第11話

 「おじいちゃまに会いに行きなさい」

 「あ?」

 

 翔吾は言われた言葉に理解が追いつかず、箸を持った手を止め顔を上げた。時刻はとっくに十一時をさして食卓には瑠璃子と翔吾しかいない。玲真は学校に行っているのだ。瑠璃子は済ました顔でハンカチで口を拭うと繰り返した。


 「おじいちゃまに会いに行きなさい」

 「はあ? なんで俺が会いに行かなきゃならねえんだよ」

 

 大体、”おじいちゃま”なんて柄じゃねえだろ、あのジジイ……。寒気がする。


 「翔吾くん最近おじいちゃまに会ってないでしょ? 玲真くんはちゃんと会いに行ってるのよ。翔吾くんが会いに行けばきっとおじいちゃまも喜ぶわぁ」

 「ふざけんな、誰が行くかよ」

 

 顔を見せに行く? どうせ親戚のジジババらと一緒になってやかましく叱責されるだけに違いない。あのジジイが孫の顔を見て喜ぶタイプかよ。

 

 「言っておくけど、拒否権はないわよ。おじいちゃまにはもう翔吾くんが明日顔を見せに行くって言っといたわ」

 「余計なことしやがってクソババア……」


 思わず呻き声が漏れる。

 ただボロクソに言われるだけなのにわざわざ自分の足で向かうのも癪だ。しかし……これですっぽかせばどんな報復が待っているか分からない。と大真面目に翔吾は思う。何よりそっちの方が面倒そうだ。どうするか……。

 その時、脳裏によぎった考えは翔吾にとって天啓だった。

 『麦穂を連れていけばどうなるだろうか』

 そうだ、このとびきり頭のネジがぶっ飛んだ女を連れていけば……何か翔吾には考えも及ばない予想外な展開を起こしてくれるかもしれない。



 ◇



 『荘厳』『静粛』といった言葉が浮かぶような閑静な高級住宅街。その町に足を踏み入れた途端、それまでとはまるで別格の光景が広がっていた。美しく巨大な一軒家が広い敷地内にそれぞれ立ち並ぶ。翔吾は見慣れていたので当然特にリアクションもなかったが、初めて見るものなら皆、驚くだろう圧巻の一言だ。

 麦穂はキョロキョロと首を回しながら物珍しげに歩いていた。翔吾が引っ張らないと、立ち止まっては豪邸を柵の外から覗き込んで観察し始めてしまう。


 「電柱と信号が見当たりませんね」

 「よく知らねえけど無電柱化されてるらしいな。地下に埋めたんだってよ」

 「なるほど欧米と同じですね」


 その中でも一際巨大な敷地が見えてきた。石造の塀が長く長く伸びて、門のその先にはシャッターが下ろされた立派な車庫がずらりと並びんているのがチラリと見える。これまで洋風建築が多かった中で、珍しい和風邸宅の大豪邸だ。翔吾は迷いのない足取りで存在感のある門の前にやってきた。門の横にあるチャイムの上には『夜陣』と表札がかかっている。翔吾は唇を舐めるとゆっくりとした動作でチャイムを押した。

 


 

 

 ────結論から言うと……麦穂は最高だった。初対面からぶっ放してくれたのだ。 

 



 


 使用人らしき女性に案内された先に、四人ほどの親戚の中年の女や男たちと一緒に、その老人は座っていた。存在感のある老人だった。ぴっちりとグレイがかった髪を撫で付けていて、灰色のジャケットを羽織っている。手には細かな彫刻の入った杖を持っていた。すらっとした鼻筋を持っていてかつては美男だったことが窺える老人だった。冴え冴えとした眼光で、麦穂にはチラリとも目も向けず翔吾だけを睨め付ける。

 

 「頼むから私を失望させてくれるな」


 開口一番にその老人、夜陣考二郎はそういった。まるで麦穂が見えていないようだ。徹底的に無視するつもりなのだろうか。麦穂は気分を害することはなくキョトンと考次郎と翔吾の顔を見比べている。


 「私がここまで栄えさせた夜陣家の名に傷をつけおって。なんとか言わんか。私は度胸なしが一番嫌いだ」


 翔吾は拳を握りしめながらも唇を結んで黙り込んでいた。そうして目を伏せる。

 

 「まあ、瑠璃子と雅弘さんの顔に泥を塗ってることがまだわからないのかしら」

 「相変わらず品がないわ」

 

