第9話 傷付けられた者たち

「ルゼハン統皇……っ!」


 横たわったまま動かないルゼハン統皇の傍らに、顔を真っ青にしたライゼル・エンズが駆け寄った。


 あれほど明るく賑やかだったホールが、今は怯懦きょうだ、驚愕、恐怖で剣呑とした空気に覆われている。【ゼヌア】の姿は今のところ目撃されていないものの、その来訪を知らせる煙印だけは、未だ大広間の天井を漂っていた。


「……叔父……さま?」


 倒れ込んでいるルゼハン統皇とうおうを見つめながら、ユシリアは呆然と立ち尽くしていた。


 ――え……? 先刻さっき先刻さっきまで統皇の玉座で、私に……笑いかけてくださって……。


「お、叔父様? どうして……どうして? ねぇ、叔父様……」


 ユシリアは放心したように、ふらふらと覚束ない足取りで、倒れたまま微動だにしないルゼハン統皇の元に歩いていった。


「……リーヤ……っ」


 シルドレンゼの声すら、最早ユシリアの耳には届いていなかった。ルゼハン統皇の脈を取っていたライゼルの吐き出した絶望の言葉だけが、ユシリアを貫いた。


「……ルゼハン統皇が身罷みまかられた……」


 ――叔父様が……亡くなった……?


 招待客たちの中には、ルゼハン統皇の亡骸を見て気絶する者もあった。


「いやぁぁああ!」

「そんな!」

「冗談だろう……?」

「そっ、そこの侍女、医者を呼べ!」


 大広間はまさに阿鼻叫喚の極み。けれどユシリアは頭を棍棒で思いきり殴られたような不協和音の渦の中にいた。大広間の雑音は遥か遠くにあった。


 ――嘘よ。そんなはずがないでしょう……叔父様が、あの叔父様が、私を一人遺して、逝くはずがない……。


 ルゼハン統皇の傍らに立ったユシリアは、崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。ゆっくりとルゼハン統皇の顔を両手で包み込み、まだ遺体に残っている温もりを感じて、ユシリアは初めて涙を零した。


「叔父様……私を置いていかないで……独りにしないで……お願いですから……」


 ユシリアの震える肩を、悔し気に顔を歪めたライゼルが抱え込むように抱いた。招待客たちはもう騒いでなどいなかった。ただ、哀しみに身を震わせる美しき皇女を見つめる以外に、彼らが出来ることはなかった。


「ユシリア……」


 ライゼルもまた、あまりにも苦しそうなユシリアにかける言葉が見つけられなかった。たった今、最後の肉親を喪ったユシリアの孤独は計り知れず、ライゼルは思わずユシリアから身を離してしまった。


「嫌です……私は嫌です……私はまだ、あなたに伝えていない。叔父様に『ありがとう』と、『迎えに来てくださってありがとう』と……伝えられていない……!」


 ユシリアは涙でぐちゃぐちゃになった顔を、零れ落ちた涙で濡れそぼったはなだ色のドレスに埋めた。


 ――嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……!



「――皇女殿下……っ!!」


 大広間にユシリアの専属侍女・キンジーの声が響き渡ったのは、その時だった。ユシリアの部屋で休んでいたキンジーが、大広間に駆け込んできたのだ。


「……きん、じ……キンジー……?」

「皇女殿下!」


 ユシリアが顔を上げ、声のした方を見やると、唇をきつく噛んだキンジーが全力でユシリアの元へ走ってきていた。


「殿下!」


 キンジーはユシリアの前で立ち止まると、飛び込むようにユシリアを抱き締めた。泣きじゃくったユシリアの顔を周囲から隠すように、かきいだいた。


「……ユシリア様、全て、伺いました。会場係の侍女が叩き起こしてくれたのです」

「キン、ジー……私、どうしよう……」


 ユシリアはキンジーの早い鼓動と荒い呼吸を感じ、胸が詰まった。報せを受けて飛び起きたまま、駆けつけてくれたのだろう。よく見るとキンジーは薄い寝巻姿のままだった。ユシリアは一層涙が止まらなかった。


