第3話 「大丈夫」
ユシリアはキンジーと目線を合わせて言った。
「じゃあキンジー、あなたはここで休んで……」
「私、もう大丈夫です!」
キンジーは主が何を言おうとしているかを悟り、勢いよく立ち上がった。ソファの上にいたときは、ユシリアによって陰になっていたため見えなかったキンジーの顔が、シャンデリアの光に照らされたことでよく見えた。依然、顔色が悪い。
「私! もう働けますので! 大丈夫です!」
乱れた髪を撫でつけながら、キンジーは独り言のようにぶつぶつと何かを言っている。
「……大丈夫、もう大丈夫。皇女殿下のお召し物を取り替えて、
「キンジー……?」
「
「――休め」
ふらついたキンジーを支えたのはライゼルだった。厳しい口調でキンジーに言う。
「もう休みなさい。僕の侍女も貸すから、君はユシリアの寝台で寝ているといい」
「そ、そんな! 皇女殿下の寝台に、私のような一介の侍女が……私はまだ……!」
「キンジー」
唇をきつく噛んだユシリアは悔し気に俯いていた。自分の大切な専属侍女が彼女自身よりも自分を優先しようとしてくれることに、どうしようもなく胸を締めつけられた。
「私の部屋に行きなさい、キンジー」
「ですが……!」
「あなたの体調を悪化させてしまったのは私よ。これであなたが叔父様の御前で倒れたりしたら、怒られるのは私なんだから! いやよ、叔父様ったら怒ると悪魔みたいにおっかないんだもの」
「そうだな。ユシリアがあまりにお転婆だから、
キンジーは茫然とユシリアを見つめると、不意に俯き、くぐもった声を絞り出した。
「ありがとう、ございます……」
「感謝することなど一つもない。悪いのは全てユシリア。詫びなきゃならないのもユシリア。だろう?」
「そうよ、私はキンジーに慰謝料を払っただけ。あなたは何も言わず受け取ればいいの! ……でも、ライゼルに言われると何だか腹が立つわね」
キンジーはライゼルの侍女に付き添われ、ユシリアの部屋へと向かった。終始恐縮しきっていたキンジーだったが、主の安堵した表情を見て、もう何も言えなくなってしまったのだ。
キンジーが辞した後は、ライゼルとユシリア、そしてキンジーと入れ替わるように入室したルゼハン
「宴まで時間がない。ユシリア、もう行った方がいい」
「ええ。色々とありがとうね、ライゼル」
「ああ」
ユシリアは迎えの侍女とともにドアの向こうへ向かった。ちょうどユシリアが部屋の外に出たとき、ライゼルが問うた。
「君が全速力でここまで走ってきたのは、僕に会いたかったから、ではないんだろう?」
ユシリアはゆっくりと振り向き、おどけて言った。
「……どうしてよ。私は本当に――」
「本当は今日、あの君の専属侍女はずっと体調を崩していたんじゃないか?
「…………」
「ユシリア、君もまた、あの専属侍女のことを大切にしているね。だからさっき、追い打ちをかけて、隠し切れないほど体調を悪化させた。休ませてやりたかったんだよな」
ユシリアは小さく笑った。
「私がそんな深く考えて動く人間に見えたの? 買い被りすぎよ」
「……ユシリア」
ライゼルは何か言いたそうにしたが、ユシリアはにっこりと微笑むと、もう振り返らずに去っていった。
「――君と君の専属侍女は、十分すぎるほど
ライゼルは誰に聞かせるともなく、そう呟くと、しばらくユシリアの去った方を見つめていた。
***
ユシリアは衣装室で侍女たちに慌ただしく化粧を施されながら、ぼんやりと考え事をしていた。
『
キンジーが連呼していた「大丈夫」という言葉。ユシリアの記憶にこびりついた声と同じ響きだった。
――お母様も、よく仰っていた。「大丈夫」だと、私を諭し、安心させるために。そしてご自分に言い聞かせるように。
「……私も
「…………? 皇女殿下、何か仰いましたか?」
ユシリアの髪を結っていた侍女の一人が、不思議そうな顔をした。思わず声に出してしまっていたことに、ユシリアはそこで気付いた。
「何でもないわ。あなたたちの手際の良さに見惚れているだけよ」
「……殿下……っ!」
侍女たちが涙目になり、心の内でユシリアの成長を喜んでいたのは別のお話。そしてこの侍女たちが今後ユシリアの密かな、けれど強力な
「お仕度が終わりました!」
ユシリアの結った髪に最後の髪飾りを乗せた侍女が、うっとりとした表情で言った。
「ありがとう。お疲れさま」
侍女たちはすっかりユシリアの虜になっていた。
少なくともユスタリア皇国の中では最高峰の才女である彼女たちだったが、その優秀さに慣れてしまっていたルゼハン
だが、侍女たちは今、この上なく満足していた。
自分たちが粉を振り、着付け、
「また宴の際にはお呼びつけください!」
「殿下が最高の皇女の装いをなさるために、死力を尽くして!」
「私たちがお手伝いさせていただきますから!!」
先ほどは元気よく廊下を疾走し、
「あ、ありがとう……?」
ユシリアは圧倒されつつも、侍女たちの真っ直ぐな瞳を羨ましく思った。無残な現実ではなく、普通の日常の中で生きている者だけが持つことを許される、濁りのない瞳だ。
この侍女たちがどういった事情で皇宮に勤めることになり、どういう背景を持った女性たちなのか、ユシリアは知らない。もしかすると10年前の荒れ果てた皇国で人身売買の被害に遭った子も、中にはいるのかもしれない。
それでも、普通に働いて、同僚と普通に日々を過ごしていく、普通の暮らしが出来るようになった人が確かにいる。誰のお陰かとか、何が転機だったかとか、そんなことはどうでもいい。
叔父がユスタリア皇国を持ち堪えさせたように、自分もこの皇国の普通を護っていこう。そのために、
大切な人たちを護り抜くためにも、必ず。
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