第10話 傷付けられた者たち(2)

 半年前、10年振りに帰宮したユシリアには、すぐに新しい専属侍女があてがわれた。ルゼハン統皇が直々に選抜し、指名した侍女ということだった。


「は、初めまして。本日よりユシリア皇女殿下の専属侍女を拝命致しました。き、キンジーと申します」


 ユシリアの部屋のドアの前で恥ずかしそうにはにかむ19歳の侍女は、いかにも初々しかった。ユシリアは微動だにせず、表情すら動かさなかったが、ユシリアとともにキンジーを出迎えたライゼルは首を傾げた。


「君、どこの貴族家出身なんだ?」


 訊ねてから、ライゼルは酷く後悔した。キンジーが寂しそうな笑みを浮かべたからだ。


「……姓はございません。私は……平民出身ですので」

「あ……そうか……すまない、配慮が足りなかった」


 ライゼルは咄嗟に謝ったものの、本来ならば皇女の専属侍女になることが出来るのは貴族の令嬢だけだ。そもそも身元が定かではない平民が皇宮の侍女として登用されること自体が異例中の異例。ましてや両親を喪った皇女に付けられた、たった一人の専属侍女が平民出身というこの一大事、皇国史を遡っても前例を見つけることは至難の業だろう。


「いいえ、統皇陛下が私のような者を取り立ててくださったことが、奇跡みたいなものですから」


 自分の置かれた立場を良く理解していたキンジーは小さく肩を竦め、小さく笑った。ユシリアはキンジーのこの仕草に、強い既視感を持った。


「……ねぇ……キンジー。あなたは最近、誰か……近くにいた人を亡くしたの?」


 キンジーの一連の仕草は紛れもなく、母親を亡くしたばかりのユシリアが、彼女に心配と同情を向けた村の人々に対してしたものと同じだった。哀しみと孤独を身体の奥に押し込んで蓋をした人間特有の笑い方だ。


 だからキンジーもまた、世の不条理に心を穿うがたれた人なのではないか、ユシリアはそう思った。


「あ……実は私、姪を二人、育てていたんです。3人で暮らしていて。ですが数ヶ月前、人攫いにかどわかされてしまいまして……」

「そう。他にご家族は?」

「……おりません。皆、随分前に亡くなりましたので」

「そう。私と同じね……これから、宜しくね。キンジー」


 そう言ってユシリアはキンジーに手を差し出した。これがユシリアと専属侍女・キンジーの出会いだった。



 ――――――……



 帰宮したばかりのユシリアは表情の変化がないだとか、感情の表出をしないだとかいうようなことはなかった。ただ明るく、その場の空気を読んで行動する、普通の女の子だった。


 たった一つ、あることを除いて。


 皇女ユシリアの帰還は、きたる宴の招待状が各国要人に送られるまで秘すと、ルゼハン統皇が決めた。そのためユシリアは幼少期に両親と過ごしたフェレスチア=ラーザ宮殿、通称「真宮しんきゅう」内での生活を強いられた。シャオン皇族と統皇の信頼する使用人以外の立ち入りが許されない「真宮しんきゅう」は、確かに皇女を行方不明のままにするには最適の場所だった。


 しかし亡き両親との温かな想い出が詰まった「真宮」での生活は、ユシリアの孤独を深めるのに時間を要さなかった。もちろん、ルゼハン統皇は元々、世間の好奇の眼から憔悴しきった姪を護るために選んだ採ったこの方法がユシリアを追い詰めてしまう可能性を真っ先に考えていた。


 だからこそ、ライゼルを話し相手として任じ、キンジーを専属侍女に登用したのだろう。


 けれどユシリアが二人に心を許すことはなかった。当然といえば当然だ。理不尽な環境下で最愛の母を亡くした直後にお友達作りが出来るような人間の方がおかしい。


 ライゼルもキンジーもユシリアが心を開くまで待つつもりでいた。少なくとも、ユシリアを待つ覚悟は出来ていた。


 ところが、ユシリアの帰宮からそう日を置いていない頃、あの話が二人の耳に入った。


 ――夜な夜な、ユシリア皇女が宮殿内を徘徊している……。


 当然、すぐにルゼハン統皇にも伝えられた。伝えられたものの、どうすれば良いのか、何がユシリアにとって「最善」なのかは誰にも分からなかった。昼間は舞踏や礼式など皇族として身に付けなければならないあれこれを学ぶユシリアの姿に違和感は感じられなかったから、尚更。


