第6話
翔吾はスマホに映ったその文字を見て目を見開いた。
『今日は無理です。おじいちゃんが倒れたので。詳しくは後日連絡します』
メッセージアプリで届いたその文章は無機質で、だからこそことの重大さを察した。アトリエに向かう道の途中のことだった。学校終わりにあのアトリエに向かうのは翔吾にとって習慣になりつつある。海沿いの道を歩いていた翔吾は一旦は立ち止まったが、眉に皺を寄せ少し考えたあと、また歩き始める。足は自然とアトリエに向かっていた。麦穂は祖父を慕っていた。そんな麦穂の気持ちの気持ちを思うと翔吾の心にもほんの微かに心配の色が芽生えていた。
歩くうちに木々に囲まれた美しい白い洋館が見えてくる。人の気配がなく静かなその洋館は生気がないようにしんとしていた。ドアノブに手をかけるが鍵がかかっている。いつも扉が開けられていて、中では麦穂と春草が迎えるこの洋館に漂う空気の暖かさのようなものが消え失せていた。人のいないこの洋館は美しすぎて寂しささえ感じる。翔吾が諦めて背を向けて帰ろうとした時、門が開く音がした。麦穂だ。麦穂は翔吾を目に入れると少し驚いていた。
「今日は無理って送ったのに。来ちゃったんですね。誰もいなかったでしょう」
その日の麦穂は少し様子が変だった。何というか溌剌としたあの雰囲気がなかったのだ。いつものように翔吾を見ても瞳をキラキラさせて駆け寄ってくることもなかった。……そんなに春草の具合が悪いのか。翔吾は少し心配の色を滲ませて尋ねた。
「もう近くまで来てたんだよ。それより、じいさん大丈夫なのか?」
麦穂は眉を寄せて言葉を溢した。
「私も詳しくは知らないんですが……どうやらひったくりにあったみたいです」
「ひったくり?」
「はい、命に別状はないんですけど、腰を強打したみたいで。入院する際に祖父のスケッチブックを持ってくるように言われたので明日持っていくんです。翔吾くんも一緒にどうですか」
「……どこの病院だ」
首を傾げながら麦穂が教えてくれた病院名に、翔吾は顔をこわばらせた。
「わあ見てくださいあれ!」
ガタンゴトンと揺れる電車で翔吾は星のように流れていく景色を眺めていた。隣にはキラキラと瞳を輝かせて窓に張り付く麦穂の姿が。翔吾は相変わらずの麦穂に呆れていた。なんだ、怖いくらいいつも通りじゃないか。
電車を降りて駅を出ると、フラフラとどこかへ消えそうになる麦穂の腕を引っ掴んで目的の病院に向かう。
これまで何度も麦穂と行動を共にしてきた翔吾は、自分ほどこの”麦穂”という謎の生き物の生態について詳しい人間もいないだろうと思い始めていた。こいつは変な奴だという一言では片付けられないほど奇天烈な女だ。
麦穂は財布を無くしたり、鍵を無くしたり、スマホを無くしたり……無くしものは一度や二度じゃない。好奇心だけは三歳児並みなため、こちらが気を抜けばすぐ迷子になる。そして地図が読めず、一人で知らない道を歩かせれば間違いなく迷子になるのはもはや確定だ。絶望的に空間把握能力がないのだ。おまけに一度迷子になると下手すると二度と合流できない可能性が高い。連絡しようにも、信じられないことにスマホを充電することすら忘れることがあるため、電源が入ってないこともザラだ。つまり、電話をしても繋がらない。
そんな未確認生命体”麦穂”の世話を焼きながら歩いているうちに、翔吾たちは病院に到着した。木々の間を縫うように遊歩道が設置されている。巨大な総合病院を見上げてまじまじと麦穂は呟く。
「大きいですね」
「……ああ」
一歩足を踏み入れて、病院特有の強い消毒液の匂いが鼻を掠める。クーラーの効いたロビーは外来の患者で混み合っていた。受付で面会表の記入を済ませ病室に向かう途中。麦穂は突然言い出した。
「トイレ行きたいです」
「荷物持っててやるから、さっさと行ってこい」
しかし翔吾はこの麦穂の唐突さにも慣れたものだったので、スケッチブックやら色鉛筆やらが詰まった手提げ鞄を受け取るとトイレまで案内してやった。全く世話の焼ける。翔吾は自動販売機の隣の壁にもたれて深いため息をついた。こいつと付き合っていると死ぬほど疲れる。というか俺でなければ付き合いきれないんじゃないか、こいつは。
そんな時だ、聞きたくなかった声が聞こえたのは。
「ここで何をしている」
振り向くと白衣をきた長身の男が立ち止まって冴え冴えとした眼光で翔吾を見ていた。そこそこ歳を重ねているようだが相手を射殺しそうな鋭い切れ長の目が歳の衰えを感じさせない。今も心底不快そうに眉に皺を寄せている。翔吾は思わず舌打ちをこぼした。同じく翔吾の眉間の皺は刻み込まれたように深い。
「テメエに関係ねえだろ」
「答えろ翔吾。まさか俺に恥をかかせるためにわざわざここに来たんじゃないだろうな」
翔吾は苛立ちのあまり腹の底が煮えくりかえるようだった。答える価値を感じず、半分瞳孔が開いた目で黙り込んでいると、男はふと翔吾のすぐ前にあるトイレの入り口を見て口を開いた。翔吾が誰かを待っているのがわかったのだろう。
「まだ頭の悪い奴らと連んでいるのか。付き合う相手は選べと言っただろうが」
「…………消えろよ」
