第10話
「お前、見たぞ」
その言葉に煙草をふかしていた翔吾は顔を上げた。ここはカラオケの薄暗い一室。にっと勝哉が笑いかけながら続ける。
「この前女の子と歩いてたろ。いやー驚いたな、なんせお前が心底幸せそうに笑ってるんだからさ」
隣では匡人がニコニコと笑っている。めんどくせえのに捕まったという顔を隠すことなく翔吾は顔を歪めた。勝哉は気にすることもなく翔吾の肩に腕を回すと顔を覗き込んで言った。
「一発で分かったぜ、あの子だろ、最近お前が付き合い悪いのは」
勝哉の瞳には確信の光が宿っていた。匡人がジョッキを傾けながら言葉を紡いだ。
「あの時声をかけなかった俺たちに感謝してくれよ」
「そうだよ。誰だよあの子、水臭いな紹介しろよー」
ニヤニヤと面白がる気満々の二人に翔吾は渋い顔をする。
「うるせーな、鬱陶しいんだよ」
「またまた、満更でもないくせに」
ギロっと睨むも匡人は気にした様子もない。居心地が悪くなった翔吾はスマホで時間を確認して鞄を肩にかけ立ち上がった。そろそろ麦穂と会う時間だ。勝哉と匡人もそれを見て立ち上がる。翔吾は顔を引き攣らせた。
「まさかついてくる気じゃねえだろうな」
「そうだけど?」
「俺たちどうせ、暇だしな」
絶句するも、二人はニコニコとこちらを見るだけで譲る気はないようだ。翔吾の睨みにもテコでも動かない。
「はあ? マジかよ……。チッ言っとくが出るかどうかわかんねえからな」
彼らの絶対に折れないという強い意志に、翔吾は仕方なくスマホを取り出すと『麦穂』の文字をタップした。出るなよ……という願いも虚しく機械的な呼び出し音の後、『もしもし、どうしたんですか翔吾くん』と聞き慣れた生の声とは少し違う、麦穂の声が聞こえた。
「こういう時だけ簡単に出やがって……」
『はい?』
「いや……あのさ、今日だけどダチを連れてってもいいか? ついていきたいって聞かねえんだ。嫌だったら断ってくれても全然構わねえが」
麦穂は二つ返事で答えた。
『翔吾くんのお友達ですか? 珍しいですね。いいですよ! 面白そうですし』
だろうな。お前はそういうと思っていた。だから電話なんてしたくなかったんだ。翔吾は顰めっ面で振り返って言った。
「許可が出た」
◇
麦穂は、木にかけた梯子の上で器用にバランスを取って、スケッチブックに鉛筆を走らせていた。鼻歌を歌いながらご機嫌に麦穂は鉛筆を握る。その視線の先にはぴいぴいと泣き喚く燕の雛たちがあった。親が戻ってくる前に描き上げなくてはならない。
「あ、」
しかし、その時強い風が吹いた。梯子とともに麦穂の体がグラと傾く。麦穂は目を丸くしてスケッチブックはしかと抱きしめたまま、浮遊感に身を任せた、その瞬間。
「ッ馬鹿野郎!!」
聞き覚えのある、荒げた声が聞こえた。覚悟していたものとは違う衝撃が麦穂に訪れ、自分とは太さも長さもまるで違う腕に抱かれていることに気づく。
まだ呆然とした麦穂が見上げれば、息を切らした翔吾がいた。両手で守るようにかたく麦穂を抱き、背中に梯子が倒れても歯を食いしばり呻き声ひとつあげない。
「お前、マジで危機感なさすぎだろ……! 俺を何度ハラハラさせれば気が済むんだよ」
翔吾は心の底から安堵しながら、腕の重みを噛み締めていた。あの梯子がかかっていた木はそこそこ高く、あのまま落ちていればただでは済まなかっただろう。もちろん、さらに梯子がその上から倒れてくれば……想像もしたくない。
「翔吾くん、背中! 大丈夫ですか!? 大丈夫じゃないですよね! ごめんなさい、私のせいで、て、手当しなくちゃ!」
麦穂が腕の中で焦ったように言葉を募らせるのを目を閉じてきく。背中なんてどうでもいいから、まだこの安堵に身を浸していたかった。
「やばいね、翔吾相当マジじゃん」
「間に合ってよかったな。それにしても遠くから見た限り、だいぶ強打してたな。大丈夫か?」
背後から声が聞こえてきて、目を開ける。麦穂を下ろすと翔吾は振り向いた。歩み寄ってきたのはいきなり駆け出した翔吾に置いてかれた二人だった。
「ああ、忘れてたわ。チャラそうなのが匡人で、こっちの赤髪のやつが勝哉だ。俺のダチ」
「どーも、匡人です」
「勝哉だ」
匡人は翔吾の言葉に怒るでもなくニコニコと微笑んで言った。勝哉はぶっきらぼうに首に手をやって言う。麦穂はそれどころじゃないというのに思わず答えてしまった。
「よ、よろしくお願いします、麦穂と言います……ってそんなことより翔吾くん背中!!絶対あざになってますよ」
「あざくらいなんともねえよ」
「まあ、喧嘩の時なんて、これでビビってたら勝てないからねー。翔吾は