 その場にいた親戚の女、叔母がたちが翔吾と麦穂を見てはヒソヒソと話をするのが視界に映る。翔吾はそれを視界の隅にうつしながらも伽藍堂の瞳でただ前を向いていた。


 「お前は……もう医者は無理だな。まあ玲真がいるからいい。お前は……弁護士はどうだ。そうだ、それもダメならいい縁談があるから────」


 言い返したことぐらい翔吾だってある。……でも何も変わらなかった。

 そうだ、無駄なのだ。どうせ逆らっても、何もこの現状が変わることはない。翔吾にはこの家でそれだけの力がない。この人生もきっと何も変わらないし、変えられないと翔吾は思っていた。翔吾の胸にはもう長いこと、鉛のように持ち上げられない重たい諦念が燻っていたのだ。

 きっと翔吾は決められた職業について、決められた女と結婚する。そうして考次郎に決められた人生を歩むのだ。この家のものたちは皆そうして生きている。その生き方に疑問を浮かべることもない。

 この家で、ただ一人。

 翔吾だけはこの家、『夜陣』を背負って生きることが嫌だった。とにかく抜け出したかった。ここじゃないのならどこでもいい。

 ここは、息がしづらい。

 

 「あの……」


 麦穂の声だった。翔吾はハッと顔を上げる。麦穂はあの妙に力強い光を瞳に宿していた。太陽みたいな目だ。


 「お前さんは、……翔吾のなんだ」

 「友達です」

 「……そうか。それじゃ二度と翔吾に関わらんでくれ」

 「お断りします」


 麦穂はすっぱりと言葉を放った。本当に堂々とした振る舞いだった。


 「……わかっとるわかっとる。いくら欲しいんだ?」

 「お金なんてどうでもいいですよ。たくさんあったところで邪魔なだけです」

 

 麦穂はいつも通りだった。まっすぐに考次郎を見つめている。

 

 「それは……珍しい考えだな」

 「翔吾くんの交友関係は、翔吾くんだけがどうこうできる権利を持っているんです。翔吾くんの人生もそうです。翔吾くんは誰かに使い潰されるようなつまらない人生を送る人じゃありません。翔吾くんはこれから、翔吾くんの思う通りに、翔吾くんが楽しい人生を送るんです」


 いつしかその部屋はシン、と静まりかえり麦穂の声だけが響いていた。


 「絶対にそうするべきだし、周りが翔吾くんにそうさせないって言うのなら……私が翔吾くんを攫います」

 「は!?」

 「何を……」


 麦穂は窓から差し込む光にあたって、輝くようだった。なぜか心臓が跳ねる。瞳にキラキラと光を反射させながら、麦穂ははっきり言い切った。

 

 「こんなつまらなくて悲しい人たちに翔吾くんは任せられません!! 私が貰います!!」

 「はあ!?」

 

  翔吾は目を見開いて麦穂を見つめていた。誰もがあんぐりと口を開ける沈黙の中、考次郎がくっ、くくと堪えるような声を出し、次第に大きく口を開いて爆笑し始めた。周りの人たちはポカーンとその様子を見ている。そのいきなり始まった笑いの発作のようなものが収まった後、考次郎はフー、と息を吐いて翔吾に向かって言った。


 「で、お前としてはこれは予想通りなのか?」

 「は? そんなわけ──

 「この娘っ子は聡い子だ。お前の望みを察して行動してくれたんじゃないのか。全く、ここまで言わんと分からんとはな。まあ”顔だけ男”の割に趣味だけはいいと褒めてやってもいい」


 違う、そんなこと────と思ったとき翔吾は一つ、心に思い当たるふしがありハッとした。そうだ、それならばなぜ麦穂を連れてくる必要があったのか。本当に麦穂を大事に思うならば、こんなところに連れてくるべきではなかった。白い目で見られている翔吾の連れで、しかも麦穂はいい家柄でもなんでもないごく普通の女だ。いい扱いを受けられないのはわかっていたことだったろう。

 それなのに、なぜ連れてきたのだ。……答えは一つしかない。

 

 ”俺の人生を代わりにぶち壊して欲しい”


 無責任に翔吾は麦穂に勝手な期待を抱いていた。だが確かに、ずっと心の底で思っていたことだと、翔吾は気づいた。




 

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