第13話 恋の悩み 3

   ◇


 わけがわからなくて頭を抱える俺をよそに、妖精、もとい、あやかママは俺が持ってきたレジ袋の中身を覗き込むと、声を弾ませる。


「やったあ、四本あるわ」


 その明るい声を聞いていると、なんだかいろんなことがどうでもよくなってきた。

 考えられるとしたら、あやかママはこの妖精の話を知っていて、それを試そうとしている馬鹿な男を見つけて、からかうことにしたのではないだろうか。

 人通りに関しては、もう夜中なのだし、そういうこともたまにはあるだろう、と納得した。

 というか、納得しておこう。いつまでも頭を抱えていても仕方ない。


「ありがとねー」


 ビールをそれぞれの手に持って掲げると、あやかママはにっこりと笑う。


「二本以上、いうことにしとるんじゃけど、ちょうど二本の人が多いいんよね」


 多少、不服そうにそんなことをのたまう。

 俺の聞いた話では、確か、500mlのビール缶を二本以上持っていくこと、ということになっていたはずだ。


「以上、なんだから二本でもいいのでは?」

「ほうよ。ほうなんじゃけどね」


 言いながら一缶をレジ袋の中に戻すと、あやかママは手に残った缶のプルトップを、なんの躊躇もなく開ける。プシッという音が公園に響いた。


「いただきまーす」

「……どうぞ」


 呆然としたままの俺を尻目に、あやかママはゴクゴクとビールを飲む。

 そしてプハーッという漫画みたいな息を吐いた。


「沁みるわー」

「そうですか……」


 ぼうっとしたままの俺のほうに視線を移すと、あやかママは小さく首を傾げた。耳元の輪っかのピアスが揺れる。


「飲まんのん?」


 そう問うて、レジ袋をちらりと見やる。


「あ、ああ、じゃあ、いただきます……」


 いただきます、ってなんだ。俺が買ってきたのに。と思いつつも、ガサガサと袋を探るとビール缶を一本取り出す。

 あやかママと同じようにプルトップに手を掛けて開けると、それと同時にこちらにビール缶が差し出されてくる。


「かんぱーい」

「……乾杯」


 戸惑いながらも少し缶を差し出して、あやかママの持っているビール缶に当てた。

 カシッという鈍い音がする。

 それから飲み口に口を当て、缶を傾け、ビールを喉に流し込む。


 そうしているうち、まあいいか、という気分になってきた。

 妖精だろうとホステスだろうと、どっちでも構わない。

 この胸の内にあるモヤモヤが吐き出せるのならば。


 そう思ってビール缶を口から離したところで、あやかママに話しかけられた。


「広島の人じゃないん?」

「わかります?」


 苦笑しながら答える。広島に来てもう十二年と長いが、特に広島弁がうつったということもない。ただ、聞き慣れはしてきた。


「うん、広島弁じゃないし、細かい発音がちょっと違うかねえ」

「大学からこっちなんですよ。そのまま就職して」

「広島弁、慣れた?」


 笑いながらあやかママは訊いてくる。

 どうやら最初は広島弁の話題で押し切るつもりらしい。


「まあ、慣れましたね。最初はちょっと怖かったかな」

「ようそう言われるんじゃけど。広島弁、そがあにそんなに怖いかねえ」

「なんかちょっと怒られている気がします」

「やっぱり」


 そして、あはは、と声を上げて笑う。

 少し、気が抜けてきた。あやかママがずっとにこにことしているせいかもしれない。

 気を張らなくていい、とそんな気がした。


「あ、でも、広島に来てからすぐの頃、いきなり怒られたんですよ。それで余計に怖いのかもしれません」

「いきなり? なにやらかしたん」

「お好み焼きのこと、広島焼きって言ったんです」


 そう答えて苦笑する。


 広島の大学に入って、まだ周りとの距離を掴みかねていた頃の話だ。

 やはり広島に来たからには食べておいたほうがいいだろう、とは思っていた。ガイドブックを見ても、広島風お好み焼きのことを書いていないものはない。ネットで調べても、もちろんお好み焼きを勧めていないガイドサイトはない。

