第9話

 鉛を張ったような曇り空が広がっていた。目の前に聳えるアトリエには煌々と電気が灯っている。忌々しいほどにその姿は白く美しい。翔吾は玄関の扉に手を伸ばしてドアノブに手をかけた。しかし、困ったことにそこから体が固まったように動かない。翔吾は自分でも情けなくて笑いが浮かんできた。自分はこんなにも臆病だっただろうか。今更だが、そこでやっと翔吾はとっくに麦穂が失いたくないものになっていたのだと気づいた。

 翔吾は眉にギュッと皺を寄せるとドアノブを掴み一気に扉を開けた。扉に鍵はかかっていなくすんなり開く。中に足を踏み入れれば、すぐに探し求めていたその姿は見つかった。鉛色の海に面した窓の前でキャンバスに向かい合う麦穂の小さな背。その背だけは仲違いする前から何も変わらない。一心不乱に筆を走らせていた麦穂だったが、ふと手を止める。そして翔吾を振り返った。その瞳に翔吾が映ると、まんまるに目が見開かれた。翔吾は何と声をかければいいのかわからず二人の間に無言の時間が流れる。気まずい中、翔吾は視線を滑らしてその絵を見た。

 麦穂が描いていたその絵は雷が落ち、荒れた空の絵だった。闇が裂け、光が走る。目もくらむ稲妻が黒い空を裂いて凄まじい雷を落とす。雷鳴が聞こえてきそうな迫力。端的に言って翔吾はその絵に目を奪われた。


 「どうでしょうか、翔吾くんから見てこの絵は」 


 麦穂は絵の方を向いて、言葉を発した。不自然なほど淡々とした口調だ。あの人懐こい笑顔がない麦穂に戸惑い柄にもなく不安を覚えたが、その絵の前に翔吾は気付けば嘆息するように自然と言葉を漏らしていた。

 

 「良い絵だな……」


 本当に惹かれる絵だった。ぐいと心を掴まれ、そして掴まれたからには簡単には離してもらえない絵というのがある。この絵がまさにそうだ。人間なんかではとても敵わない圧倒的な自然の脅威と、美しさ。そしてどこか心の奥底に忍び寄る不安を感じさせる。胸に迫るのは心地いい感動だけではなかったが、間違いなく心を動かすものがあるのだ。それを聞いて麦穂はふっと口角を緩めて笑った。淡く静かな笑みだった。


 「翔吾くんが来なくなった間描いていたんです。最初は手につかなかったんですが、気づけばいつも通り筆を手にとって描いていました」


 透き通った湖畔のように静かな声だった。胸に込み上げる不安のような焦燥感が胸を這う。耐えきれず翔吾は麦穂に視線をやった。今日の麦穂は普段の麦穂と明らかに違う。つい数刻前まで嵐だった空が今度は嘘のように静まり返っている時のように、とらえどころのない雰囲気。子犬のような何のかげりもない眩しい笑顔が似合う、あのいつもの麦穂じゃない。

 ……やはりまだ怒っているのだろうか。なんと声をかけるべきか迷う翔吾をよそに麦穂は目を伏せ言葉を発する。

 

 「翔吾くんがここにきてくれないと会うこともできないことに気づいて、恐ろしくなりました」


 ふと白くなるほど握りしめられた筆を握る麦穂の手が目に入る。翔吾は麦穂の目を見た。睫毛が震えて薄茶色の瞳が揺れるのを視界に入れて思う。翔吾はそれに気づいた時どっと肩の力が向けるような心地に襲われた。「なあ、」と翔吾が声をかけようとしたその時麦穂が口を開く。


 「私は、」

 

 「私はきっと普通じゃない」

 

 その触れれば割れてしまいそうな雰囲気に翔吾は黙り込んだ。その揺れる瞳は手を伸ばせば拒絶されてしまうのではないかと、翔吾に錯覚させた。

 

 「普通じゃないって……」

 「私が初めて普通じゃないと気づいたのは、私に死んで欲しいと願う人がいることに気づいたときです」

 「直接言われるまで気づかなかったんです。友達だと思っていました、自分がみんなの前で馬鹿にされて笑われていることにもそれまで気づきませんでした」


 麦穂は気づかなかった。そのグループの中で麦穂一人が浮いているのを。みんながくすくす笑う時は、麦穂はとりあえず笑っていた。困った時は笑っておけばいいのだ。それが勉強でも運動でも社交性でも普通より少し劣った麦穂の処世術だった。だって祖父は『麦穂は笑顔が可愛い』と誉めてくれたから。それを疑うことなんて麦穂は一度もしなかった。……それは何にでも通じるわけじゃないのを麦穂は気づいていなかった。

