第13話
麦穂が慎一に言ったこと。それは……一年前の犯罪グループの資料、そしてまだ捕まっていないひったくりに関しての資料を横流しすることだった。
麦穂に聞けば、そもそも最初から面会できるとは微塵も思っていなかったらしい。一応建前上は誰でも面会出来ることになっているが、実際は親族以外の人の場合は、「改善更正に役立つと認められた人」……つまり雇用主、担当の弁護士、保護者などではないと面会できないのだと。麦穂は「面会なんかよりもっと素晴らしい情報の山を手に入れることができた」と喜んでいた。
◇
いつものように、アトリエに翔吾はいた。麦穂が絵を描くのをぼんやりと眺めながら翔吾は考える。恋を自覚したのはいいが、翔吾はあえていつも通りを演じることで精一杯になっていた。別に色恋ぐらい初めてでもないくせに、自分でも笑えるほどどうしたらいいのかわからない。今までの経験が麦穂に通じるとも思わなかった。麦穂は翔吾が出会ってきた誰とも違っていたのだから。そして、何より行動を何か起こすことによって麦穂とのこの心地いい関係がなくなってしまうのが、一番翔吾にとって恐ろしいことだった。
出来上がっていくその絵をぼんやりと見ていると、その時「ちょっとトイレ行ってきます」と麦穂が席を立った。
腕を組んで壁に寄りかかっていた翔吾はそれを見送った。そうしてしばらく経ったころ。麦穂の向かいで絵を描いていた春草が手を止めて、翔吾に声をかけた。
「ちょっといいかな」
腕を下ろして向き直ると、歩み寄ってきた春草は一枚の紙を持っていた。そこには大きな文字で『絵画コンクール』とある。春草はにこやかな表情を崩さず、話し始めた。
「翔吾くんに頼みがあってね。いやね、大したことじゃないんだけど……麦穂に絵のコンクールに出ないか聞いてみてくれないかな」
それは翔吾がずっと麦穂に聞いてみたいと思っていたことだった。しかし、麦穂に拒否されるのが恐ろしくて、今まで聞けなかったことだった。渋い顔をする翔吾に、春草は言う。
「私から聞くのは麦穂の本心が聞けないかもしれない。翔吾くんには随分心を許しているみたいだし、きっと素直になれると思うんだよ」
翔吾は黙り込んだ。心を許していると言われても……翔吾からすれば春草と麦穂の関係こそ、仲睦まじい理想の祖父と孫の関係に見えた。春草が聞いても本心を麦穂は言うと思うが……。春草から見れば、麦穂は翔吾に心を許しているように見えるらしい。それに少し翔吾は安堵したような心持ちになった。
麦穂が戻ってきて、春草がにこ、と翔吾に笑って席を外した。翔吾はもう単刀直入に聞いてみることにした。唇を舌で湿らせ、口を開く。
「なあ、……お前はコンクールとか出ないのか」
「コンクール、ですか……」
麦穂は筆を止めると難しい表情で黙り込んだ。絵の具のついた指で顎を触ったので、顎が真っ青になった。翔吾が、やはりダメか……と思った頃、麦穂は顔を上げた。
「翔吾くんはどう思いますか」
麦穂は真剣に翔吾にアドバイスを求めているようだった。翔吾は迷った末に思ったことを言うことにした。
「俺は……いいと思う。少しでも心に残ることがあるなら、やってみるべきだろ。それに……お前の絵はもっと、多くの人に認められるべきだ。こんなところで燻ってていい才能じゃない」
翔吾は本当に、心から思っていることだけを言った。翔吾はもはや麦穂だけじゃなく、”麦穂の絵”にまで骨の髄まで惚れ込んでいるのだ。麦穂はそれを聞いてパッと笑って言った。
「それじゃ、私やってみます!!」
それからの麦穂は筆を握りながら、何を描こうかウキウキと悩んでいた。それはもう上機嫌に。
「今まで、私はただ絵を描くことが楽しくて描いてきましたし、私にとってそれ以外の価値はありませんでしたが、まあこういうのもたまにはいいでしょう」
「確かにいい経験にはなるだろうが……じゃあとりあえず狙うのは入賞か」
「まさか、やるからには最優秀賞しかあり得ません」
