第8話 また君に会えて

 6年前のローダン公爵邸は、温かな賑わいに満ちていた。例えば、広々とした庭園では。


「ねえ、シルゼン! こっちこっち!」


 シルドレンゼの愛称を呼び、笑顔で手を振るリーヤ――もとい、ユシリアが庭園に咲く花々の間を駆け抜けていく。楽しくて仕方がないという、満面の笑みを浮かべているユシリアはとても幸せそうだった。


 ユシリアの呼びかけに応え、渋々駆けていくシルドレンゼも、やっぱりどこか嬉しそうで、その口許は緩んでいる。


 そしてじゃれ合う二人の様子を見守るブラド・ローダンと――「ロン」ことユシリアの母・ロイヤル。特にロイヤルの穏やかな表情は、今までの彼女の苦労を知る者が見れば、涙しただろう。


「リーヤ、はしゃぎすぎだよ……!」

「でも、シルゼンは絶対についてきてくれるでしょう?」


 ……そうだ。僕は君を、どうしたって追いかけてしまう。けれどユシリア。勝手にいなくなられたら、俺はどうすればいい?



 ――――――……



「ユシリア、どうして君たちは……6年前、何も言わず、公爵邸を去ったんだ?」


 それは、何よりもシルドレンゼが知りたいことだった。あれほど穏やかで、幸せな時間をどうしてわざわざ捨てたのか。


 ユシリアはシルドレンゼの動きに合わせ、くるりと回りながら答えた。


「私が決めたことじゃないわ。お母様が元々決めていらしたのよ」


 ――元々、決めていた……?


「どうして……」

「お母様のお姉様――私にとっては伯母様にあたる――アルティーラ・ハイス様。知っているでしょう」


 アルティーラ・ハイス。端的に言えば、彼女はシルドレンゼの伯父、ブラド・ローダン公爵の「内縁の妻」だった。


「だった」というのは、アルティーラ・ハイスがすでに故人であるためだ。意図的な他殺――遅効性の毒による計画的な殺害だった。毒を盛った実行犯の侍女はすぐに見つかり、ブラド・ローダン公爵直々に尋問を受けたが、アルティーラ・ハイスの死の真相は未だ不透明なままだ。


 10年前、ロイヤル・シャオンユシリアの母親が「貸しを返せ」と言ったのは、姉・アルティーラの死を指していたのだろう。


 アルティーラ・ハイスとブラド公爵の仲の睦まじさは有名で、アルティーラがローダン公爵邸で亡くなったのは二人の婚姻直前だったことから、二人の結婚に反対していた人々による殺害だったと考えられている。恐らくロイヤルもそう考えていた内の一人だ。


 だからこそ、姉を守れなかったブラド公爵に、姉の死を「貸し」だと言い、公爵邸で匿ってもらうことで「借り」を作ることを嫌がったのではないか――――。


 ユシリアはそう推測した。


「そうか……」

「……そういえば、ブラド公爵は今日、どうしていらしていないの?」

「ああ、それは……君に合わせる顔がないと思ったからじゃないかな」

「…………?」


 シルドレンゼはアルティーラがローダン公爵邸で暮らしていた期間のほとんどを寮制のアカデミーで過ごしていたため、当時のローダン公爵家の事情はよく知らない。けれど最愛の人・アルティーラを喪った伯父の悲しみがどれだけ深いかは、よく知っている。


「伯父上はさ、アルティーラ嬢を妻にしなかったんじゃない。出来なかったんだ」


 軽やかなステップを踏みながら、シルドレンゼは笑った。


「君の母君――ロイヤル皇后陛下とアルティーラ嬢の生家・ハイス伯爵家はユスタリア皇国の中でも、お世辞にも位が高い貴族家とは言えなかったから、わざわざ中流貴族の、しかも自国ではなく隣国の令嬢を娶る意味を、公爵家の人々は見出せなかった」

