鎧冑

第11話 黒い人影

 大広間を後にしたユシリアとキンジーはリフィディー宮殿春の宮殿の奥、ユシリアの部屋に向かった。ふらふらと覚束ない足取りのユシリアを支えながら、キンジーはゆっくりと歩いていく。泣き疲れてしまったのか、ユシリアは虚ろな眼をしていた。


 ようやく辿り着いたユシリアの部屋は当然ながら明かりが消されていて、家具の輪郭を浮かび上がらせているのは白い絹地のカーテン越しに射し込む青白い月光だけだった。月明かりによってぼんやりと仄白く照らされた寝台にそっとユシリアを座らせると、キンジーはしゃがみ込み、ユシリアの手を包み込んだ。


「――ユシリア様」


 ぼんやりと潤ったユシリアの虚ろな瞳を見つめて、キンジーは眉間に皺を寄せた。鼻の奥がつんと痛むのを感じたからだ。今すぐ抱き締めて差し上げたい。けれど、亡きルゼハン統皇からユシリアをよう仰せつかっている。それを全うすることこそが、自分の使命務め


「ユシリア様、時間があまりありません。今はエンズ公子や三公爵の皆様方が統皇の代役を務めてくださっておりますが、今宵の宴には各国の皇公おうこうがおいでです。皇女であるユシリア様が大広間にいらっしゃらない時間が長引けば長引くほど、ユスタリア皇国は信用を失ってしまいかねません」

「だ、だって叔父様が、亡くなられたのよ……? 近くに凶器は見当たらなかったけれど、間違いなく何者かが意図的にったのよ。そしてその悪意を持った何者かが、まだあの大広間にいるかもしれない」

「ええ、ですが――――」


「キンジー。もしその者を見つけてしまったら、私、殺してしまうかもしれないわ」


 気付けばユシリアの両手は小刻みに震えていた。虚ろだったエメラルドグリーンの瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。


「お母様は病で亡くなられたから、どれだけ……どれだけ辛くても、少し安心していたの……! もう私たちに向けられる悪意は、消え失せたんだと! でも違った! まだ何も、何も終わってなどいなかった!」


 ――ストン。


 ユシリアは咽びながら、腑に落ちた。母がなぜ皇宮に背を向け、身を隠すことを選んだのか。「何も分からない状況」だったからなのではない。ネデヴィー宮殿秋の宮殿の襲撃――あの日の惨劇にはまだ続きがあったのだ。


 次々と脳裏を過ぎる。10年前の燃え盛るネデヴィー宮殿秋の宮殿、粗末な寝台に横たわる母の最期の姿、そして胸から血を流して倒れたまま微動だにしない叔父。


「――う、うわああぁぁぁぁあ……っ!」


 部屋中にユシリアの身を切るような声が響いた。全身で慟哭どうこくする姿はまるで百獣の王、獅子のようだ。


「…………っ」


 キンジーは悔いた。何を馬鹿なことを考えていたのだろう。自分は統皇の命を受けた者である以前に、ユシリアの専属侍女なのだ。自分は何度でもこの少女を抱き締める。心の傷を癒すだとか、皇女としての正しさだとか。そんなもの、わざわざ自分が言わねばならないことではない。この皇女が誰よりも良く理解している。


 それでも、これだけは。これだけは、自分の口で伝えなくては。


「ユシリア様。あなたのことが大好きで、何にも代えがたく大切に想うキンジーは、ここにおりますからね……ずっと、あなたのそばにおりますから」


 キンジーはユシリアを抱き締めて言った。一音一音、心を込めて。その心がユシリアの心にもしっかりと伝わったのは言うまでもない。


「……っ……ありがとう……っ、キンジー……」


 ユシリアは大広間で泣いたときよりも一層ぐちゃぐちゃに濡れそぼった顔で、同じくぐちゃぐちゃの顔で泣いている専属侍女に笑みを浮かべてみせた。それは先刻廊下を疾走していた時に見せた眩しすぎる笑顔とはほど遠かったけれど、キンジーをさらに泣かせるには十分だった。


「……ふふ、ゾンビみたいになってるわよ、キンジー」

「もう、どなたの、せいだと……!」

「あんまり泣くと、眼が開かなくなるわよ?」

「殿下にだけは言われたくありません! ひっく」


 自分のしゃくりあげた音に思わず頬を赤くしたキンジーは照れ隠しのようにはにかんだ。ちょうど半年前にユシリアと初めて顔を合わせた時みたく照れ笑いをするキンジーが、おどけてわざとらしく肩を竦めたユシリアが、お互い可笑しくなって、顔を見合わせた途端ぷっと吹き出した。


「ふふっ、あはは! もう、キンジーったら!」

「もう……揶揄わないでください……」


 束の間の平穏。けれど心地よい。


 ――永遠に、この時間が続けばいいのに……。


 ふと、何の気なしに、ユシリアは月明かりの射し込む窓を見やった。刹那、黒い人影が窓の外を横切った。


「…………っ!」


 ユシリアは弾かれたように立ち上がると、窓に駆け寄った。カーテンを勢いよく開けると――――。


 ――――そうだった。この窓、め殺し!


 唇を強く噛み、ユシリアは反対側のドアの方へ走った。何が起きたのか、わけが分からないキンジーは目を丸くした。


「ユシリア様!?」

「ごめん、キンジー。すぐ戻るから、そこにいて!」


 そう叫ぶと、ユシリアは廊下に走り出た。先刻とは全く正反対の表情で、ユシリアは走った。まだユシリアの目許に残っていた涙の粒が散って、ユシリアの通り過ぎた道を煌めく。


 ――逃がすもんですか。せっかく見つけた手がかり……命に代えても見つけ出す。



 ――――――……



 ユシリアは階段を勢いよく駆け下り、大広間の真上に位置する部屋に飛び込んだ。


 ――あの人影は大広間の方に向かっていた……けれど今、大広間は入退場口が封鎖されているはず。ならば向かう先は大広間の内部がよく見える、ここのバルコニー……!


 ユシリアは部屋に入るなり一直線にバルコニーへと走った。もし相手が見られていたことに気付いていたら、もう去ってしまっているかもしれない。そもそも見当違いだったら。


 ユシリアは祈りを込めて、バルコニーへと続く重い扉を押し開けた。そしてバルコニーへ出たユシリアは、眼を見張ることになる。

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