第12話

 「あ、そうでした……ここに警察の偉い人がいるって翔吾くんに聞いたんですけど……ちょっと会えますか?」


 翔吾は思い出した。あまりの衝撃に忘れていたがこれも今回の目的の一つだ。麦穂の言葉に考次郎が端的に言葉を発する。

 

 「慎一」

 「はい」

 

 ネクタイを少し崩してスーツを着ている男が、嫌そうな顔をして返事をした。この男は夜陣慎一。手広く権力がある職業につくことの多い夜陣の家の男の中でも、警察でかなり出世した男だった。翔吾は口を開いた。


 「慎一サン、ちょっと来てくれ」

 「ここじゃダメなのか」

 「慎一サンからしてもここで話すのは都合が悪い話ですよ」


 怪訝そうな顔だが、慎一は考次郎に言われたのもあって黙ってついてきてくれた。

 長い長い廊下を三人で歩く。歩くたびにぎしりと響く、微かな音だけが聞こえていた。


 「ここら辺でいいだろう」


 慎一が立ち止まると、翔吾と麦穂に向きなおる。翔吾が頷いたのを見て、麦穂は口を開いた。


 「最近△市で多発しているひったくり犯がありますよね」

 「……言っとくが、部外者には言外できねえぞ」


 険しい顔で腕を組んだ慎一に、麦穂は視線を逸らさず言う。


 「翔吾くん、よろしくお願いします」


 翔吾は胸元にあるポケットから一枚の写真を取り出した。指先で挟んで無言で慎一の前にかざす。慎一はその写真を見て次第に驚きの感情を浮かべたかと思うと苦虫を百匹噛み潰したような顔になった。


 「慎一サン、あんたジジイに黙って付き合ってる女がいるだろ」


 交際くらい好きにやらしてやれと思うが、この家に生まれた以上そうはいかない。皆、あのジジイに結婚相手まで決められなければならないのだ。慎一は沈黙の末、口を開いた。

 

 「…………わかった、わかったよ。で、弱みを握られた可哀想な俺はそうすればいいんだ?」


 遊びだった場合、この脅しは意味をなさなくなるが、……案外慎一は本気らしい。手をあげ、降参するポーズをとった慎一。芝居がかった仕草だが、様になっているのがどうも腹立たしいと、翔吾は思った。


 「一年前、同じような犯罪グループがありましたよね」

 「ああ、確かにそうだ」

 「本当に似ていますが……私は模倣犯だとは思いません。一年前の犯罪グループに計画を授け指示していた人物がいますね」


 慎一は目を見開いて絶句した。冷や汗が首筋に滴り落ちるのを翔吾は見ていた。


 「私が頼みたいのは一年前に捕まった犯罪グループの主犯と現在されている男との面会です」


 断ろうとした慎一の顔の前に、翔吾は無言でぐいと写真を押し付ける。慎一はダラダラと汗を流して歯を食いしばった。その時、ギシリと足音がした。


 「慎一さん? 大丈夫なの? 変なことされてないでしょうね」


 さっきの部屋にいた叔母だ。翔吾は余裕の表情で口の端をあげて、ひらひらと写真を揺らした。大量の汗を流しながら慎一が叫ぶ。


 「なんでもない、なんでもないからあっちへ行ってくれ」

 「失礼な人ね、心配してあげたってのに」


 叔母は静かな足音を立てて去っていく。慎一はひそめた声で、言った。

 

 「……それは無理だ! だが父にいうのはやめてくれ! あの子を大事にしたいんだ」

 「ふふ、いいでしょう。その代わりこの願いは叶えてもらいます」

 

 警察の誇りとしてそう簡単には頷けないのだろう。しかし好いた女との板挟みになった慎一は限界まで眉に皺をよせ、本当に嫌そうな顔で渋々頷いた。それを見て、麦穂は花咲くように笑った。





 風が吹いている。


 

 ジリジリと照りつける日差しに潮風が心地いい。海沿いの道を歩いていると、探していた人影を見つける。階段を降りると海が広がる堤防だった。そこでイーゼルを立ててキャンバスに向かっている、後ろ姿。翔吾は思わず声をかけていた。


