第8話
麦穂は筆を放り投げて言い放った。
「飽きました、この絵はボツです」
テーブルの上には描きかけの絵と、花瓶に生けられた紫陽花が咲いている。あれ以来、特に進展がなく麦穂は苛々していた。その日のアトリエには煌々と電気が灯り、窓の外には嵐が来る前のようにどんよりとした曇天が広がっている。
「ふざけんな。……もったいなさすぎるだろうが」
翔吾は途中まで描かれた絵を見て眉を顰める。色が塗られ、乱雑に色が重ねられた花々はこれからもっと美しく咲き誇ることができたろう。ここ最近ずっとそうだ。最後まで絵を描かない、飽きただの何だの理由をつけては描こうとしないのだ。筆を握ってみるもどれも最後まで描かず放り出してしまう。翔吾はもどかしい気持ちが腹の底で燻っていた。麦穂には間違いなく才能がある。限られた者しか持つことができないような才能だ。それだけやれて、なぜもっと上を目指さないのか。
「最後までかけ」
「……もうこの絵は描きたくありません。飽きたんですよ」
突き放すように麦穂はそっぽを向きながら言い放つ。刺々しい声だった。翔吾の言葉も鋭くなる。
「ここまで描いといて放り出すってのか。最後まで描く癖ぐらいつけろよ」
麦穂は頬杖をついてそっぽをむき、顔を歪めそれを聞いていた。そうしてイライラしたように頭を掻いた麦穂は沈黙の末、肺の底から深いため息をついた。
「はあ……別に、いいじゃないですか」
麦穂は固い声で言葉を発した。じろりと翔吾を睨みあげる。
「……あ?」
「ほっといてくださいよ。翔吾くんに関係ないでしょう?」
乱れた髪の間から、麦穂の目が覗く。傷ついた野生動物のようにその瞳は完全にこちらを敵だと認識していた。それを見た途端、翔吾は得体の知れない不可解な感情が胸を這った。麦穂はなんだかんだこれまでずっと翔吾に好意的だった。翔吾は眉に深い皺が刻み、緑がかった瞳で麦穂を睨みつけることしかできない。
「こんな絵、完成しようがしまいがどっちでもいいし、どうでもいいんですよ。もう意味なんてないんです。くだらない」
「ッチ、最後までかけって言うのは”普通”のことだろうが。お前だってやりたくないからやらないだけで、やればできるだろ」
その言葉に麦穂は歯を食いしばるとキッと睨みつけた。翔吾の剣呑な様子も全く気にも留めず、激しい口調で言葉が叩きつけられる。
「苦痛に濡れながら描いた時間に何の価値があるって言うんですか!! つまんないんですよ、楽しくないんです! 翔吾くんなんかに何がわかるんですか!! お願いだから私に指図しないで!!」
その場に落ちたのは重い沈黙だった。これまで何の問題もなく過ごしてきた二人の間に今初めて決定的なヒビが入ったのを、翔吾は感じた。
「……分かった、もういい」
翔吾は鞄を肩にかけると立ち上がった。麦穂は翔吾の顔を見て目を見開く。麦穂が何かを言いかけたが、翔吾はそれに目を向けることなく部屋から出ていった。
「──であるからしてこの問題はこの公式を使うので、答えは」
静かな教室に黒板にチョークが当たる音が響き、無機質に秒針が進む。真面目にノートをとっている生徒たちの丸まった背を翔吾はつまらなさそうに眺めた。穏やかで緩やか。麦穂と出会うまで死んでいたあの時間が、また退屈がやってきた。
翔吾は椅子の背もたれに寄りかかると欠伸を零し、ふと窓の外に視線を投げた。窓の外は細かい雨が降っていて、気が滅入るような雨の音が絶えず続いていた。この天気だ、屋上でサボる気にはなれない。
翔吾が窓の外に思いを馳せているうちに教師がプリントを配り始めた。一番前の席の人がプリントを後ろに渡し、またそれが繰り返される。翔吾の前に座っていた線の細い青年が恐る恐るといった調子でこちらを振り向く。眼鏡のレンズの奥の瞳に怯えの色が浮かんでいて、翔吾は努めてにこやかにヘラりとした笑みを浮かべた。が、青年は「ひっ」と裏返った言葉をこぼした。何でだよ。そんなあからさまに怯えなくてもいいだろうが。
ふと、翔吾はなぜか麦穂のことを思い出した。麦穂は明らかに不良然とした姿とガタイの翔吾にも一切怯まず噛みついてきた。先のことを考えてないだけかもしれないが。麦穂はいつも真っ直ぐに目を見つめてくる。無性に翔吾はそれが恋しかった。
時々授業を受けては、またサボって、そうして日常が過ぎる。