 教室でお喋りに興じているある日のことだった。よくわからないけど、みんなが笑っている場面。いつも通り麦穂も愛想笑いをする。その時友達だと思っていた子が奇妙な歪みを顔に浮かべた。ふう、と息をついてゆっくりと麦穂の前に歩み寄ったその子は、麦穂を突き飛ばした。麦穂はよろけ、机を巻き込んで床に尻餅をついた。訳もわからず顔をあげた麦穂はハッと息を呑んだ。

 その場に揃うクラスメートたちがこちらを見ている。その瞳に浮かぶのは嘲笑。笑っているのだ。

 

 『麦穂ちゃん、バカすぎて分かんないみたいだからはっきり言ってあげるけど、……死ねよ』

 『いいかげん、キモいんだよ。バカにされてんの麦穂ちゃんだから。ヘラヘラしてんじゃねえよ』


 こんな時、「えっ」という間の抜けた声しか出ないのが自分でも馬鹿みたいだと麦穂は思う。ここまで純粋な悪意に晒されたのは初めてで、どうすればいいのかわからなかった。ただ地面が遠くなり揺れている感覚があった。一周回って夢でもみているみたいだ。そうだ、これは悪夢だ。

 遠くで笑い声が聞こえる。みんな、笑っている。ああ、これまでもきっとそうだったのだろうと、その時やっと麦穂は気づいた。いつもそうやって麦穂のことを嘲笑っていて、気づかないのは間抜けな麦穂一人。その日から麦穂の居場所は無くなった。

 暴言、ものがなくなることは日常茶飯事。絵を描いたスケッチブックを塗りつぶすように罵詈雑言や低レベルな落書きが書かれることもあった。そして、純粋に麦穂に一番ダメージを与えたのは殴りかかる真似をしてくる男子たちだった。その拳がたまたま頬に掠ったとき、麦穂は心が折れた。

 もう、無理だった。

 

 「……そいつの名前は? 住所も言えるか?」

 「ハハハ、言えるわけないじゃないですか。いいんです、今の方が大事ですし」

 

 麦穂は困ったように頬をかいた。

 

 「それに異物は排除するのが動物の性、しょうがないんですよ」


 翔吾は額に皺を寄せた。正直、これくらい想像していたことだ。きっと麦穂が学校に行きたくなくなるような、麦穂にとって嫌なことがあったのは分かっていた。いじめなんざ、人間ゴミが集まればどこでも、誰にでも起こることだ。翔吾の予想の域を出ないことだ。

 だというのに、この腹の底に這う不快感は何だ。カッとマグマが身体中を駆け巡る。沸騰するような怒りで頭がおかしくなりそうだった。やり場のない苛立ちに頭の芯がチリチリと音を立てる。翔吾は自分でも理解できなかった。麦穂といると自分が自分じゃなくなるような感覚がある。己が握りしめた拳が震えるのを翔吾は不思議な心地で眺めた。

 


 「普通に合わせるのは苦しくて息がつまるんです。だから人は嫌いです。でも、」

 

 そこで初めて麦穂は翔吾を真っ直ぐ見る。いつも飴玉みたいに好奇心にキラキラと輝き、弾けるような瞳。透き通ったカラメル色のそれがゆらゆらと揺れる。

 

 「翔吾くんといるのはたのしい」

 

 翔吾はぐっと胸が詰まるような感覚を覚えた。喉が震える。

 

 「辛いことも、つまらないこともしたくないんです。必死に普通に合わせることもしたくない。私の人生をもう1秒だって無駄にはしたくないんです」

 

 麦穂は眉を下げて笑った。それを見て翔吾は唇を噛み締める。妙に悔しかった。

 

 「自分がやりたいこと、やってみたいことをやるのが一番です。私は、楽しければそれでいいんです」


 翔吾は舌を湿らせるとゆっくりと口を開いた。

 

 「俺も悪かった……お前に俺の意見を押し付けた。でも、お前の絵を見て確かに俺は惹かれたんだ。目に入れた瞬間、息を呑んだし、うまく言葉にできねえけど何か他とは違う引力みたいなもんを感じた。才能あるのにもったいねえなと思ったんだよ」

 「……そこまでいうならしょうがないですね」


 頬を赤くして麦穂が笑う。顔をくしゃくしゃにして幸せそうに。ぞくっとするくらい魅力的な笑顔だった。

 

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