 キンジーはユシリアの震える華奢な肩を抱きながら、ルゼハン統皇の崩御の瞬間にもユシリアのそばに寄り添えなかったことを悔やんだ。何より、ユシリアがこれほどまでに感情を表出する姿は珍しかった。


 ――ユシリア様がこれほど泣いているのは、初めて見た……。


「ユシリア様。あなた様の苦しみは、痛いほど分かります。本当は泣き叫びたいでしょう。こんな残酷な世界など、滅びてしまえばいいと」

「…………っ」

「ですがユシリア様。あなたはユスタリア皇国の皇女であり、ここは公の場です。今ここで感情を露わになさるべきではありません」


 キンジーはユシリアから離れると、厳しい表情でライゼルを見た。一介の侍女とは思えないほどの気迫がある。


「エンズ公子様。お父君がた――三公爵がたとともに、皇女殿下の代役として、この場をお願い出来ますでしょうか」

「…………っ、分かった。任せろ」


 キンジーは頷くと、ユシリアを支えながら立ち上がらせ、入退場口――扉へと向かった。招待客らは静かに立ち去る二人を、息を呑んで見守った。


 ライゼルはゆっくりと立ち上がり、深呼吸をすると、天井を見上げて声を張り上げた。大広間にいる全ての人間が聞き逃すことのないように。


「……ユスタリア皇国の偉大なる『英雄』、ルゼハン統皇がお隠れになった! 皆様! これより、この場にいらっしゃる皆様には、退場を禁じさせていただきます―――――……」


 ライゼルは、もう【ゼヌア】の禍々しい煙印が消え去った大広間の天井を睨みつけながら、この場を去った二人の姿を思い浮かべた。


 ――あの侍女……キンジーには、本当に敵わないなぁ……。


 その後、エンズ公爵、シーザ公爵ら三公爵と合流したライゼルは慌ただしく動き回っていた。そしてふと、半年前のことを思った。ユシリアがルゼハン統皇に連れられて秘密裏に帰宮した翌日、あの日のことだ。



 ――――――……



 あの日、ユスタリア皇国の三公爵と、三公爵の一人・エンズ公爵の後継であるライゼル、三公爵の一つ・シーザ公爵家のイジェルナ公爵夫人、その5名がアロデリア宮殿統皇宮に呼び集められた。ルゼハン統皇による緊急招集がかかったのだ。


「統皇陛下、これは何事です?」


 イジェルナ・シーザ公爵夫人が口火を切ると、他の公爵も重々しく頷いた。誰もがこの緊急招集の真意を測りかねていた。そしてライゼルは、なぜ未だ公爵である自分までもが招集されたのかが分からず、ただただ緊張していた。


「昨日、私の姪……ユシリアが帰ってきた」


 ルゼハン統皇はゆっくりとそう言った。まさかの朗報に、浮足立った公爵たちは珍しく歓喜した。


「ユシリア……皇女殿下が!?」

「行方不明だったのでは……」

「皇女殿下がお帰りになったならば、お母君のロイヤル皇后陛下も……」


「――いや、ロイヤル皇后陛下は、半年以上前に、亡くなったそうだ」


 ルゼハン統皇は悔し気に歯を食いしばった。その場の誰もが、苦々しい思いが胸に広がるのを感じて俯いた。


「皇女は当然ながら傷心している……見ているこちらが苦しくなるほどだ」


 そしてルゼハン統皇はさらに衝撃的なことを告げた。ライゼルの碧眼を鋭く見据えて。


「そこで、ライゼル・エンズ公子。君には皇女ユシリアの話し相手になってもらう。エンズ公爵も、良いね?」

「え、ええ……」


 ライゼルの父・エンズ公爵でさえこのことは知らされていなかったようで、珍しく狼狽えていた。ライゼルは一層緊張が高まるのを感じて武者震いがした。


 そしてその日の夕方、ライゼルはユシリアと顔を合わせた。


 今もよく覚えている。虚ろなエメラルドグリーンの瞳、色を失った美しい顔とは対照的に、燦々と煌めくユシリアの銀髪は、今でもライゼルの脳裏に焼き付いている。

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