麦穂からのメッセージがないとあのアトリエに行く口実すらない。かといって自分から麦穂の元へ歩み寄るのも癪だった。なぜ俺が、という思いが抜けなかったのだ。
『翔吾くんなんかに何がわかる』
言われた時にはただ苛立ちを感じた。次に落ち着いて心の中を整理する時間ができてから麦穂のセリフに傷ついている自分がいることに気づいて愕然とした。罵倒にもならないような子供っぽいセリフだ。少なくとも今まで受けたことのある罵倒に比べれば、赤子のパンチより優しい言葉だ。これが麦穂以外に言われたのだったら鼻で笑っていただろう。なぜだろう、こんなにも心に引っかかって抜けないのは。
麦穂のいない日常が何でもないかのように繰り返される中、なんで俺が下手に出てやらねえといけねえんだ、と言うモヤモヤした気持ちがシュルシュルと萎んでいく。
翔吾は自室でベットに仰向けに横たわり額縁に入った絵を眺めていた。目に飛び込んでくるのはみずみずしい青。遥か一面まで眩しい光のざわめきが広がる、煌めく海の絵。麦穂にもらったあの絵だ。この絵を眺めていると胸に迫る淡い興奮があるのだ。
この絵には美しいだけでない魅力がある。妙に惹きつけられて目が離せない、まさに麦穂のような絵。
翔吾は悔しさで胸を掻き乱される気持ちだった。なぜ麦穂はコンクールに出ないのだろう。あれだけの実力があって、なぜ、日の当たるところに出ないのだ。翔吾は眉に皺を寄せると唇を噛み締めた。こんなにもおだやかな感動を人に与えられるような才能がある。それをこのまま人知れずくさらせてしまうのか。
そんなのもったいないだろ。磨けばもっともっと輝くだろうこの才能の原石が埋もれたままなのは、あまりにももったいないと翔吾は思うのだ。麦穂の才能はもっと人に認めてもらうべきだ。翔吾には分かる。これはこんなところで燻らせていい才能じゃない。
それに……翔吾は寂しそうな麦穂の顔を思い出した。麦穂は人懐こい。本来人と関わるのは好きなはずなのだ。自分の絵を褒められるのだって翔吾の最低限の褒め言葉にいつもあんなに嬉しそうにしている。この才能があれば麦穂はたくさんの人に囲まれるだろう。一人ぼっちで絵を描き続けるよりいいはずだ。
場所が変わり、薄暗いカラオケの一室。翔吾は膝に足を乗せてソファに気だるく腰掛けていた。その場に揃うのはいつもの三人。しかし翔吾は気もそぞろだ。先ほどからずっとスマホを気にしているのを匡人は気づいていた。
「見ろよこれ。いいだろ」
勝哉がニッと笑って見せびらかすのはAirPodsだ。ソファの背もたれに肘をついて頭を預ける翔吾は胡散臭げにそれを眺める。
「金欠って言ってなかったか?そんなもん買う金どこにあったんだよ」
「前に行ったろ、バイトだよ」
「ふーん」
興味なさげに翔吾は返事をしてまたスマホを持つ。「チェ、少しは興味持てよなー」と勝哉は気にした様子もなくポテトを頬張る。また気だるい仕草でスマホに視線を落とす翔吾に匡人は見かねて尋ねた。
「翔吾、最近悪いことでもあった? 機嫌悪いっていうか、また元に戻ったみたいだけど」
「確かになー……女にでも振られたとか?なんてな、ハハハ」
何も答えない翔吾に勝哉は口を開けたまま固まった。匡人も目を見開く。
「え、マジ?」
「……ちげえよ。そんなんじゃねえ」
頬杖をついた翔吾は顔を顰めて拗ねたようにそっぽを向いた。
「いやその反応はマジのやつじゃねえか」
「ちげえって!」
「でも、女の子でしょ」
「……」
「もしかして翔吾が生き生きとし始めたのってその子に会ってからじゃない?」
「……生き生き?」
翔吾は思わず聞き返した。しかし勝哉も「してたしてた」と何度も頷く。
「気づいてなかった? それまでより楽しそうだったよ」
翔吾は額に皺を浮かべて黙り込んだ。確かに麦穂に出会ってから翔吾は退屈じゃなくなったが、側から見てもそんなに分かりやすかったのか。少し気恥ずかしい気分だった。
「喧嘩でもしたの?」
「……ああ」
「仲直りしたら? 翔吾がそこまで本気になれる人なんて、滅多にいないと思うよ」
匡人の優しそうな瞳が翔吾を真っ直ぐ射抜く。純粋な善意から匡人は言っていると翔吾は気づいて、妙に照れ臭くもあったがそのアドバイスは素直に心に沁みた。
「……ああ。ありがとな」
翔吾は口元を緩め、笑みをこぼして言った。
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