 「麦穂」


 風に靡く髪を押さえながら麦穂が振り向く。翔吾を視界に入れた途端、顔が華やかに綻ぶのがゆっくりに見えて翔吾は自然と微笑んでいた。


 「翔吾くん!」


 翔吾はゆっくりと歩み寄った。キャンバスに描かれているのは海だ。雄大で、燦々と降り注ぐ日差しに煌めく青い青い海。深みのあるブルーが自然と引き寄せられるような引力を持っていた。……そういえば、麦穂に出会った日に描いていたのも海だった。

 隣で何を言うでもなく、筆を走らせる麦穂に翔吾は自然と口を開いていた。


 「俺は……ずっと弟が妬ましかった。天才って奴が心底嫌いだった」


 

 翔吾の記憶にはいつも弟の姿があった。別に何も最初から玲真と仲が悪かったわけじゃない。いや、玲真自身は今も仲が悪いとは思っていないのかもしれない。そう言うところがムカつくのだが……まあいい。思い出すのも難しいほどの昔、翔吾も小さかった頃は仲良く遊んだりしていた。ただ……いつからだろうか。次第に自分が育てた嫉妬心に苦しむようになったのは。

 よく覚えているのは……ピアノをやっていた頃の話だ。翔吾は自分でも言うのはなんだが秀才ってやつだった。それなりに努力すればそれなりの結果がでる。まああくまでだが。ピアノの先生に褒められるぐらいには翔吾は上手くやっていたのだ。一度目なのにピアノコンクールでは入賞した。幼かった翔吾は、あの時褒めてくれた父の姿を本当によく覚えている。まあ当然か、それが最初で最後だったのだから。


 ……玲真がせがんだのだ。「僕もやりたい」と。


 断言しよう。どれだけ妬ましかったとはいえ、これだけは言わねばならない。


 ────玲真は天才だった。それもなんでもできるタイプの。

 

 玲真はピアノをやり始めてぐんぐん成長した。これほどまでに”凄い”子は見たことがないと、ピアノの先生が言ったのを幼い翔吾は聞いていた。そのすぐ後、玲真はピアノのコンクールで優勝した。

 翔吾はピアノを辞めた。

 ヴァイオリンをした。サッカー、水泳、テニス、アイススケート、バレエ、空手、合気道、柔道。


 ダメだった、何一つとして勝てるものはなかった。翔吾が必死こいて努力し結果が出た頃には、玲真が「お兄ちゃんと同じのがやりたい」とその習い事を始め、そして……あっけなく翔吾を抜いた。本当に、驚くほどあっさりと、翔吾は負けた。

 

 学校でもそうだった。もちろん翔吾だってすぐに諦めたわけじゃない。毎回必死で、それこそ血が滲むような努力をしてテストに臨んだ。

 でもダメなのだ。

 玲真は毎回軽々と、本当に軽々と、超えていく。


 そして、玲真は嫌な奴なのかというと、これも違った。玲真は純粋に心の底から兄を慕っていた。誰からも愛されるような性格と容姿の持ち主で、どこに行っても真っ先に皆に囲まれるような子供だった。そうして憎らしいことに兄と同じことがやりたいという弟らしい心で、毎回兄の背中を追いかけるのだ。とっくに追い越していることにも気づかずに。


 「お兄ちゃん、見て!」


 トロフィーを掲げて、満面の笑みで駆け寄ってくる玲真を見て、翔吾は突然吐き気に襲われた。自分でも説明がつかない。ただ、キラキラとした弟の笑顔が、汚らしい……この世で一番邪悪なものに見えた。


 「俺に……触るな!!」


 咄嗟に手で払うとあまりに呆気なく玲真は背後に倒れた。頭をしかと打ちつけ、一秒後激しく泣き出す。父と母が駆け寄り玲真を助けおこすのを翔吾は呆然と眺めていた。謝るように言われる中、翔吾は黙り込んで考えていた。

 ────俺だけなのか。こんなに頑張っているのも。玲真がおかしいんじゃなくて、できない俺がおかしいのか。こいつを……玲真を好きになれない俺がおかしいのか。だから父と母は玲真の方を褒めるのか。……あの家だって褒められるのはいつだって玲真だった。

 

