第14話 恋の悩み 4
◇
ある日、会社にある訪問者があった。彼は自分を弁護士だと名乗った。
彼のスーツの襟にはひまわりをモチーフにしたという、あの天秤の描かれたバッジがあった。
とはいえ本物かどうかは見たことがないし、わからない。受付で差し出された名刺を総務の女性社員から受け取った俺は、それを素早くパソコンで調べた。検索している間に部長が席を立ち、その弁護士と話をしている。なにを話しているかまでは聞こえなかった。
あっさりと検索結果が出た。彼の所属している弁護士事務所のホームページに顔写真入りで紹介されている。本物だ。間違いない。
顔を上げると部長がこちらを見ていたので、うなずく。
すると部長は右腕を上げ、ちょいちょいと先を動かした。
「元木さん、ちょっと」
呼ばれたのは、請求書を封筒に入れるという作業を黙々としていた俺の部下だった。
彼女は顔を上げると、「はい」と答えながら立ち上がる。なにが起こったのかは、彼女自身にもわかっていないように見えた。
「会議室、使うで」
部長がそう宣言すると、フロアの中はしん、となった。
「元木さん、お茶淹れて持ってきて。ほいで、そのまま接客」
「は……はい」
つまり、他の社員は来なくてもいい、ということだ。
弁護士と部長が連れ立って会議室のほうに向かい、一人給湯室に入っていった元木さんがお茶を乗せたトレイを持って出てきて会議室に入って行くのを見届けると。
にわかに社内がざわつきだした。
「えっ、なに?」
「弁護士? なにやったん?」
狭い会社だ。ワンフロアに総務と経理、そして営業のエリアがそれぞれあり、低い棚で間を仕切っているだけだ。
営業事務の子がその棚の上に肘を置いてこちらに身を乗り出している。さきほど名刺を受け取った総務の子も立ち上がり、顔をくっつけるようにして話をしだした。
音量は抑えているつもりらしいが、丸聞こえだ。
「なんて?」
「いや、責任者呼んでって言われて」
「なんじゃろ?」
「気になるう」
声にはワクワクしたような響きがあった。
その二人だけではなく、他の社員も、そこかしこでコソコソとなにか喋り始めた。
なにがあったか知らないが、これはあまり良い状況ではない。
「仕事中」
俺が声を張ってそう諫めると、皆が肩をすくめ、渋々と席に着いて仕事に戻った。
が、さきほどの女性社員の一人が、ゆっくりと席を立ちトイレのほうに向かって歩いていった。
いや、トイレの方向でもあるが、まず間違いなく会議室のほうに向かうのだろう。トイレは会議室前の廊下を挟んで斜め前にある。聞き耳を立てるつもりなのかもしれない。趣味が悪いにも程がある。
けれど、もし会議室のほうに行くなと制したところで、お手洗いです、と言い返されるのは目に見えている。そしてトイレに行くな、とは指示できない。
まあいいか、と俺も仕事に戻った。
しかしそれがまずかった。
あっという間に、会社中に元木さんの話は広まった。
彼女は不倫をしていたらしい。弁護士は相手の配偶者に雇われてやってきた。どうやら元木さんは相手が結婚していたことを知らなかったようだ、と。
あとから聞いたところによると、弁護士は彼女の自宅に内容証明郵便を送っていたらしいのだが、それを彼女は受け取れなかった。家にいなかったのだ。
弁護士は彼女の一人暮らしの部屋も訪れたが、つかまらなくてやむなく会社のほうに来た、ということらしかった。
けれど、内容証明郵便が配達されてから弁護士が会社に来るまで一日も掛かっていないと聞いた。
平日の昼間に家にいるわけがない。
どう考えても、わざとだとしか思えなかった。これはおそらく制裁のつもりではないだろうか。たぶん、相手の奥さんの意思に基づいて、元木さんの会社での評判を地に落としたかったのだ。
元木さんが不倫だと知らなかった、というのは誤算だったか。
でも、弁護士は元木さんがなにをしたのかを言いふらしたわけではない。弁護士は自分を弁護士と名乗り、元木さんと部長を呼び出しただけだ。そのあとの話し合いはすべて会議室の中で行われた。言い広めたのは間違いなく、我が社の社員だ。
