第2話
目が覚めたとき、自分の身体が見知らぬ部屋のベッドの上で横たわっていることに驚いた。
が、すぐに先刻までの記憶を思い出し、恐らくここがあの女の住居なんだな、と理解した。
「あ、おはよ~」
部屋を出て、辺りを警戒しながら廊下を進むと、リビングでエプロン姿に身を包んだ、件の女と鉢合わせた。
彼女は料理をしているようで、俺を一瞥するとすぐにフライパンに目を戻した。
「ここはどこだ……。お前は、一体何がしたいんだ」
まるで獣が威嚇するかのように、声を低くしてそう訊ねた。
目が覚めてすぐだというのに、俺の神経はぴりついていた。
少しでも隙を見せれば、殺す。
「私の家。心配しなくても、キミに手を出したりなんてしないよ~」
短時間しか話していないが、つかみどころのない女だということだけは分かった。
「……俺を、どうしたいんだ」
俺はあのとき――女に殺しを止められたときに死ぬはずだった。その覚悟もできていた。
だから、今どうしてこんな風に手足が動くのか、不思議でしょうがなかった。同時に、女が不気味でもあった。
「よしっ! できた!!」
俺の話なんて聞いちゃいなかったらしい。
女は料理を終えると、満足げに微笑んで、フライパンの上のかたまりを二つの皿に盛りつけた。
「キミは、『殺すことでしか生きる方法を知らない』。そう言ったよね」
気絶する前に、女に言った言葉だ。
「……だったら何だ」
女は二つの皿をテーブルに乗せて、椅子に座った。
「そんなの、つまんないよ」
「……?」
女は手招きをして、俺を向かいの椅子に座るよう促した。
俺は座らなかった。
座らなかったら、女が立ち上がってこっちへ歩いてきた。
「だからさ」
女は俺の腕をとってテーブルまで来させると、半ば無理やり俺を座らせた。
そして、顔を近づけてこう言った。
「私がキミに、生き方を教えてあげる」
「生き方……?」
疑問を口にすると、唐突にとある匂いが鼻腔を刺激した。
肉の焼けたような香り。
少し気になってそっちの方に目をやると、そこには女が作った料理。
名前は分からない。ただ、どうしようもなく美味しそうなことは分かった。
「朝一緒に目が覚めたり、ご飯を一緒に食べたり、テレビを見たり、お風呂に入ったり。そういう、あたりまえの生活を教えてあげる」
女は再び対面に座り、まるでペットを見守るような優しい目で俺を見つめ、そう言った。
「…………」
瞑目して、少し考える。
女は俺に危害を加えないと言った。
どうせ俺を油断させるための方便だろうが、一度亡くしたも同然の命だ。
ここは一つ、賭けに出よう。
「……嫌になったら、ここを出ていく」
女は少しからかうように、「素直じゃないなあ」と俺の頭をわしゃわしゃと撫でた。
俺は「触るな」と、その手を払いのけて女を睨みつける。
敵意むき出しな俺に対し、なかなかどうして女の方は笑顔のままだった。
「じゃあ、まずは『いただきます』っていう言葉を教えてあげる。この言葉は――」
料理の名が『ハンバーグ』だということを知ったのは、それからすぐ後のことだった。
******
女の名前はホムラというらしい。
警察庁のお偉いさん――イケメンで、ガタイがよくて背も高いそうだ――を父に持ち、幼い頃から武術を教え込まれてきたそうだ。
合気道、柔道、空手の大会で、それぞれ一位に輝いた経験があるらしい。
俺があっけなく彼女に負けたのにも頷ける。
ホムラは俺に色んなことを教えた。
人とうまくコミュニケーションをとる方法。すぐに他人を威嚇しない方法。綺麗に箸を持つ方法。
中でも特に深く教えられたのは、護身術とあいさつだ。
俺は殺しの腕はピカイチだったが、護身術になるとからっきしだった。
危機に扮したことがなかったからだ。
あるとき、ホムラは言った。
「人の命を奪わなくても、行動不能にすることはできるんだよ」
命を奪わなくても、という言葉に少し引っかかった。
昔のことを思い出す。
あれは、母に何度も殴られたとき。
『――母さん、やめてよ!!』
あれは、近くに住む大人たちに因縁をつけられたとき。
『なんで、いじめるんだよっ――!!』
あれは――もう思い出したくもない。
『痛い!! 痛い痛い痛い痛いッ――!!!!』
「…………」
俺の言葉なんて聞く気すら起こさなかったくせに、そんな奴らの命乞いを受け入れるだなんてのは、理解できなかった。
だから、俺は訊ねるようにこう言った。
「殺した方が早いだろ」
途端、ホムラは俺のこめかみに拳をぐりぐりと押し当ててきた。
「やめろ」と言ってその手を退けると、ホムラはやけに真剣な顔をして言った。
「キミはもう、殺しをしちゃダメだよ」
その有無を言わせない眼差しに、俺はただ黙って頷くことしかできなかった。
そのあと、頭を撫でられた。
それがなんだかむず痒くて、慣れないその感情に顔がほんのり熱くなった。
あるとき、ホムラは言った。
「私は家に帰ってきたら、必ず『ただいま』って言うから、キミも『おかえり』って返すんだよ」
「何の意味があるんだ? それに」
「うーん……意味かぁ……」
ホムラは数秒悩むと、何か思いついたよな顔をして、
「将来、キミが結婚するときに役に立つよ!」
と、楽しそうにそう言った。
「結婚願望はない」
「もー!! そこは『ホムラさんと結婚したい』でしょー!!」
そんな生活が、1年ほど続いた。
心の中に確かにあったはずのホムラへの疑念は、いつしか信頼へと変わっていた。
そして。
楽しい時間というものは、いつか必ず終わってしまうものだ。
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