「病院の息子のくせに病院嫌いだもんな、翔吾」
「ダメです! 絶対手当します!!」
麦穂は頬を膨らますと容赦なく翔吾の背中を押して、屋敷に向かわせる。
「イタッ……オイ押すなって、痛えよ」
「じゃあ自分の足で歩くことですね」
「はあ? お前何怒ってるんだよ」
「怒ってません!」
匡人と勝哉は顔を見合わせると、お互いにニヤとした。そしてポケットに手を突っ込んだり頭の後ろで手を組むと、麦穂と翔吾の後をついていった。この二人は面白そうな予感がぷんぷんする。翔吾じゃないが、退屈とは程遠い二人だ。
「あのー……スケッチさせてください!!」
麦穂が無理に行った翔吾の手当も終わり、「暇だな」「この後何する?」と言う雰囲気になった時。麦穂は頬を上気させてスケッチブックを抱え、匡人と勝哉に向かって言った。
「えっ俺らを?」
「翔吾じゃなくて?」
絵にして見栄えがいいのはどう考えても絶世の美男子である翔吾だろうと、二人は顔を怪訝そうに歪める。麦穂は人差し指を頬に当てて言った。
「私、翔吾くんを除くと、不良と初めて知り合いになるんですよね……記念に描かせてください!」
「まあ、いいけど……」
二人はいまだに怪訝そうな顔だ。匡人が何かに気づいたように言葉をこぼす。
「あ、待って。どうせ描くならアレも一緒に描いてよ」
「アレ……?」
匡人についていくと、階段の脇にとめられたものが見えてきた。麦穂はパアと顔を輝かせる。
「これで来たんだよ」
そこにあったのはピカピカと輝きを放つのは三台のバイクたちだ。艶やかに光を反射し、滑らかな流曲線を描いている。
「わあ! かっこいいですね!!」
「だろー?」
「三台あるってことは……翔吾くんも乗るんですか?」
「まあな、これが俺の」
翔吾くんが指さしたのは、大型バイクだった。黒の車体が光を反射し鈍く光る。銀色のマフラーが眩しい。
「かっこいい! 翔吾くんって感じしますね」
「……乗せてやろうか?」
「いいんですか! じゃあ早く描きますね、楽しみです!」
麦穂は早速、スケッチブックをめくると、鉛筆を走らせる。描くのはバイクとその横に立つ、匡人と勝哉、そして翔吾だ。三人がバイクに体重をかけながらも、照れ臭そうに微笑む姿を見て、麦穂は眩しそうに目を細めた。
「なんか、照れるなー」
匡人が頬をかく。麦穂は匡人のバイクに差し込まれた鍵のキーホルダーに目を向けた。
「匡人くんは、ギリシャ神話が好きなんですね」
「えっ?」
匡人が目を大きくする。
「それ、スピンクスですよね。ギリシャ神話に登場する怪物の」
「よくわかったね」
匡人が鍵を持ち上げる。麦穂にはわかった。手元で揺れるキーホルダーはデフォルメ化はされてはいるものの、乙女の顔と蛇の尾を持ち、翼のある獅子に似た怪物スピンクスの特徴をよく捉えている。エジプトのスフィンクスが起源となったともいわれる、怪物だ。
「堕落したテーバイ人を懲らしめるため、ヘーラーの命令でピキオン山に使わされた。スピンクスは崖の上から旅人たちに謎をかけた。その謎とは『朝は4本、昼は2本、夜は3本で歩く生き物は?』と言うものだった。答えは────」
「────人間。謎を解けなかった者は、次々と餌食になれる中、オイディプスだけが答えることができたんだよね。……驚いたな、麦穂ちゃん詳しいんだね」
「えへへ、個人的にスピンクスはギリシャ神話で一番賢いと思ってます」
「俺はメーティスかな」
「何言ってるかわかるか?」
「全然」
翔吾も不機嫌そうに眉に皺を寄せて聞くが、勝哉が耳をほじりながら答えた。
「できました!!」
麦穂は出来上がった絵を見せた。三人がそれぞれバイクの横で楽しそうに顔を合わせる様子を詳細に映し取ったもので、彼らが仲の良い友人なのが見てわかる。
「すげえな……上手いことしかわかんねえけど、めちゃくちゃ上手いってことだけはわかる」
「翔吾に言われて知っていたとはいえ、驚いたな」
「えへへへ」
翔吾がバイクに鍵を差し込みながら、麦穂の方を振り向いて言う。
「じゃ、行くか」
麦穂が頬を染め開けっぴろげな笑みを顔いっぱいに浮かべる。
「うん!」
翔吾は背後に麦穂が座り、しっかり腰に手を回しているのを確認すると、エンジンをかけた。
バイクは加速し走り出し出す。
風が気持ちいい。潮風が鼻先をくすぐる。
背後で複数の歓声が聞こえてきた。振り返ると匡人と勝哉がバイクを走らせている。キラキラと輝く海沿いを走る気持ちよさは何者にも変え難い。翔吾は口端を緩めた。
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