皇女、神帝になるver2
がてら
序幕
第1話 始まり
6歳になったばかりのあの日、私は全てを失った。最低最悪、初夏の夜のことだ。今思えばあの夜の出来事が全ての始まりであり、予兆だった。
「……ユシリア」
真っ暗な部屋の中に、お母さまの声が響く。
「大丈夫。あなたにはお母さまがついているもの。お父さまもきっと、大丈夫」
お母さまの微かに震えた小さな声は、部屋の外の異様な静けさを際立てるようによく響いた。
避暑のために夏の間のみ使用する
息を詰めているからか、初夏の割に生温く湿っぽい空気が部屋を埋め尽くしている。薄い絹生地のネグリジェが素肌に吸い付いて、自分が汗ばんでいるのが嫌でも分かった。
なぜこんなことになったのだろう。一体、誰がわたしたちの平和を壊そうとしているのだろう。この国は、お父さまの愛する、わたしたちの皇国は、取り戻せるのだろうか。
わたしがこの国の皇女として出来ることは、もうないのだろうか。
「わたし、部屋の外の様子を見てきます。お母さまはここに…………っ!?」
まだ幼いわたしのために強がるお母さまの不安を少しでも取り払うため、外の様子を窺おうとしたその時、轟音とともに部屋のドアが一瞬にして崩れ去った。
驚く間もなく突然、何者かに腕を引かれ、砂埃の舞って前が見えない中、わたしたちは部屋の外に出た。
――しゅうげきしゃだ……! どうしよう、捕まってしまった? お父さまのご無事も、まだ確かめられていないのに!
「やめっ……はなして! お母さまーっ!」
先ほどまでの静けさとは打って変わって、外は傭兵らのものと思われる雄叫びや破壊音で騒々しかった。
『いたぞ! 皇后と皇女だ!』
砂埃が酷く、姿は見えなかったが、荒々しい殺意の
――ああ、終わりだ。
ぎゅっと目を瞑って、数秒。何も痛みが襲ってこない。ただ、わたしの腕を掴んでいた掌の温かさだけが離れたような気がする。恐る恐る目を開けると、足元に大柄な男が倒れ込んでいた。
驚いて声も出なかったが、目の前に立つ、黒ローブに黒ズボンという出で立ちの何者かが、腰に提げた鞘らしきものに鈍い光を放つ刃を差し込んでいるのが見えて、この黒ずくめがわたしを守ってくれたのだと悟った。
味方なのかな……?
黒ずくめはわたしの方を振り向き、また前を向くと、わたしの腕を掴んで再び走り出した。初夏の割に風が強い。今にも飛ばされそうになりながらも、何とか踏ん張る。後ろを振り返ると、すぐ後ろからお母さまがついてきていた。
「お母さま!」
「大丈夫。彼が安全なところまで案内してくれるそうよ」
どうやら、わたしが先ほどの轟音に動揺していた一瞬の内に、黒ずくめ、もとい彼とお母さまの間で話がついていたようだ。
宮殿の敷地を出て、暫く走っていると、気持ちが落ち着いてきたためか、周りが見えてきた。
わたしの腕を引いて前を走る彼は、わたしより少し大きな少年だと思われた。
深くフードを被っていたせいで顔はよく見えなかったが、言葉すら交わしていない彼にわたしは不思議な親しみを覚えていた。
「はあっ、はっ、はあっ……」
走り続けること数十分、まだ6歳のわたしの体ではそれ以上走れそうになかった。
「大丈夫」
振り返ると、後ろを走るお母さまがわたしを気遣うように優しく微笑む。けれど普段これほど走り続けることなどないお母さまは、わたし以上にお辛そうだった。お母さまをこれ以上心配させられやしない。わたしは覚悟を新たに、鉛のように重い脚に鞭打って必死で走り続けた。
ほどなくして、わたしは初めて彼の声を聞いた。
彼によると、あと少しで隣国・リンザルド皇国との国境を流れる川の支流付近に到着するという。そこで用意された小舟に乗って渡ってしまえば、追っ手の心配はいらないらしい。
いくら親しみを覚えようとも、誰かも分からない相手にこれほど助力してもらえることが、わたしには不気味に感じられて仕方なかった。ここまで無事に生き延びることができたのは、間違いなく彼のお陰だ。それは間違いないのだが。
「どうして、ここまでしてくれるのですか?」
「…………」
「お父さまはご無事なの?」
「…………」