あの日、会議室から出てきた部長は弁護士を見送ったあと、しんとなったフロアに向かって声を張った。
皆が興味津々、といった顔をして自分に視線を向けているのを見て、悟ったのだと思う。
「ちぃと誤解があったみたいじゃ。なんも問題はなかったけえ、お前らは気にするな。あと、いらんこと言うな」
その説明と注意に皆、一応はうなずいた。けれどこれは収まりはしないのではないか、という予感はした。
お茶を片付けて出てきたのであろう元木さんは、やはり自分が注目を集めているのに気が付いたのか、足を止める。
そしてフロアに向かって頭を下げた。
「お騒がせしました。申し訳ありません」
皆、それを聞くと小さく頭を下げ返し、仕事に戻る。部長も元木さんも自分のデスクに戻り、仕事を再開した。
元木さんは目を伏せたまま仕事を黙々とこなし、決して顔を上げようとはしなかった。
夕方五時になり、仕事を終えた女性社員たちはさっさと席を立つ。そしてあとからゆっくりと立ち上がった元木さんの腕を掴むと、こっちこっち、と促しながら、更衣室に連れて行った。
俺たちがいるフロアからは少し離れてはいるが、それでもやはり狭い会社のこと、すべてを聞き取れはしないが、ぽつりぽつりと会話は聞こえる。
男性陣も気になっているのか聞き耳を立てているので、社内はとても静かで、なおのこと耳に入ってくる。
部長のほうを見ると、小さくため息をついてはいたが、なにも口出ししなかった。
「ええー!」
更衣室からそんな声が聞こえて、フロアに残っていた者が一斉に顔を上げた。
「婚活パーティ? そんなとこで知り合ったん?」
元木さんの声は聞こえない。小さな声で喋っているのだろう。
けれど他の女性たちの声が大きすぎる。
「知らんかったんじゃあ」
「婚活パーティじゃあねえ」
「それじゃあ仕方ないよねえ」
それでもう、おおよその事情は知れ渡った。
先に一人、着替えて更衣室から出てきた元木さんは、フロアに向かってぺこりと頭を下げた。
「お疲れさまでした。お先に失礼します」
「ああ、お疲れ」
「お疲れっす」
そうして足早に彼女は立ち去っていく。
元木さんがドアを開けて会社を出て行った頃、まだ更衣室から出てこない女性たちの会話が再開された。
「うっそだあ」
「気付かんわけないよねえ」
「ウチ、彼氏が浮気したとき、すぐわかったわ」
そうして、きゃはは、と笑い声が響く。
「しかも婚活パーティとか!」
「必死すぎん?」
「じゃけえ引っかかるんよね」
さらに笑い声は大きくなった。
しかしその笑いを冷めた声が止める。
「ほんまの事情はどうなんか知らんけど、とにかく私は不倫は許せん人じゃし」
一番年上の女性社員がそう告げた。同時に、バン、とロッカーを荒々しく閉める音が大きく響く。
「そ、そうですよねえ」
「ウチもー」
どうやら、それで女性たちの方針は固まったらしい。
部長を見ると、眉間を二本の指でつまんでいた。
女性たちが更衣室から出てきて、口々に「お疲れ様でしたー」「お先に失礼しまーす」と挨拶しながら会社を出て行く。
そして全員が出て行ったところで、今度は男性社員たちが顔を見合わせた。
「うわあ、怖え!」
「女、怖え!」
わざとらしく二の腕をさすりながら、足をバタバタさせつつ、そんなことを会話している。
怖い、と口にしながら、楽しそうでもあった。
「ワシは、いらんこと言うな、言うたよの?」
部長が低い声でそう告げると、「やっべ」と数人が口にしながら、帰り支度を始める。
「おい、木佐貫」
呼ばれてそちらに振り向く。
「今日、飲みに付き合わんか」
やっぱり。
月末などの忙しいときを除いて、たいていは定時付近で帰れるし、給料もそこそこいいので気に入ってはいるのだが。
その日は、この会社の嫌なところが凝縮されたような日だった。
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