 しかし、学校に通ううちに翔吾はやっぱり考えを改めた。なぜなら翔吾の成績はクラスで一番だったからだ。それどころか学年で一番になることもあった。やはり翔吾だって優れているのだ。しかし……学年で一番を維持することは難しかった。翔吾は悟った。”ここ”が俺の限界点なのだと。

 秀才程度では届かない星がある。しかし天才というものは、天から恵まれた才を持つものは、その星を掴める。

 天才だって頑張っているだとか、努力する前に諦める理由を作っているだけだとかいうやつがいる。そういうやつを見るたび翔吾は鼻で笑ってやるのだ。


 努力しても努力しても、叶わない相手ってのは必ずいるものだ。それどころか努力することだって苦に思わないやつだっている。努力するのが苦しい普通のやつがそんなやつと同じところで並べられても……結果は目に見えている。


 「だから不思議だったんだ。俺は麦穂が絵を描いているところが好きだったから。いつもだったら妬ましく思うはずなのに……あんまりにもお前が楽しそうにしてるから」

 「えー嬉しいですけど、天才と一緒にしないでくださいよ」

 「好きなモンに打ち込めるのも才能だろ……俺にはない才能だ」


 こいつみたいに、夢中になれる好きなものなんて、今まで生きてきた中で、まだ一つも見つけられてない。


 「翔吾くんの話を聞いてると随分、弟くんはつまらない人間みたいですね」

 「今の話を聞いてなんでそんな結論になる? 誰がどう見てもこれ以上ない完璧な奴だろ」

 「そう、完璧すぎる。キミが悪いほど粗がないんです。……そんなのつまらなすぎる。魅力の本質は人間味っていうでしょう? 翔吾くん、君は魅力的で描きがいがあります」


 翔吾は言葉を詰まらせた。ようやく言葉を絞り出す。

 

 「……褒めてねえだろ」

 「ふふ、これから見つけたらいいじゃないですか。好きなことくらい見つけるのは簡単ですよ」


  麦穂は突然手を広げる。潮風に髪を靡かせながら弾けるような笑顔で笑う。その目は煌めかせながらもゆっくりと燃えている。まただ……この違和感。ドクンと心臓が音を立てる。

 

 「まず一つ目、この海ですね!」

 「は?」

 「だって翔吾くん、さっきから柔らかい表情してますよ。確かに光にさざめくこの海は美しいですけど意外ですね。君にそんな感性があったとは」



 青い海と空を背景に麦穂が笑う。飴玉みたいな薄茶の瞳。赤く染まった頬。白い歯が溢れる。子供っぽい笑顔だ。

 その瞬間しまった、と翔吾は思った。気づいてしまった。

 


 

 ────彼女が、好きだった。



 

 気付けば、心臓が狂ったようにビートを刻み、膝が震える。この音が麦穂に届いているんじゃないかと心配になる激しさだった。翔吾はゆっくりと目元に震える手をやる。鮮烈で、熱い。心に熱い鉄を流し込まれたような気分だった。頭が沸騰するような飢えのような渇望に似て、何があっても手を伸ばしたくなる衝動。


 散歩に呼んだ犬が後ろをついてくれば可愛いし、嬉しい。それぐらいの気持ちだった。いつからだろうか。ジリジリと胸の端が焦がされるようになったのは。

 稲妻のように鮮烈で子供のように無邪気な彼女に恋を、していた。なぜもっと早く気づかなかったのだろう。今まで気づかなかったのが嘘のように当たり前に、麦穂は翔吾の頭の中に居座っていた。頭の中にいる彼女は、いつも弾けるような笑顔で、誰よりも自由奔放。

 麦穂は誰にも縛られず、自分の思うがままに振る舞っていた。他者を歯牙にもかけず好き勝手な言動をする彼女の姿がなぜか……そう、輝いて見えた。翔吾の目にはまるでその背に翼がついているかのように誰よりも”自由”に見えたのだ。

 

 翔吾は眩しい光を覗き込むかのように目を細めた。胸の奥が白湯でも飲んだようにじんわりとあたたかくなるのがわかる。




 澄みわたる空。浮かぶ真っ白な入道雲が目に痛い。

 夏が来る。



 

 

 この空の青さ、そして入道雲の白を、翔吾はこの人生の中でもう決して忘れられないだろう。

 

 

 


 

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