第2話 皇女の帰還

 時は遡り、きたる秋。


 ユスタリア皇国の皇民たちは、とある吉報に胸を躍らせていた。今や街中がこの話題で持ち切りだ。特にシャオン皇家のお膝元、皇宮群を擁する、ユスタリア皇国の皇都・ラードルバームでは。


「……なあなあ、あの話ってほんとなのかな!」

「あの方がお戻りになったっちゅうやつか?」

「10年前に行方不明になられた時は、もう駄目かと思ったが……」

「何でも、皇族方の越冬の宮殿、リフィディー宮殿春の宮殿で大規模な宴を開くんだと。リンザルド皇国やらシアテ皇国やらの王侯貴族さま方も、お呼ばれしてるそうだぜ?」

「じゃあ、ほんとなのか!」

「皇女殿下がご無事だったなら、この国も安泰だな!」

「ちょっと、あんたらしっかりしてよ。その宴、今晩開かれるのよ?」


 10年前、ユスタリア皇国の北西部に立つネデヴィー宮殿秋の宮殿で、避暑のためにそこに滞在していたユスタリア皇国シャオン皇家の統皇とうおう一家が、謎の傭兵集団による襲撃を受けた。


 その日を境に、ユスタリア皇国は混乱を極めることとなる。侯爵以下の貴族らは皇都・ラードルバームの邸宅から領土の本邸へと逃げ帰り、商人は隣国へ渡り、ラードルバームの治安は悪化。強盗、身売り、一家心中、はたまた富豪の相次ぐ破産などは茶飯事。かつての大国ユスタリア皇国が奈落へ崩れ落ちる音は【フェリオ・ド・ネロス世界中】に響き渡った。


 暗黒の日々を強く生き抜いてきた皇民らは、新たな若き統皇とうおうルゼハンのもと、ある一筋の光に縋っていた。


 ロイヤル皇后と、その娘ユシリア皇女。


 10年前のネデヴィー宮殿秋の宮殿襲撃事件で命を落とした、ランドルス前統皇とうおうの忘れ形見の生存を祈り続けていたのだ。


 彼女たちさえ、あの母娘さえ生きていれば!

 ユスタリア皇国の未来にも光が射すと、信じてやまなかったのだ。


 だからこそ、数ヶ月前に囁かれ始めた「ユシリア皇女帰還」の噂は皇民たちの心を照らした。彼らに希望を見せた。


 そんなユスタリア皇国民らが今か今かと待ち構えているのは、言うまでもなく、今晩リフィディー宮殿春の宮殿にて開かれる、「ユシリア皇女の無事の帰還を祝う宴」である。


 皇民たちは宴会場には入れないにもかかわらず、リフィディー宮殿春の宮殿の周辺はお祭り騒ぎだった。普段は人気のない街がかつてないほどの賑わいを見せる理由はただ一つ、生き残った皇女ユシリア・シャオンを歓迎するためだ。



 ***



 数刻後に大掛かりな宴が開かれるリフィディー宮殿春の宮殿の廊下を、満面の笑みで一直線に駆け抜ける少女がいた。豪奢なドレスの裾をたくし上げて、きらきらと七色の光を撒き散らす不思議な髪を靡かせている。一見銀髪にも見えるその美しい髪色は、【フェリオ・ド・ネロスこの世界】のどこを探しても見つからないだろう。


「……皇女殿下!! お待ちください! 皇女殿下!」


 少女の遥か後ろから、半ば叫ぶように制止の声を上げて追いかける侍女は、今にも泣きだしそうに顔を歪めている。侍女の顔は酷く青ざめ、具合が悪いことは一目瞭然だ。


リフィディーこの宮殿は本当に広いわね!」

「で、殿下! せっかくお召し替えになったのに!」

「ライゼルはどこかしら!」

「はっ、はあっ……走るのはおめくださいーっ!!」


 生き生きとその美しい顔を煌めかせているこの少女の名は、ユシリア・シャオン。10年振りに母国に帰還した、ユスタリア皇国唯一の皇女の名前である。


 皇后だった母親は1年前に亡くなり、半年前に、叔父のルゼハン統皇とうおうが、辺境の村に隠れ住んでいたユシリアを迎えに来た。シャオン皇家最後の正統な皇位継承者でありながら、これまで実に10年もの間、本来いるべき場所皇宮にいられなかったのだ。