 昼間のユシリアに真夜中の出来事を伝えるのも、どこか違う。むしろ彼女を苦しめるのではないか。膠着状態は数週間に渡った。その間も、ユシリアは毎夜寝台から起き上がり、想い出の「真宮」を巡った。


 そうして1ヶ月が過ぎた頃、キンジーはユシリアの真夜中の散歩にとことん付き合うことを決めた。ユシリアが眠りにつくまで、ついてから、起き上がるまで。キンジーはユシリアの寝台のそばに座り込み、ユシリアの手を握った。


 ユシリアの孤独を少しでも分かち合えるように、苦しみをともに背負うことが出来るように願った。


 ユシリアは真夜中の散歩の間、様々なところを回った。父皇の書斎、衣装部屋、中庭……。ルゼハン統皇の命でユシリアが入ろうとした場所は、たとえ施錠されていたとしても、必ず入れるようにした。止めることなど決してしなかった。ユシリアの気が済むまで想い出を巡った。


 毎夜、毎夜、毎夜、毎夜。


 キンジーは辛抱強くユシリアに寄り添った。数ヶ月が経った頃、キンジーの眼下には青黒いクマが出来ていた。日中、ユシリアに理由わけを訊ねられても、刺繍の練習に手こずって夜なべしたのだと笑った。


 ライゼルは心配したが、キンジーは不思議と苦には感じていなかった。自分も家族を世の不条理に奪われたから、似た境遇のユシリアに強く共感していたせいかもしれない。


 ――ユシリア様が私に手を差し出してくださった時から、私の全てはあなた様のものですから。


 いつもの夜に変化があったのは、キンジーが真夜中の散歩に付き添い始めてから2ヶ月が過ぎたある夜のことだった。


 これまでは、寝付いたはずのユシリアがゆらりと起き上がるまで、キンジーはユシリアの手を握り、ユシリアの寝顔を見守っているはずだった。けれどその夜は、ユシリアの入眠直後から、眠気に打ち勝てなかったキンジーがユシリアの寝台に頭だけ載せて、眠りこけてしまっていた。


 ユシリアはいつものようにゆっくりと起き上がると、窓からカーテン越しに射し込む月明かりに眼を細めた。そして腰回りに温かく柔らかな感触を覚え、視線を移した。


 キンジーが眠っていた。


 ユシリアはキンジーの寝顔を見つめた。するとすぐに、キンジーの頬が濡れていることに気が付いた。唇がわずかに動いていることにも。


 ユシリアは月明かりで淡く七色の光を散らす銀髪を肩にかけ、キンジーの口許に耳を寄せた。衣擦れの音が微かに静寂と混ざりあう。


「……あ……おか……ま……いで」


 ユシリアはもっとよく聞き取りたくて、さらにキンジーに近付いた。聞こえてきた小さな声は、未だ意識がぼんやりとしているユシリアでさえはっきりと分かるほど震えていた。


「……おかあ、さま……おに……さま……」


 キンジーの緩く閉ざされた瞼の間から熱い雫がユシリアの寝台のシーツに零れ落ちた。


「いか……ないで……」


 ユシリアはエメラルドグリーンの瞳を揺らした。ゆっくりと体を起こし、寝台から滑り降りると、足音を忍ばせて部屋を出た。


 暫くして再び部屋に戻ってきたユシリアは、ちょうど皇宮に泊まり込んでいたライゼルを伴っていた。ユシリアに頼られたのはこれが初めてだったライゼルは、緊張した面持ちでユシリアの部屋に入ると、寝台で寝息を立てるキンジーの姿を見つけて目を丸くした。


 ユシリアを振り返り、一つ頷くと、ライゼルは眠っているキンジーを抱え上げ、寝台の上に横たえた。寝台の上にキンジーの華奢な身体を降ろした時、彼女の頭を支えた掌に熱い水滴が落ちたのに気が付いた。その出処を悟ったライゼルは少し俯いて唇を噛んだ。


 用を終えたライゼルに小さく「ありがとう」と言って彼を見送ったユシリアは寝台まで歩いていくと、そっとキンジーの隣に横たわった。


 規則正しいリズムで上下するキンジーの小さな肩、頬に残った涙の痕をぼんやりと見つめると、ユシリアはキンジーの身体をすっぽりと包み込むように抱き締めた。何か見えざる敵から護るように。そうして夜は更けていった。


 ユシリアが大輪の花のような笑顔を見せるようになったのは、この夜が明けてからのことだった。

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