすと、それは堆く積み上げられた本だった。


 ――〈【フェリオ・ド・ネロス】の全て〉……――――〈宮廷礼法の歴史〉――――…………〈【分解者リシス】の大業〉――……。


 様々な分野の専門書が無造作に置かれている。入り組んだ本の山や林立する木製の本棚の間を縫うように、奥へ奥へと進んでいく。


 ――私たちが襲撃された理由は、この無数の本の中に答えがあるというの? それを見つけろと? それこそ天文学的な時間が必要になるじゃない……。


 ユシリアは手始めに、足がかりとなりそうな本を探すことにした。ユスタリア皇国の歴史、シャオン皇家の歴史を遡る本を。


 しかし、そう簡単には事は運ばなかった。


 ――無い、ここにもない。なぜ!?


 どこにもなかった。随分と奥まで進んだはずであるにもかかわらず、書庫の果てにすら行き着かないうえ、セドレイ大神官に提示された制限時間も残り1時間を切ろうとしている。


 焦りばかりが増していった、その時だった。


 ――カタ…カタカタッ……ドン……。


 さらに書庫の奥の方角から、小さな物音がした。


 ――誰かいるの?


 まだ鳴り続ける小さな音を頼りに進んで行くと、ユシリアは異様に本が密集した場所に辿り着いた。さらに進もうとしたユシリアの足に、何かが引っかかる。書庫には似つかわしくないが、万が一の侵入者用に罠でも仕掛けてあるのだろうか。引っかかったそれから抜け出さなければ、ユシリアが先へ進むことは許されないようだった。


 どうにか取り外そうと闇雲にもがいてみると、突然、目の前の本の塊が左右に動き出した。


 ――ガタガタ……ガタ…ガッチャン。


 美しい、花々の咲き乱れる箱庭が、ユシリアの目の前に広がった。


「あら」


 不意に艶やかな女性の声がした。ユシリアはきょろきょろと中を見回すと、箱庭のベンチで寛いでいる女性を見つけた。読書を楽しんでいたようだ。女性はユシリアを暫く見つめると、本を閉じてゆっくりと立ち上がった。含みのある笑みを浮かべている。


「ユシリア皇女殿下でございますね? 初めまして。第一大神官、オーデ・ルストスと申します」


 美しい紺碧の髪を揺らした傾国の美女が、上品な所作で頭を垂れた。


 ――このひとがあのオーデ第一大神官。


「第一大神官」という肩書を持つ者は、この紺碧の佳人、オーデ・ルストスただ一人である。


フェリオ・ド・ネロスこの世界】には四つの神殿があるが、ファロテ・ルストス神殿太陽の神殿以外の三つには大神官がいない。「大神官」というのは精気の根源である「太陽アロテ」「オリム」「テザン」「大地ラフェユ」のいずれかと交感できる者のみに与えられる称号であり、残念ながらこの世に生存する大神官はファロテ・ルストス神殿太陽の神殿の3名のみなのだ。


 ユシリアは話には聞いていたあのオーデ第一大神官を前にして、一瞬、呼吸が止まってしまったかと錯覚した。少しも揺らがない存在感。紺碧のナイトドレス――いかにも室内着に身を包んでいるオーデ大神官は、神官服どころか金装飾すら纏っていないというのに、周囲を圧倒する力がある。


「……オーデ、大神官……」

太陽アロテの寵児……」


 ユシリアと同時、オーデが囁くように言った。ユシリアが呟いた自分の名前など聞こえていないようだ。美しい顔に恍惚とした表情を浮かべ、ただユシリアを一心に見つめている。


「やはり。貴女様は太陽アロテ精気エネルギーに満ちておられますね」

「……私が?」

「ええ、素敵です」


 オーデは笑みを深め、悪戯っ子のようにユシリアを手招きした。ユシリアがおずおずと歩み寄ると、今度はベンチの座面をぽんぽんと叩いて、オーデ自身も元々横たわっていたそのベンチに腰を下ろした。隣に座れということなのだろうか。