翔吾はこめかみに血管を浮ばせながら、目を伏せて髪をかき上げた。耐えきれずここでその面を殴り飛ばすまえに、目の前から消えて欲しかった。今更、こいつに恥をかかせるのも、こいつを殴り”夜陣さんところのバカ息子”と人から呼ばれるのも構わなかったが、麦穂と春草には迷惑をかけたくなかった。その時、看護師が駆け寄ってきて少し切羽詰まったような声で彼を呼んだ。
「夜陣院長……!」
それに一瞥を返すと、翔吾がクソ親父とよんで憚らない夜陣雅弘は白衣を翻し、こちらに背を向けた。
「くれぐれもここで問題を起こすな。肝に刻め」
「どうしたんですか、……怒ってます?」
「……なんでもねえよ」
戻ってきた麦穂とともに今度こそ春草が入院している病室へ向かう。麦穂が軽くノックをして扉を上げる。まず病室の白い壁が目に入った。車輪付きのベッドに身を起こしているのは春草だ。
「二人ともきてくれたんだね」
春草は春のタンポポのように暖かく朗らかな、いつもの笑みを浮かべて翔吾と麦穂を出迎えた。その様子に翔吾は少しホッとしてしまった。麦穂は手提げ鞄を上げて春草にみせる。
「おじいちゃん、頼まれてたものは持ってきましたよ。……お父さんはこんな時まで仕事をさせるなって言ってましたけど。大丈夫なんですか?」
「ありがとう。全く、この歳になるとどうもみんな過保護になって嫌だね。他に何をしろっていうのかな」
春草は受け取った手提げ鞄からスケッチブックと筆箱を取り出すと、よく尖った鉛筆を取り出しいそいそと紙をめくった。その瞬間だけは麦穂に重なり、翔吾は苦笑いする。生き生きと鉛筆を走らせ始めた春草を見つめながら椅子に座った麦穂は真剣な表情で言った。
「おじいちゃん、ひったくりを受けた時のことを教えてほしいんです」
いきなり何を言い出すのかと翔吾は少し目を見開いた。麦穂を見るとまっすぐ春草を見つめている。翔吾には、麦穂に引く気がないことが分かってしまった。
「……ひったくりねえ」
春草はその言葉に驚いた様子もなく、鉛筆を握る手を止めるとゆっくりと顔をあげた。少し顔を顰めた顔で声は力ない。少し疲れたように息を吐くとポツリと春草は告げた。
「若い子たちだったよ」
「たち?集団だったということですか」
「僕にも何が何だかさっぱりだけど、鞄を引ったくった子と僕を突き飛ばした子、そして辺りを錯乱させるように走っていった子らがいたね。うまく連携しているみたいだった」
麦穂は猛烈な勢いでメモをとり始めた。翔吾はそれを背後で目を見開いて見つめる。この女何を考えている?
「場所は?」
「僕がいつも画材を買いに行く時に通る道だよ。ほら、前に麦穂も一緒に行っただろう?」
「ああ、あそこですか。路地の前ですね」
ひったくりについて詳しく聞いた後、しばらく麦穂は沈黙した。ボールペンが神経質にカチカチと音が鳴る。「ふむ」とボールペンを顎に当てて麦穂は顔を上げた。
「それで、おじいちゃんは一体何を取られたんですか?」
「何って……」
翔吾は困惑気味に言葉を溢した。取られたのは決まっている。鞄丸ごと。おそらく奴らの目的は財布だ。翔吾の言葉を麦穂は一蹴した。
「そんなことは知ってます。大事なのは鞄の中身です。……何か、おじいちゃんにとってお金よりも大事なものを奪われたんでしょう? だからそんなわかりやすい空元気を作っている」
麦穂は少しの迷いもなく断言した。麦穂は何か強い確信があるようだった。それは春草と長い間一緒に過ごしてきた麦穂だからこその確信だったのかもしれない。そして少しの沈黙の後、春草は力無く笑みを零した。
「……こういう時、麦穂は鋭いね」
翔吾は少し驚いて見つめ合う二人を見ていた。
そしてゆっくりと春草は語り始めた。
「お金も、買ったばかりの画材たちも、奪われたのは確かにショックだったけど、それくらい僕からしたら大して構わなかったんだよ。……でもペンダント。あの人から貰ったペンダントだけは……」
春草があの人、と繰り返し語るその人物は、麦穂の祖母のことだった。そのペンダントの中には若い春草とその人が写っている写真が入っているらしい。亡くなった彼女との思い出が詰まったペンダントを奪われたのがひどく辛いのだと春草は吐露した。いつもピンと張った背中をしている春草が、肩を落とし項垂れる姿はひどく小さく見えた。
帰り道は静かだった。麦穂は黙り込んで深く考え込んで、隣を歩いている。
「最近ここら辺でひったくりが多発しているのは知っていますか」
「は?……ああ」
唐突な麦穂の言葉に翔吾は頷く。テレビでも最近話題になっていた話だ。
「おそらく集団による同一犯でしょう」
「はあ?」
「手口が同じですし行動範囲も一致してます」
「待て、待てよ何が言いたい」
翔吾は嫌な予感がしていた。そして、こういう時の麦穂は誰にも止められないと相場が決まっている。麦穂は口を開いた。
「ロケットペンダントを取り戻すために私、この一連のひったくり犯を捕まえようと思います」
「は、はあああ?」
立ち止まった麦穂は瞳をぎらつかせてまっすぐ前を見据えている。恐ろしいことに麦穂は本気だった。
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