「は、」
◇
背後に麦穂を乗せてバイクを走らせる。ジリジリとした日差しが暑い。頬に当たる風が唯一の救いだった。
「あ、ここで止めてください」
麦穂が声をあげたので、バイクを止める。すると麦穂はサッと飛び降りて首に下げたカメラで朽ちた廃墟を連写する。今にも崩れそうな古い家だ。壁一面に蔦が絡んで、木々が生い茂り自然と一体化している。不思議な雰囲気を持っていた。
麦わら帽をかぶってワンピースを翻す麦穂が眩しくて目を細める。翔吾はTシャツの襟口で汗を拭った。
それにしても本当に暑い。地面のコンクリートから上る熱気で気を抜くと意識が飛びそうだと翔吾は思った。
「もう大丈夫です! 次行きましょう」
「へいへい……」
またバイクを走らせる。
目的としては、麦穂がコンクールで何を描くか決めるため、翔吾はこの暑い中バイクを走らせていた。全くこれが麦穂でなければ絶対に断っていたものを。恋とは恐ろしいものだ、と翔吾は他人事のように思った。
それからいろんなところを回った。一面に広がる緑が眩しい田んぼの風景。昔ながらの駄菓子屋に、静謐な空気の漂う木々に囲まれた神社。至る所に蔦が絡む、廃駅。磯の匂いのする漁港。そうして大きく一周した後、翔吾たちはアトリエの近くに戻ってきた。
海沿いの道を走らせていると、麦穂が言った。
「ちょっと休憩しましょう」
バイクを道の端に止めると、麦穂は浜辺に走り出した。
走りながら靴と、靴下を脱ぎ捨てる麦穂は、一切の躊躇なく海に足先を浸す。ワンピースの裾を持ち上げて満面の笑みでこちらをみて、「翔吾くん! 冷たくて気持ちいいですよ!」と叫んだ。翔吾はため息をつくと、麦穂に歩み寄る。海に足を浸からせて翔吾をまつ麦穂は、麦わら帽子を抑えて心底楽しそうに笑っている。
波打ち際のそばまでくると、翔吾は立ち止まった。全く麦穂の相手をしていると子守をしているんじゃないかと思うことがある。こんなにも年下の面倒を見るのは久しぶりだ。……昔は弟の面倒をこうやってみてやっていたんだっけ。麦穂は立ち止まってため息をつく翔吾を不満そうにむ、とした顔でみていたが、やがてニヤと笑う。
翔吾がまずいと思った時には麦穂は海水をすくってこちらに掛けてきた。
「な、テメエ!」
ビショ濡れになって思わず麦穂を睨むと、彼女はイタズラ小僧のように笑った。
「これで、もう翔吾くんも海に入って問題ありませんよね!」
麦穂は翔吾の腕を掴んで、渾身の力で引っ張った。翔吾は、呆れ返ってため息をつきたい気分だったが、もうどうにでもなれとヤケクソのような気持ちで体の力を抜いた。
水飛沫を上げて二人は海に倒れ込む。
キラキラと水飛沫が跳ねて、尻餅をついた麦穂が笑う。
麦わら帽子は外れて、綺麗だったワンピースだってもう濡れそぼっているというのに、その姿を見た瞬間。胸が締め付けられて息もできない。
そうだ。この、笑顔。
この笑顔のために翔吾は生きているのだと、気づいた。濡れた髪をかきあげ、翔吾が仕返しに水をかけると麦穂はもっとケラケラと笑った。
時間がゆっくりと流れるのを感じる。
映画のワンシーンみたいだと、翔吾は思った。何もかもが輝いて見えた。濡れた服も、髪ももうどうでもよかった。
明るい笑い声と共に耐えきれないと言ったふうな低い笑い声が聞こえてきて、初めて翔吾はそれが自分のものだと気づいた。笑っているのか。俺が、こんなことで。
ただただ、この瞬間が長く続いて欲しいと思った。ずっとこのまま、この先も麦穂といれたなら────
────この人生は素晴らしいものになると確信があった。
「決めました!!」
突然麦穂がびしょ濡れのまま、ザパッと音を立てて立ち上がる。指で作った枠の中から翔吾を見て、麦穂は言った。
「翔吾くんを描くことにします!」
満足そうに、麦穂は笑った。
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