第4話

 とりあえず電話をするが繋がらない。翔吾は「なんで俺が……」と思いつつもそれなりに焦って麦穂を探した。幸いなことにすぐに彼女は見つかった。来た道を戻れば、駅の中に店が立ち並ぶ通り、麦穂はドーナツ屋の立て看板を凝視して立ち尽くしていたのだ。それを見つけた時、翔吾は呆れからか安堵からか大きなため息が出た。ゆっくり歩み寄りながらその背中に翔吾は声をかける。


 「お前勝手に消えてんじゃねえよ。探したぞ」


 その言葉に麦穂は振り向いて、翔吾を視界に入れると口を尖らせながら少し気まずそうに言い訳を述べた。

 

 「だって翔吾君がいつの間にかいなくなってたんですもん」

 「いなくなったのはお前だバカ」

 

 自分でも苦し紛れのセリフだとわかっているのか目を合わせようとしない麦穂に、翔吾は苛立ちを込めて額を弾いた。

 そうして翔吾は、額を抑えた麦穂の背後から看板を覗き込んだ。甘ったるそうなドーナツの写真が並ぶ。期間限定の文字がデカデカと踊っていた。甘いものが好きなのか。


 「食いたいのか」

 「まあ食べたいですけど……」


 麦穂は振り向いて翔吾を視界に入れると頬を掻きながら口ごもった。なんだよはっきりしないな、と言わんばかりに翔吾は片眉をくいと上げる。

 

 「食いたいなら買えばいい、昼飯代ぐらいあるんだろ?」

 「お昼ご飯代が無くなっちゃいます」

 「これを昼飯にしたらいい」

 「でも、お昼ご飯にドーナツっておかしくないですか?」


 普通とは程遠い女が、昼食が普通じゃないと悩んでいるのが翔吾は不思議だった。食にこだわりがあるのだろうか。

 

 「知るかよ、別に昼飯くらい好きにしたらいいだろ」


 翔吾としては当たり前のことを言ったつもりだったが、麦穂は一瞬目を見開くと花が綻ぶように笑った。


 「それもそうですね!買います!」


  

 翔吾は鼻歌を歌い機嫌よくドーナツが入った箱を手に下げる麦穂の後を歩く。麦穂は軽やかな足取りで手を振りながら歩くので翔吾はドーナツの箱が振り回されれる様を見て「ああ……」と思いながら眺めた。楽しそうに笑顔を振り撒く麦穂の顔を見ていると大抵のことがどうでもよくなるのだから狡い奴だ。するとその時、麦穂は突然道端でその足を止めてしまった。

 彼女が見つめる先には小さな花が。誰もが通り過ぎてしまうような、でもよく見れば可憐と言う言葉の似合う奥ゆかしい小花だ。急かされるようにリュックからスケッチブックを取り出し、胸ポケットから出した鉛筆を握る麦穂を止めようかと考えたが、少し考えた後翔吾は「まあいいか」と麦穂の様子を眺めていることに決めた。どうせ今日一日時間はたっぷりあるんだ、ここで花を描く余裕くらいあるだろう。

 怪訝そうな顔で見てくる道ゆく人々なんて一切視界に入ってないようだ。麦穂はかぶりつくように花を観察して鉛筆を走らせている。

 注目すべきはその表情。翔吾はこの麦穂の絵を描くときの顔を気に入っていた。悪くないと思う。あめ玉のようにツヤツヤピカピカと輝く瞳、上気した頬、自然と上がった口角。心の底から楽しいと小さな顔いっぱいに描かれていた。

 この顔に翔吾は弱かった。こんな顔をされたら止められるものも止められない。そうして黙ってスケッチブックの空白が埋まっていくのを眺めていた。ふと麦穂が鉛筆を止めると隣の翔吾を見上げ不思議そうな声で零す。


 「翔吾君も変な人ですよね」

 「お前にだけは言われたくないセリフだな」

 

 翔吾は片眉をあげて言った。麦穂に比べればよっぽど平凡な人間だ、翔吾は。


 「褒め言葉ですよ、今のは」

 「へいへいありがたく受け取っとくわ」

 

 満足したらしい麦穂を連れて翔吾は今度こそ歩き出した。そして少し歩いて、視界に”それ”を見つけた。麦穂は「翔吾君!見ましたか、あれ!」と叫ぶ。そして翔吾の返事を待たずに興奮したように駆け出していってしまった。こんなに子供っぽい奴は翔吾の周りにはいない。


 「ハア、仕方ねえ奴」


 翔吾はポケットに手を突っ込むと幼児でも見るような目で駆ける麦穂を見つめた。公園に着いたのだ。

 一歩足を踏み出して視界に広がるのは、桜だった。一面に淡い花々がその美しさを誇るように一斉に咲き誇っていて、見事な美しさだ。時折風に吹かれて花びらが舞う光景は幻想的だとも言える。公園の入り口には屋台が並び、桜祭りと書かれたのぼりが風に靡いていた。各々がレジャーシートを引いて花見を楽しむ芝生の上で、麦穂は目を輝かせながら絵の具やら筆やらを出す。指で構図を決めるようにあっちこっち動き回ると、その場に座り込み新しく開いた真っ白なスケッチブックに鉛筆を走らせた。


 「あ、翔吾君。水汲んで来てください」


 麦穂はこちらにちらりとも視線をよこさず片手で水入れを押し付けた。あんまりな態度に翔吾はイラっとして青筋を浮かべた。大体ここまで連れてきてやったのも翔吾にしては破格の対応なのだ。普段の翔吾を知っている奴らが見たら度肝を抜くだろう。