 なのに、どこのお店がいいのかは、よくわからない。候補が多すぎるのだ。

 大学の近くのアパートで独り暮らしを始めてから、あたりを歩いてはみたが、やっぱりよくわからない。

 そこかしこに店はあるが、どうせなら美味しいと評判のところがいい。


 これは地元のヤツらに訊いてみるが吉だろう、とそう思った。

 だから、授業が終わったあとの教室で、なんとなくクラスメートたちが集合している場で、俺はこう質問した。


「広島焼きって、どこのお店が美味しいか知ってる?」


 と彼らを見回して訊いたら、その中の広島県民たちは一様に眉をひそめたのだ。一瞬にして教室内がしんとなる。

 俺と同じように他県から来た人間もその場にはいたので、この空気の変わりように彼らと一緒に顔を見合わせた。

 すると一人が口を開いた。


「『広島焼き』なんてものはない」


 と、多少ふてくされたような口調で。

 広島風に言えば、「はぶてられた」。


「なんなんなら、そりゃあ。お好み焼きぃ言えや。せめて広島風お好み焼き、じゃろ」


 なんだかものすごく怒られたような気がして、まったく反論できずに口ごもった。

 その話をすると、あやかママはまた声を出して笑った。


「広島焼きはねえ、怒る人はものすご怒るけえねえ」

「みたいですね。でもまあそのときは、本気で怒っていたわけでもないようなんですけど」


 実際、ふてくされていたのはそのときだけで、話題が変わった瞬間ににこやかになっていたし、そいつとは今でも付き合いがある。

 そのあともからかうように、お好み焼き屋を見かけると、「広島焼き?」だなんて訊いたりして、わざとらしく唇を尖らせるのを見て笑ったものだった。


「ウチは最初、広島焼きがなにかわからんかったよ」

「わからなかった?」

「うん。広島焼きってなに? 知らん、思うて。観光客用の言葉なんじゃろうね」

「へえ」


 とりとめのないそんな話をして。

 わずかに訪れた沈黙の時間に、あやかママはぐいっとビールを飲んだ。


「ほいで?」

「え?」

「ウチを呼び出したのは、なんで?」


 足を組んで、ビールを持った手を軽く膝の上に乗せて。どこか遠くを見て、少しばかり口の端を上げて、あやかママはそう訊いてきた。


「なんで……というか」


 いや本当は、妖精を呼び出したはずなのだが。

 そこにいるのは、ホステスさんだ。

 これならどこかのスナックに入るのと変わらないのではないだろうか。

 いや。行きつけは、たいていは会社の繋がりなので、どこでどう会社の人間に話が漏れるかもわからない。

 それならば、今あやかママに話をするのも悪くないのではないか、と考える。


「まあ……恋の悩みです」

「あら! ええねえ。聞かせて聞かせて」


 華やいだ声を出すと、あやかママは少しだけ身を乗り出すようにしてこちらに顔を向けた。


「そんなに愉快な話ではないんですが」


 ご期待に応えられそうにないのでそう返したが、あやかママはキラキラした瞳をして俺の顔を覗き込んでいる。


「まあ言ってみんさいや」

「なんというか……部下に、ちょっと気になる子がいまして」

「部下がおるん? ほいじゃあ役職持ちなん? できる男なんじゃね」

「いや、小さな会社ですし、そうでもないです。三十まで真面目に仕事をしていたら、誰でも課長までにはなれるかも」


 苦笑交じりにそう答える。

 あやかママは何度か目を瞬かせると、返してきた。


「誰でもってことはないんじゃないん? 誰でもなれたら平社員はおらんようになるわ!」


 それからケラケラと笑って、空いた左手で軽く俺の肩を叩く。


「じゃあそういうことにしておいてください」

「うん、ほいで?」


 役職の話はそこで終了らしい。あっさりと話を切り替えてきた。

 やはりホステストークか。俺の役職に特に関心はないようだ。


「その気になる子は、脈はありそうなん?」

「いや……どうでしょうね。嫌われてはいないと思いますが、男としては見られていない、という感じでしょうか」

「ほうね。ほいじゃあ、男として見られるようにせんといけんね」


 そう返してきて、ウンウン、とうなずいている。

 しかしそれができれば苦労はしないわけで。


「一応、部下なので、会社で口説くわけにもいきませんし」

「社内恋愛禁止なん?」

「いや、特には」

「じゃあええじゃん」


 心底不思議そうに、あやかママは目を瞠る。

 そんなに珍しい断り文句でもないと思うのだが。部下を口説くとなると、下手するとセクハラだとかパワハラだとかで訴えられてしまう。


「いや、仕事中に口説くなんて」

「堅いこと言いんさんな。世の中の社内恋愛を全部否定するつもりなん」

「世の中の社内恋愛をしている人たちは、仕事が終わってから口説いているんじゃないですか」

「ほいなら、そうすりゃええじゃん」

「まあ、そうなんですけど」


 ぐいぐい勧めてくる。

 逃げ道を少しずつ失くされていくような気がする。


「いや実は、気にしだしたのはごく最近で、まだそういう機会に恵まれていないんです」


 これは本当だ。

 飲みに誘うとか、休日に連れ出すとか、上手くそこに誘導できそうな機会はまるでない。もしかしたら彼女が入社したときから意識していれば、そんな機会にも巡り会えたのかもしれないが、気にしだしてからは皆無だ。

 胸の中でもやもやと、これはどうするべきなのか、と思っているだけなのだ。


「じゃあ、これからなんじゃね」

「でも、退職願を提出されました」

「ああ、なるほどねえ」


 あやかママは、ああー、の口の形のまま、うなずいた。

 そしてビールを一口飲む。

 それからこちらに振り返ると、問い掛けてきた。


「なんで、それが悩みなん?」

「え?」

「告白でもなんでも、すりゃあええんじゃないん? 辞める前に」

「いや、さっきも言いましたけど、部下ですし」

「ほいでも、もう部下じゃなくなるんじゃろ?」


 俺はその質問に、なにも返せなくなった。

 確かにそうなのだ。


「帰るところを呼び止めて、メアドでもなんでも訊けばええわ。なんなら食事にでも飲みにでも誘えばええし。断られたって、仕方ないね、ごめんねってすぐに引けばええわ。仮に嫌な目で見られても、もう会社からはおらんようになるんじゃけえ、いとうも痒うもないわ。まあ傷つきはするじゃろうけど。簡単なことじゃわ」

「まあ……そうですね」

「でも」


 ママはまたビールに口をつけて。

 そして続けた。


「そうできん理由があるんじゃね?」


 あやかママの言葉にしばし考え込み。

 そして飲みかけのビール缶を、自分が座っている左手のほうに置くと、口を開く。


「理由……理由というか……。俺は本当にその子のことを好きなのかと」

「そこからなん?」


 にこりと笑ってあやかママは問う。

 訊いてはいるけれど驚いた様子はまったくないことから、これはわかっていたのではないだろうか。


「ええ、そこからなんですよ」


 苦笑してそう返す。

 俺は開いた足の上に肘を乗せ、手を組んだ。親指同士を弄びながら、ぽつりぽつりと語り出す。


「興味を持ったのは、その子を取り巻く良くない噂からでした」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る