 そして今日、ユシリアは皇女として人生初の公務に臨む。


 ユシリアは真っ直ぐに廊下を駆け抜けたかと思うと、とあるドアの前で突然立ち止まり、ノックもせずにそのドアを勢いよく押し開けた。


「――ユシリア!? どうしたんだ、そんなに息を切らして」


 ドアの向こうで袖口のボタンを留めていた青年が驚いた表情を浮かべ、息も絶え絶えのユシリアの姿を呆然と見つめていた。整った顔立ちの好青年だ。


「へへ……ライゼルがもう来てるって聞いたから、会いに来たの」

「それにしたって……侍女の努力が台無しじゃないか」


 ユシリアの乱れた髪を見やって苦笑しつつ、ようやく追いついてきた侍女に青年は水を差し出した。青年の名はライゼル・エンズ。


 ライゼルはユスタリア皇国の三公爵家の一つ、エンズ公爵家の後継者であり、ユスタリア皇国一の花婿候補である。そして、ユシリアがユスタリア皇国に戻ってから、初めて出来た友達でもある。


 色素の薄い青い眼に、プラチナブロンドのサラサラな髪。いわゆる金髪碧眼の美青年である。


 ユシリアはライゼルに笑い返しながら、まだ呼吸の荒い専属侍女・キンジーの背をさすった。ライゼルから受け取った水を飲み干したキンジーは、まだ話せそうにないほど苦しげだった。


「はあっ、はっ、はあっ……!」

「キンジーは体力がないわねえ。顔がゾンビみたいよ」

「だ、どなたの……せいだと……っ」


 わざとらしく溜め息を吐きながら肩をすくめたユシリアを軽く睨みつけたキンジーだったが、普段体験しないような激しい運動を急にする羽目になったものだから、胃がひっくり返りそうだった。キンジーはあまりの気持ちの悪さに思わず両手で口を覆い、とうとうその場にくずおれてしまった。


「すみ、ません……」

「キンジー!?」

「ああもう!」


 ライゼルは素早くキンジーを担ぎ上げ、彼女を手近なソファに横たえながら叫んだ。


「ユシリア、後で統皇とうおう陛下に言いつけるからな。侍女を虐めてその健康を著しく損なったって!」

「へ……そんなあぁぁああ!」



 ――――――……



 毛布にくるまれ、ソファに座るキンジーのそばに、しゃがみ込んだユシリアが寄り添い、申し訳なさそうにキンジーの手を握っている。ライゼルはそんな二人の様子を少し離れた壁にもたれかかり、見守っていた。今宵の宴はまだ始まっていないというのに、少しくたびれているように見える。


「キンジー、ごめんね? 私が調子に乗ったから……」

「良いんです。殿下をお止め出来なかった私の、自業自得ですから」


 暫くソファに横たわって休んでいたキンジーはようやく呼吸が整い始め、先ほどの自らが犯した失態を恥じて顔を赤らめていた。ユシリアは専属侍女キンジーが休んでいる間、ライゼルにきつく叱られたこともあり、すっかり塩らしい。


「ほんとにごめん、キンジー」


 そう、ユシリアが上目遣いに謝ると、ライゼルが肩を竦めて言った。


「全くだよ。ほんっと、ユシリアは頭より先に体が動くタイプだな」

「ライゼルうるさい!」


 ユシリアは頬を膨らませてライゼルを見上げた。半ば不貞腐れたような表情かおだ。よほど説教がこたえたらしい。


 ライゼルはそんな年相応のユシリアの姿を見るのが好きだった。ユシリアが持つ壮絶な過去をかねてより聞かされていたからこそ、ユシリアの無邪気な様子が嬉しいのだ。ユシリアよりも三つ歳が上だから、兄のような気持ちも含んでいるのかもしれない。


 ライゼルはくしゃりと顔を綻ばせて笑った。


「ユシリア、せっかく綺麗にしたのがもったいないだろう? 宴が始まるまで、まだ猶予はあるんだ。直してくるといい」


 ユシリアははっとしたように自分の荒れ果てたドレスを見下ろして、顔を赤らめた。


「……うん」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る