「失礼、します」


 ユシリアが遠慮がちにオーデの隣に腰かけると、オーデは嬉しそうに声を弾ませた。黄金の瞳をうっとりと潤ませている。


「これほど近くでお目にかかれるとは!」

「……その……?」

「貴女様は【太陽アロテの寵児】なのですよ」

太陽アロテの……? それはどういう……?」


 オーデは意味深に微笑むと、「昔々のお話に、遡らねばなりませんね」と語り始めた。それはユシリアが初めて知る、【フェリオ・ド・ネロスこの世界】ひいてはユスタリア皇国の起源の物語。


「古来、【フェリオ・ド・ネロスこの地】には混沌の時代がございました」


 農業に従事する者、芸術を嗜む者、まつりごとを好む者――そして、戦に出る者。様々な分野に秀でた者たちが競い合っていた頃はまだ良かった。しかし必然ではあるが、競争が過激な戦いへと発展し、【フェリオ・ド・ネロス】の均衡は崩れ去った。


 何百年もの時を経て、この混沌の地にある三人の賢者が現れる。彼らは人々を率いまとめ上げ、三つの国を建てた。この三つの国の一つこそがユスタリア皇国である。【フェリオ・ド・ネロス】最初の変革、初転期の到来だった。


 この三人の賢者の一人が、まさにユスタリア皇国の始祖【リズライド】なのだ。


「ただし【リズライド】という名は、皇名おうな、つまり彼の統皇としての名です。貴女様のお父君、ラズハン・シャオン様がご即位時に『ランドルス』と名乗られたのと同じことです。そして本来、賢者としての彼の名は【リシス】でした」

「【リシス】……あっ」



 ―――〈【分解者リシス】の大業〉――……



 入口付近で山積みにされていた、一冊の本のタイトルが蘇る。


「【分解者リシス】……?」


 あら、とオーデが驚きの声を上げる。


「そこまでご存知なら、話は早いですね。そうなのです。ユスタリアの始祖【リシス】は【分解者】でした。【分解者】とは何か、ご家族から教わったことは?」

「無いわ……【分解者】というのも、さっき初めて知ったのだもの」

「左様でございましたか」


 オーデは「それなら私がご説明しますね」と心なしか嬉しそうに言った。その姿はまるで幼い妹に絵本の読み聞かせをする姉のようだな、とユシリアは思った。


「【分解者】というのは、言うなれば『占い師』のようなものです。人の心を読み解き、解放し、救い出す。【分解者】が賢者たる所以ゆえんですね。逗留した村々の者たちから、大変感謝される存在であったと言われています。まあ、人の過去や未来を言い当てるだけの職業ではないという点では『占い師』と一線を画していますけれど」


 ユシリアは頷いた。


「賢者というのは皆、【分解者】なの?」

「いいえ。他二人の賢者は、それぞれ【集約者】と【創造者】でした」


 そう言って、オーデはユシリアをじっと見つめた。黄金の瞳を真っ向から向けられたユシリアは少し戸惑った様子を見せる。


「オーデ大神官?」

「ユシリア殿下、その髪色の由縁はご存じですか?」


 ユシリア殿下――ユシリアを当然のように名前で呼ぶ女性は、今までキンジーだけだった。何だかこそばゆい。ユシリアは少し頬を緩めて首を横に振った。


「いいえ、知らないわ」


 オーデはこの返答が予想外だったようだ。訊ねておいて拍子抜けしたような表情かおをしている。


「そうで、ございましたか……」

「……? ええ」


 知らないと不味いのだろうか。ユシリアは不安を誤魔化すように瞬いた。


「貴女様の一見銀色にも見える髪……光の当たり方によって七色の光を散らす髪色は【ラーザカラー】というものです。始祖【リシス】もその髪色、【ラーザカラー】であったと言われております」

「【ラーザカラー】……この髪色、そんな名前が付いていたのね」

「ええ。そしてその【ラーザカラー】こそが【太陽アロテの寵児】である最大の証――」


 オーデの顔からは穏やかな笑みも恍惚とした潤みも消え去った。残ったのは陰ばかりである。


「つまり貴女様のその髪色は、新たな火種を生みかねないということです」

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