 「ハ?なんで俺が……」

 「翔吾君がこの前熱心に見ていた絵をあげます」

 「……」

 

 アトリエに行った時、麦穂が描いていたあの海の絵に翔吾はひどく惹かれた。と言っても翔吾が見ていたのは絵を描いている途中までだ。完成したその絵を翔吾は知らない。何を根拠に翔吾がその絵を欲しがっていると思ったのだろうか。「別にいらねえよ」と言えばすむ話だ。しかし、翔吾は気づけば舌打ちをこぼしながら水入れを引っ掴んでいた。


 「ありがとうございます!!」

 

 きっと麦穂のことだ、あの絵を勧めるからには完成したものに自信があるのだろう。海面が光を反射して眩しく輝くあの絵を欲しいと思っていたことに翔吾は今気づいた。心の内が見抜かれていたとでも言うのだろうか。

 トイレを探して彷徨い歩いていると屋台をまた見つけた。水入れを引っ提げた翔吾はそれを眺めながら道を歩く。そしてトイレで水を入れた翔吾はこぼさないように気を払いながら麦穂の元に戻った。


 「ほらよ」

 「助かります!!」


 そうして水を濡らした紙に色を乗せ、桜を描いていく。翔吾は隣に座り込むと、その絵が出来上がっていくのを眺めていた。麦穂の描く世界は鮮やかで美しい、そして何より息を呑む迫力がある。いつも楽しそうに生きている麦穂が見ている世界はどんな色をしているのか、この絵を見れば少しわかる気がして翔吾は口角をあげた。好きなものがあってそれに夢中になれる麦穂を眩しく思ったのだ。

 しかし、麦穂はふとその筆を止めた。


 「飽きた!!!」


 そう叫ぶと仰向けに芝生に寝転んでしまった。そうして大きなあくびをこぼすと寝返りをうって目を閉じた。


 「はあ?!ふざけんな俺が水汲んでやったんだから最後までかけ」

 「一度飽きちゃったらもうノレないんです。翔吾君に会ってからが調子が良すぎたんですよ」

 

 翔吾が強めにこずくが、麦穂は意に介さない。諦めた翔吾がスケッチブックを手に取りページを捲ると、途中までしか描かれていない絵がたくさんあった。どれもこれも最後まで描けば素晴らしい絵になっただろう。芝生の上に寝転がり、頭の下で手を組んで目を閉じる麦穂の顔をまじまじと見つめた。


 「もう描かないのか?」

 「ノレない時は書きません。努力は嫌いなんです」

 

 ……恐らく言葉に嘘はない。本当にノレていないのだ。気分屋の人間はそういう些細な理由で本気を出さない。というより、出せない。翔吾は奇妙な異なる人種を見ているようだった。こいつは気分で動いている。利益や理性、論理的な理由は一切なく、気の持ちようで力を十分に発揮しない。……翔吾からすれば理解不能、未知の生き物だ。


 「ハア、……じゃ昼飯にしようぜ」

 「いいですね!ドーナツ!!」


 むくっと起き上がった麦穂はウキウキとドーナツの箱を開け始めた。中から少し形の崩れたドーナツを取り出すと、大口を開けてかぶりついた。翔吾は財布をポケットに突っ込むと屋台に向かった。色々と見て回った翔吾は最終的にたこ焼きと焼きそばを買って、自動販売機で麦茶も二本買っておく。どうせ麦穂は飲み物を持っていないだろうから。麦穂のもとに戻ると、麦穂は口の周りにチョコレートをつけてドーナツを完食するところだった。


 「もう食い終わったのか」

 「でも、喉渇いちゃいました」


 翔吾は軽くため息をつくと「ン、」と麦茶を手渡した。


 「わあ、ありがとうございます!」


 ニコニコしながらペットボトルを開けて麦茶を飲む麦穂を見ながら、翔吾は焼きそばを買った時に渡されたウェットティッシュの袋を開けた。そして麦穂の名を呼ぶ。


 「麦穂」

 「?、なんですか…ムグッ」


 口の周りを拭いてやりながら、翔吾はなぜ俺がこんなことをしているのだろう……と遠い目をした。気分は園児のお守りだ。しかし幼児並みにほっとけないこいつが悪い。翔吾はやっと腰を落ち着かせると、割り箸を割ってたこ焼きを食べ始めた。しかし視線が突き刺さる。翔吾は観念した。


 「……口開けろ」

 「いいんですか!ありがとうござ…ムグッ」

 

 麦穂の口にたこ焼きを放り込む。翔吾は息を吹きかけて少し冷ますのも忘れない。翔吾は自分で思っているよりも面倒見が良かった。なかなかその面倒見の良さが発揮される機会はなかったが。そうして麦穂に時折分け与えながら、翔吾はたこ焼きと焼きそばを完食したのだった。

 ふと麦穂は自分が放り投げて転がっている筆を手に取った。翔吾は麦穂に視線をやって片眉を動かす。どういうわけか、麦穂のやる気は復活したらしい。筆を走らせる麦穂はものすごい集中力で絵の具を頬に飛び散らせながら絵を描き上げていく。美しい花吹雪の一枚だ。薄紅色の桜が満開に咲き乱れて、風に吹かれては花びらが落ちゆく。艶やかで鮮烈で美しい、いつもの麦穂の絵。翔吾はフッと笑みをこぼした。


 「やるじゃねえか……!」

 

 麦穂の頭をぐしゃぐしゃにかき回す。それは飼い主が芸の成功した愛犬を褒めるときのような仕草だったが、麦穂はイタズラ小僧のように歯を見せてケラケラ笑った。




 

 

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