第5話 煌々

 シルドレンゼ・ローダンが会場入りした頃、ユシリアとライゼルは巨大な黄金の扉の前に立っていた。シルドレンゼが会場に入るために通った扉は招待客用のものなので、今宵の宴の主人公であるユシリアはリフィディー宮殿春の宮殿の内部から入場する別の扉を使う。


 そしてユシリアのエスコートを担うライゼルもまた、ユシリアとともに目の前にそびえ立つ雅やかな扉から入場するのだ。


 ライゼルは大貴族・エンズ公爵家の跡継ぎなだけあって、こういった宴に参加した経験は多くある。しかし10年もの間、社交界はおろか生家にも寄りつけなかったユシリアに、大規模な宴に参加した経験などあるはずもなかった。つまり、今日はユシリアの社交界デビューの日、デビュタントなのだ。


 ――ど、どうしよう……緊張しすぎて足が震える……。


 ライゼルが表情の硬いユシリアを気遣うように微笑みかけたが、ユシリアはぎこちなく笑い返すだけで精いっぱい。無理もない。この10年間、社交界とは無縁の場所で育ったまだ16歳の少女なのだ。


「心配ないよ、ユシリア。礼法はこの数か月で完璧に身につけたんだし、何より今の君は侍女たちのなんだから」


 そういって、ライゼルはユシリアの返答を待った。しかし、人生初の社交界、デビュタントに臨もうという時に友達の冗談を笑えるほど、ユシリアは強心臓ではなかった。


「…………何か言った? ライゼル」

「…………水飲む? ユシリア」

「さっき結構飲んだから……これ以上は……」

「…………」


 ――不味い。想像以上に不味い。一旦ここは深呼吸を挟んで……。


「――ユシリア皇女殿下、ライゼル・エンズ公子のご入場でございます!!」


 突然、扉の向こう側から使用人の声がした。声に応えるように会場のざわめきが大きくなったのが分かる。そして当然のように目の前の扉が少しずつ開いていった。


「なっ……! こちらはまだ許可を出していないだろう! ユシリア、一旦落ち着こう。とりあえず――」

「……緊張しない緊張しない緊張しない緊張しない緊張しない……」

「…………」


 ユシリアは目の前の開きゆく扉にも気付いていないようだった。俯いて何やらぶつぶつと呟いている。


 アガリきっているユシリアを見て、ライゼルはある種の覚悟を決めた。


 ――ユシリアには僕が付いているんだ。僕も、ユシリアのをともに背負う。


「行こう、ユシリア」

「……緊張しない緊張しな……へあっ!?」


 もはや扉は開ききっていた。ユシリアが視線を上げると、そこには見たことのない煌びやかな景色が広がっている。いつの間にか目の前に広がっていた宴会場の景色に、つい身を縮めてしまう。


 各国の要人たちが、入場口に立ったユシリアを一斉に見上げていた。当然だ、ここ数日【フェリオ・ド・ネロス】の王侯貴族の専らの話題はユシリアだったのだから。


 ――落ち着かない……。


 ユシリアが再び視線を落としそうになった時、あの日の言葉がユシリアの心に浮かんだ。


『いい? どうしても心が揺らいだ時は、背筋を伸ばして顎を引く。名君の心得よ。きっと、あなたが真っ直ぐ歩き続けるためのしるべになる』


 それは母が最期の日に娘へと伝えた言葉だった。


 ――そうだ、私は今、下を向いていた。私は真っ直ぐ歩かなければならない。毅くあらねばならない。


 ユシリアはもう、緊張に震えてなどいなかった。


「うん。行こう、ライゼル」


 ――ユシリアの纏う空気が変わった……。


 ユシリアの一見銀髪にも見える不思議な髪は、宴会場の朝日よりも眩しい照明によってきらきらと七色の光を撒き散らしていた。


 毅然とした姿で招待客らを見据えたユシリアは、とても美しい。


「……ああ」


 ライゼルはそっと、ユシリアに手を差し出した。大輪の花が咲いたかのような笑みを浮かべ、ユシリアはその手を取る。


 初めて見る宴の輝きは、ユシリアを圧倒した。


 ――ああ、これが……!