「でも伯母様……アルティーラ様は、公爵邸で暮らしていらしたでしょう。公爵夫人としての役割も果たしてらっしゃったと聞いているけれど」

「うん。伯父上は周囲に何とかアルティーラ嬢を認めさせたかったんだ。だから無理を言って一緒に暮らしたし、妻としての仕事も任せた。そしてあんなことになった……」

「……ああ、そういう……確かに、お母様が大切な姉を亡くして、ブラド公爵を責めずにいられるかと問われると……」


 ワルツ一曲目の曲調がどんどん早くなる。ユシリアはこの半年でほとんどの踊りを覚えたが、経験の差は大きい。何とかリズムを外さないようステップを踏みながら、シルドレンゼを見つめた。


「ブラド公爵は伯母様を本当に愛してらした。あなたがそう思っているのなら、きっとそうなのね。今度は、公爵にもご挨拶したいわ」

「……リーヤの顔を見たら、伯父上はたじたじになるさ。きっと君が望めば腹踊りだってサーカスの綱渡りだってなさるんじゃないか?」


 シルドレンゼの唐突な冗談に、思わずユシリアは吹き出した。


「あはっ、ったら! 私そんなこと言わないわよ」


 同時に、シルドレンゼのさり気ない気遣いに胸が熱くなった。シルドレンゼはユシリアが10年前の父皇の死のことや、半年前の母后の死のことを嫌でも思い返してしまっていることに気付いていたのだ。亡くなった肉親たちの想いに触れるというのは、自分が思っている以上に負担になるもの。ユシリアは自分の心が疲れていることに初めて気が付いた。


「……ありがとね。シルゼン」

「君が俺をまた昔のように呼んでくれた。それだけで十分だ」

「あ……」



 ――『ねえ、シルゼン! こっちこっち!』



「……懐かしいわね」

「うん」


 ワルツ一曲目が終わった。再び互いに礼をする。今度こそ練習通りの礼が出来たユシリアは、どことなく自慢げにしている。そんなユシリアを微笑ましく見つめながら、シルドレンゼは茶色の瞳を揺らした。


 ――また君に会えてよかった。


 シルドレンゼは心の底からそう思った。


「なあ、リーヤ」


 シルドレンゼにはもう一つ、ユシリアに訊ねたいことがあった。


「何? シルゼン」

「あのさ、6年前の君はどうして――――」



 その時だった。



「――う、うわぁぁぁああああああっ!!」


 男の金切り声が大広間をつんざいた。


「【】だ!」


 大広間の中央付近で踊っていた貴族の男が天井を指差して叫んだ。招待客たちはもちろん、ユシリアもシルドレンゼも天井を見上げた。


 何もない。


 ――何だ、幻覚か……? そもそも【】だと? なぜここで、あの情報ギルドが出てくる? ……何だろう、嫌な予感がする。


 シルドレンゼは嫌な胸騒ぎがするのを感じた。そしてそれはユシリアも同じだった。何よりユシリアと【ゼヌア】という組織には深い因縁がある。


 突然、バルコニーから突風が吹き込み、明かりが消えかかった。途端、大広間は宵闇に溶け込む。招待客たちは混乱を極めた。


「いやぁぁああ! 誰かーっ!」

「なんだ!? 【ゼヌア】は怨みでもあるのか!?」

「勘弁してくれ……!」


 ――ザッ、ビチャン……バンッ。


 耳障りな音がした後、明かりが元に戻った。そして気付けば、頭上に【ゼヌア】の煙印が浮かんでいる。禍々しい、大木を模した煙印だ。


 一人の招待客が驚きの声、いや、絶望の声を上げた。


「――――統皇陛下……っ!?」


 直後に絶叫が轟いた。


「きゃぁぁぁああああっ! へ、陛下!!」

「いやぁぁああああ! 嫌だ嫌だ嫌だ!」

「そんな……っ!」



 大広間の中央に、ルゼハン統皇が倒れていた。

 胸から血を流して。

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