無言を貫く彼にもどかしくなり、更に口を開こうとしたとき、近くで爆発音がした。
「……追いつかれる。もう行ったほうがいい」
ようやく到着した川では、初夏の生
彼に促されるまま、わたしたちは小舟に乗り込む。
「ありがとう。この恩はいつか必ずお返しするわ」
お母さまは肩で息をしながらも、彼に穏やかな笑みを向けた。彼は無言で小さく頭を下げると、わたしを一瞥し、宵闇に溶け込むように立ち去ってしまった。
***
お母様が病床に臥せったまま、起き上がることが出来なくなってしまってから、もう半年が経とうとしている。お母様の病は村の薬師も旅の医者も診たことのない、未知の病だった。必然的に治療法も分からず、私には日ごと衰弱していくお母様を見守ることしかできない。
私は15歳。あの日から10年の月日が経った。私の6歳の誕生日だったあの初夏の日、離宮・
数年前から私たち母娘は皇宮には戻らず、ひっそりとこの辺境の村で暮らしている。もちろん生まれ育ったユスタリア皇国は懐かしいし、思い出深い皇宮に戻れるものならば今すぐ飛んで帰りたい。けれどお母様は何も分からない状況で下手に動くのは得策とはいえないと言った。確かにそうだと思ったから、私は今の生活を受け入れることにしている。
あの襲撃は結局、何者の仕業だったのか、今も明らかになっていないのだ。巷では侯爵らによるクーデターだったとか、【
ただ一つ、違えようのない真実は、「ユスタリア皇国のシャオン皇家が、没落寸前まで追い詰められた」ということ。事実、当代
一時期、このルゼハンが襲撃の首謀者なのではないかとも囁かれたが、ルゼハンが臨時と称して
私は現
「あの子は家族を何よりも愛する、優しい子なの」
叔父の話をしてくださる時はいつも、お母様はそう言って懐かしそうに目を細める。けれど、今でもそうなのだろうか?
お母様は名もなき病と長らく闘っているというのに、その家族思いの優しい叔父は顔も見せない。何もしてくれない。そして、16歳になろうというのに、私もまた、何も出来ないままでいる――――。
「ユシリア。あなたは
ある日、珍しく顔色の良いお母様が私を手招きすると、手を握りしめてこう言った。10年前のふっくらとして柔らかい、温かな白い手は跡形もなく、傷だらけで乾いた冷たい手が、私の掌を包んでいた。
「お母さま……?」
「いい? どうしても心が揺らいだ時は、背筋を伸ばして顎を引く。名君の心得よ。きっと、あなたが真っ直ぐ歩き続けるための
お母様が久し振りに見せてくださった眩い穏やかな笑顔が、私の心を締めつけた。これほど存在感のある煌めきを放っているのに、今にも消え入ってしまいそうで怖かった。
どうしてもここに繋ぎ止めておきたくて、私はすかさずしっかりと頷いた。
「……はい。忘れません」
ミルクティーを流し込んだかのような、お母様の美しいブロンドの髪が太陽光を照り返して眩しかった。幼い頃に手に触れた柔らかさや艶はなくとも、お母様はずっと、私のお母様だ。
「大丈夫」、きっと、お母様は回復なさる。私が背筋を伸ばして顎を引き、前を向いてさえいれば、きっと。
けれど現実は残酷で、この日の日没直前、お母様は静かに息を引き取った。
享年33。早すぎる死だった。
そして今宵、叔父・ルゼハン統皇が死んだ。
私は16歳になり、ようやく母国に戻ってから半年が過ぎようという今日。先刻、叔父は凶刃に斃れた上、父も母もとうにいない。これで正真正銘、私は独りになった。
叔父が死んだ今、思う。父が亡くなったらしいと風の便りに聞いてからずっと、母が亡くなった時にも考えていた。
なぜ、【
私はこの不条理がどうしても許せない。
なぜ私ばかりがこんな目に遭わなければならない? なぜ家族を奪われなければならない?
誰が、何が私の運命を定めたのか、そんなことは私には分からない。分からなくていい。私はこの不条理を許さない。
私は必ず、家族の死の意味を暴く。暴いた意味がどのような結果を生もうとも、私は【
たとえその
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