 眩い光が交差する、宴の始まりだ。



 ――――――……



 宴会場に降り立ったユシリアは、招待客たちの強い好奇の眼に晒された。


 それもそのはず。


 光の反射によって七色に輝く銀色の髪。青みがかったエメラルドグリーンの瞳に、雪のように白い肌、桃色の頬、形の整った眉と唇。


 そして、柘榴のような鮮やかな赤と純金が織りなす刺繍が映えた淡いはなだ色のドレスを纏い、金染めの月桂冠と銀染めのカスミソウを髪に飾っている。


 今年で16歳になるユシリアは、文句のつけようがない美しさだった。誰もが目を離せなくなるのも無理はない。


「まあ、ユシリア皇女よ。なんてお美しい」

「皇后陛下を亡くされてからまだ1年しか経っていないというのに、明るく振る舞われるなんて、さすがはシャオン皇族だな」

「本当に。ロイヤル皇后が亡くなられたのは残念でした……」


 単純に好奇心を露わにする貴族もいれば、


「ライゼル公子がパートナーか、妥当だな」


 と値踏みするように見てくる者もいる。


 しかし、ユシリアはすでに好奇の眼など眼中になかった。


 ――すごい……着飾った王侯貴族たちがこれほど美しいだなんて! とても眩しい――。


 ユシリアは会場の煌めきに目を細める。本当に眩しい。


 ユシリアがリフィディー宮殿春の宮殿のこの大広間宴会場に足を踏み入れたのは、もちろん今回が初めてではなかった。両親と皇宮の使用人たちと、秋が終わる度、ここに来た。


 けれど、どこか違う。幼い頃に走り回った、この大広間の大きさと、今、目の前に広がる大広間の大きさは、全く別物に感じられた。


 ユシリアは高揚を抑えられなかった。


「ライゼル、まずは叔父様――ルゼハン統皇陛下へのご挨拶よ。行きましょ!」

「ふっ、ああ」


 ライゼルは先ほどまで緊張に震えていたユシリアの打って変わった様子が可笑しかった。ユシリアは喉を震わせて笑うライゼルに頬を膨らませる。


「もう! ライゼルったら!」



 ――――――……



 ライゼルとともにホールを横切り、ユシリアは皇族の席に向かった。


「……統皇とうおう陛下にご挨拶申し上げます。本日は私のためにこのような催しを開いてくださり、厚く感謝申し上げます」


 血が繋がっているとはいえ、ルゼハン統皇はユスタリアの長だ。会場中から注目されている間――公の場では正式なやり方で挨拶をする。


 半年で叩き込んだ、ユシリアの「淑女の挨拶」を叔父・ルゼハンは優しく見つめていた。


「綺麗だ、ユシリア。顔つきこそ違うが、雰囲気は義姉ねえさんそっくりだ。兄さんや義姉ねえさんが見たら泣いて喜んだだろうに」


 時々、ルゼハン統皇がユシリアの姿に母を重ねているように見えることがある。ユシリアの父・ラズハンとルゼハン統皇はとおほども年が離れた兄弟だったから、ユシリアの母親ロイヤル皇后義姉あねになると、兄であるラズハンのことよりもロイヤル皇后を慕っていたらしい。


 ユシリアは元々、この叔父のことが好きではなかった。むしろ、憎んでいた。


 10年前、ネデヴィー宮殿秋の宮殿で遭った襲撃により亡くなったユシリアの父・ランドルス統皇もとい、ラズハン・シャオンが本来なら被り続けていたはずの「統皇の冠」を、運良く他国に留学中だったルゼハンが被ることになった時から、ずっと憎かった。


 ユスタリアの統皇にはなれるのに、自分たち家族のことは助けてくれなかった!


 ユシリアは身元の知れない襲撃者たちへの恨みも相まって、叔父・ルゼハンへの憎悪を深めていた。


 けれど、今は知っている。叔父、ルゼハン・シャオンがどれだけ、ユシリアの両親の死に咽び泣いたのかを。


 ユシリアは見たのだ。母・ロイヤルの最期を看取ったあの村に、お忍び姿の叔父がやって来たあの日、叔父はもっと早く迎えに行けば良かった、義姉さんも家に帰らせてやりたかったと、泣いたのを。


 ユスタリア皇国の統皇ともあろう人が、辺鄙な村の地べたに膝をつき、悔しげにその拳を土にめり込ませたのだ。


 ユシリアは初めて、想像していた「ルゼハン統皇」と本当の「ルゼハン統皇」が違うと解った。だから今は、叔父もユシリアにとってかけがえのない大切な人だ。


「……確かに、お母様は喜んでくださるでしょうけど、私はとうお――にこの姿を見せられるだけで、幸せです」

「……そうか」


 ルゼハン統皇が後でこっそり涙ぐんだのは、ここだけの話である。

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